2 アフター




「僕の名前は、仲条なかじょう……ひろ……」


 母親だと名乗る女性から教えられた名前を、何度も反芻する。

 いまいちピンとこないのだが、何度も繰り返し口にしているうちに、それが自分の名前であるかのような気もしてきた。


 記憶喪失と言われてもよく分からなかったけど、その言葉が何を意味しているかは理解できた。

 知識はある。しかし、自分の名前、家族のこと、その他一切にまつわる記憶が失われている……。


 学校の屋上から、転落したらしい。

 それで、僕は頭を打って数日寝込み、そして目覚めると記憶を失っていた……。


 医者は一時的なもので済むかもしれないし、今後もこの状態が続くかもしれないと言っていた。


 いろいろ説明されたのだが、正直いまの僕には何もピンとこなかった。

 僕にとって、病院のベッドで目覚めたのが始まりで、ある意味その場で誕生したようなものなのだ。それ以前の記憶はなく、それが不自然なことであるとは感じない。

 ただ、まあ、自分に関して何も憶えていないにもかかわらず、ここが病院で、放課後、学校の屋上から落ちた……その説明から情景を想像することが出来るくらいには頭の中に情報がある。そのことに違和感くらいは覚えた。


 幼馴染みを名乗る女の子が現れたときにも、そうした違和感を覚えた。

 僕は彼女を知らないが、彼女は僕を知っている。家族と相対した時もそれは同様だったが、彼女と――『春前はるさきゆう』と出逢ったとき、戸惑う家族を前にした時とはまた異なる動揺を感じた。


 胸がどきどきとしていた。それはまあ、心臓が動いているから当然なのだが――それを意識するくらい、鼓動が高鳴っていた。


 不安そうな、心配そうな、近づきたいけど恐ろしくて手を出せない……そんな表情を浮かべ、態度を見せる彼女に、僕はもしかするとその時――恋を、したのかもしれない。


 それはもしかすると、雛がはじめて目にしたものを親だと思い込むように……意識を取り戻してしばらくし、落ち着いたころに現れた少女に心惹かれただけなのかもしれないけれど。




                  ■




 学校に復帰し、周囲とのかかわりに戸惑う僕を、春前さんはいろいろと気遣ってくれた。

 毎朝迎えにきてくれて、一緒に下校する――幼馴染みとはそういうものなのだろうか。

 それとも、彼女が特別で――もしかして、僕に気があるのかも、なんて。

 思いはしても、口には出せない。幼馴染みとはなんてもどかしいのだろう。


 どうにかして、彼女の本心を聞き出す……のは難しいので、引き出せるような、態度に表してもらう方法はないだろうか。


 僕が他に好きな女の子がいる……その子に告白する……なんて話せば、彼女はやきもちを焼いてくれるだろうか。


 ――あれ? なんだかこんなこと、前にも考えていた気がするな。


 ……それくらい、最近の僕は彼女にお熱ということだろうか。

 なんだか馬鹿みたいだな。これで彼女にその気がなくて、僕が自意識過剰なだけだったら本当に間抜けだ。


 でも――彼女の気持ちが気になるんだから、仕方ない。


 さすがに告白する、なんて嘘はつけない。その嘘に付き合ってくれる子もいないし。いやまあ、告白する場所を事前に春前さんに教えておけば……僕に気があるなら、彼女はこっそり覗きにきたりするのではないか。

 あるいは……フラれたと嘘の事後報告をすれば、何かしら彼女から良い反応を引き出せるのでは?


 ……そんなまどろっこしいことをするくらいなら、直接告白すればいいものを、と自分でも思う。しかし、幼馴染みという現状、そして告白が失敗した結果、今後の付き合いにも支障をきたす恐れを考えると……とてもじゃないが、相当な勇気が要る。


 まあ……気にはなるんだけど、別に、そんな急ぐことじゃない。彼女に好意を持っている他の男子が現れたわけでもなし。

 ただちょっと、ふだんと異なる行動をしたりして、彼女にその気があるかどうかを調べるくらいなら……、と。


 僕はその日、彼女を待たず、ひとり先に帰ることにした。

 用事があったと事後報告して、彼女の反応を調べようという魂胆である。

 ついでに誰か、適当なクラスメイトと一緒に帰れれば……春前さん以外とも交流を持てるし、僕も自立することが出来るだろう。相手が女の子なら、春前さんの気を惹けるチャンスにもなる。


 実は都合のいいことに、僕はとあるクラスメイトの女の子と登下校がよく一緒になるのだ。その子と一緒に帰っている風を装ってみよう。それを目撃した春前さんがやきもちを焼いてくれたら作戦成功――たぶん今日も、少し振り返ればそこに――



 ――そうだ――いつも、一緒になる――振り返った時、そこにいたのは――



 ずきり、と頭が痛む。痛んだ気がした。思わず足が止まる。


 一歩、遅れて足音が聞こえた。

 ひと気のない住宅街に伸びる僕の影。重なって、後ろに何かの影がある――



「ひろくん」



 あぁ、追いつかれちゃったか。勝手に帰ったこと、どう言い訳しよう。少しでも拗ねてくれてたら、ちょっと嬉しい――



 僕は振り返る。そこに怒った"春前"がいることを期待して――



「え――」



 それが誰なのか、僕には分からなかった。



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