夏の終わり
山に囲まれた村で、僕らは飽きることもなく遊びまわった。五時に鳴る鐘の音で別れて、お風呂で泥を落として夕飯を食べて九時前には寝る日々を繰り返した。しかし、今日だけは違う。八月最後の日曜日、いつも通りに神社へ行くと大人たちが忙しなく動き回っていた。
「それじゃあ六時にいつもの場所ね」
そう言ってお昼にはお互い家へと帰った。
やることもなく、奇妙な音を立てて首を振る扇風機の前を陣取って縁側から盆栽や花壇をぼんやりと眺めた。
遊んでいる時より何倍も進むのが遅い時間。かなり時間が経ったと思って時計を見ても十五分も経過していなくてがっかりする。
「楽しそうだねえ」
台所から戻ってきた祖母が言う。退屈さとは真逆の言葉に思わず言い返す。
「全然楽しくないよ。なんにもすることないし」
そんな僕の様子がおかしいのか皺だらけの顔をさらに歪めて笑う。
「もっと大きくなればわかるよ」
「ふーん」
サンダルを庭に飛ばしながら聞いていた。
「裏にいるから行く時に寄ってな」
それだけ言って台所へと帰ってしまった。腰が曲がっていて動きづらそうなのにとても動きが早い。
空気が抜けかけたゴムボールを壁に向けて蹴ったり、アリの巣に木の棒を突っ込んだりと暇を潰しているとようやく五時を回った。居間の鳩時計が可愛らしく鳴く声を背に裏口へと回る。
「行ってくるね」
畑で取れた野菜を洗っている祖母に声をかけた。
「早くないかい。祭りが始まるのは六時からだろう?」
「いいの!じゃあ行ってくる」
「待ちな、お金持ってないでしょ」
言われて自分が何も持っていないことに気がついた。
「ほれ」
四つ折りにした千円札を巾着袋に入れて渡してくれた。
「ありがとう」
普段であれば家に帰る時間。しかし、今日だけは違う。祖母に着せられた紺色の甚平を吹き抜ける夕風が心地良い。茜色に染まる世界を巾着袋に描かれた金魚が軽やかに泳いでいるようだった。
先に着いたいつもと時刻の違うバス停は見慣れない場所のようで不安と高揚の入り混じった気持ちになった。
夏でも少し涼しいこの町は夏をやり過ごすには良い場所だった。脚の周りを飛びまわる蚊を追い払っていると人影が僕の前で立ち止まる。
「おまたせ!」
夕陽を背にした彼女はいつもと違う人のようでなぜか緊張した。
「行こっか」
半歩前を歩く彼女は水色の浴衣を着ていた。綺麗な花の柄が入っていたけどそれがなんという花なのか当時の僕にはわからなかった。ただ彼女が来てから不安は一切なくなって心地良い浮遊感だけが残っていた。
参道の周りに屋台が軒を連ねていた。いくつもの匂いが混じった独特で嫌いではない匂いが鼻孔をくすぐる。巾着袋に入れた千円の使用用途を考え始めた。
「なに食べたい?」
腹の虫がなっていた。温まったソースの匂いに導かれるままに焼きそばの屋台前までやってきた。
「これ食べたいな」
「じゃあ私も食べよ」
二人で列に並んでいた。そんなことすらも思い出に残るような日だった。
「半分なくなっちゃった」
一枚の紙から一枚の硬貨へと変わったことに少しの寂しさを感じたけれど、それ以上の高鳴りが体を動かした。
「あれ、かわいいな」
彼女はお面が無数に並べられた屋台を指さした。
「どれ?」
アニメのキャラクターから般若まで様々なジャンルのお面があった。
「この狐の」
ひとつを手に取るとそのまま買って頭につけた。あまり惹かれるものではなかったけれど、彼女の左耳の上に付けられた途端とても魅力的なものに変わった。
「かわいいでしょ?」
「似合っていると思うよ」
気恥ずかしくて目を逸らしながら言った。
「同じのつけようよ」
「黒の方がかっこいいから黒にする」
彼女が取ったお面の隣にある同じ柄の色違いである黒い狐のお面を買って頭につけた。
「似合ってるよ」
本気のような、からかうような絶妙な声音で彼女は言った。
「そ、そう?それより早く焼きそば食べよ」
早足で本殿に向かって歩き出した。
「はやいー。待ってよ」
時刻は七時を回っていたと思う。時計はなかったけれど、人々がだんだんと見晴らしのいい場所に移動していた。
「いただきます」
しっかりと手を合わせてそれから箸をつけた。不格好に割れた箸でたくさんの麺を一気に頬張った。温かく濃密な味わい。紅しょうがのアクセントに踊るかつおぶし。いつでも食べれるようでありながら祭りぐらいでしか食べることがない焼きそばの味を噛みしめて夢中で食べていた。
「おいしいね」
口いっぱいに詰まった焼きそばのせいでしゃべれないので大きくうなずいた。
「そろそろ移動しよっか」
食べ終わる頃には神社前の屋台からは目に見えて人が減っていた。
「あれだけ買ってくる」
そう言って彼女は僕を置いて駆けていった。あとから追いかけていくと彼女はりんご飴を持っていた。
「やっぱりお祭りといえばこれだよね」
そう言って微笑む彼女を見て浮かび上がるこの感情はなんなのか。
思わずお面で顔を隠した。
「第δ*⁇回 〇△×地区花火大会を開催します」
音割れの激しいスピーカーを通して開催が告げられた。
河川敷に人々が集まり各々が好きな姿勢で空を見上げていた。僕らも河川敷の芝生に腰かけて対岸の打ち上げ場から花火が打ち上がるのを待った。
頬を撫でる風は夜の澄み切った部分だけを掬い取ったようで心地よかった。
夏夜の匂い。
一筋の光がわずかに揺らぎながら空へと昇っていく。黒画用紙にインクを垂らしたような閃光が網膜を刺激し、僅かな時差を経て心臓を打つ音が響き渡った。そのひとつを皮切りに幾筋もの光が夜空を駆け上がり次々と花開いた。
しばらく見惚れていると肩を叩かれた。視線を下に戻すと彼女が何か言っていた。しかし、まさに連射のピークを迎えている華々のなかで声が聞こえない。自然と二人の距離は近くなって、触れるほどの距離まで近づいてようやく声は聞こえるようになった。それだと言うのに彼女はそこまで来ると話すのをやめてしまった。
「なんて言ったの?」
一際大きい花火が打ち上がる。痛いほどの衝撃が心臓を打ちつけた。
「なんでもない……あ、そろそろラストだよ」
みんな川面に注目していた。
バチバチバチ
視界の左右に光が灯り、夜の暗さを分かつように火の粉を散らしながら中央へとその光は面積を広げてゆく。こぼれ落ち、水へと飛び込んでいく火の粉たちの作り出す芸術にすっかり魅了されてしまった。火花の滝はおよそ二百メートルにもおよび、強烈な魅力は孕んでいた。
「すごかったね。ナイアガラ」
最後の光が消え、終わりの放送があってから無意識に止めていた息を吐き出した。
「うん」
それ以上に言葉が出てこなかった。ここでの祭りでは花火が終われば全ての催しが終わりとなる。つまり花火の終演は祭りの終わりを意味していた。先ほどまでは微動だにしなかった人の群れが蜘蛛の子を散らして帰ってゆく。それに逆行するように僕ら二人は立ち尽くしていた。
祭りで舞い上がった気持ちが現実へと引き戻されていく感覚。なんとなく感じていながらも考えないようにしていたことが脳裏をかすめる。
「終わっちゃったね」
静けさを取り戻した川辺で消え入りそうな声で言った。鈴虫が鳴いていた。
「帰ろっか」
明るさを装った声であることは当時の僕でもわかった。先を歩き出した彼女の横顔を照らす月明かりが涙に見えた。
「来年も来るよね?」
すがるような声音。これまでに聴いたことのない声だった。
「うん……」
うなずきながらもはっきりと言い切ることはできなかった。来年には受験を控えてこの町へ来ることを許してもらえないかもしれない。
「そう……だよね」
再び彼女は歩き出した。その隣に並ぶ。
「来年も楽しみにしてるね」
まるでいつも通りの笑顔。
このまま別れることもできる。
でもそれじゃダメだ。
この気持ちのままで居続けるなんて嫌だ。
「絶対来るから。必ず会いに来るから!」
爪が食い込むほど拳を固く握りしめた。
「っ⁉︎」
彼女が目を見開いた。それから満面の笑みを浮かべる。目には涙が滲んでいた。
「ありがとう」
その言葉は優しく胸に染み渡った。先ほどまでの強烈な感情はなくなり、穏やかで暖かな感情が心を埋め尽くしていた。
「帰ろ?」
語尾の上がった軽やかの声とともに人の姿も見えなくなった夜の田舎道を二人で歩いた。
どちらからともなく繋いだ手の熱さが今でも忘れられない。
夏の上澄みに君がいる 明日乃鳥 @as-dori
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