覆水盆にカエサル
春川風
第1話
坂江猿彦は学生生活の強制イベントである校長の長話で、ぼんやりと脳内に浮かべる言葉があった。
『来た、見た、勝った』
時のローマ将軍カエサルが自軍の勝利を知らせた手紙である。簡潔な単語三文字だけの手紙は目まぐるしく変わる戦場でもさぞ喜ばれただろう。坂江は世界史の点数は良くないが、テストに関係しないような話はよく覚えているのだ。
「校長も意味のない話、短くすれば良いのに」
愚痴は誰にも届かない内に消えてたものの、一度生まれた文句は対象を変え、次から次へと溢れ出していく。
「体育館の空調が効いてなくて寒い」
「仲の良い友達が離れた場所に居る」
「前に居るやつがウトウトしている」
ドン、と軽く前列のクラスメイトを小突くと大袈裟に跳ねて、周囲から押し殺した笑いが漏れる。
坂江も暫くは口角を上げて楽しんでいたものの、担任が様子を伺っているのに気付いて背筋を伸ばし、顔を引き締めた。
担任が近くに来ないか見渡していた坂江は、視界に長内南志見が目に入り慌てたように目を逸らす。
坂江と長内は幼馴染だ。隣家に住んでいるので家族付き合いがあり、幼いころは疲れ果てて寝るまで一緒に遊んだ仲である。しかし小学校高学年頃から次第に疎遠となって、今は母親伝いで情報が入ってくるぐらいだ。幼稚園時代から高校までずっと同じだが、特に会話することもない。
「(妙だな)」
疎遠となって言った理由の一つに、坂江は不真面目でお調子者な一面があり、真面目な長内とは水と油のように意見が対立することが多くなったことがある。坂江が何かやれば長内が注意をするというのが同級生の共通認識だ。やり取りを見たクラスメイトが夫婦漫才みたいだと火に油を注ぐので、二人の良い争いは先生が来るか授業が始まるまで収まらない。
調子が狂うなと坂江はもう一度長内の居る列を向いた。すると、思いのほか色白い顔が目に入る。蒼白と表現する方が正しいだろう。
「(そういや、体重気にして朝ごはん食べない日が多いんだっけ?)」
坂江の頭を過ったのは母親伝いで耳にした情報だ。授業じゃあんなに真面目なのにと馬鹿にしつつ様子を見る。
やはり体調が優れないのか、馬鹿みたいに目を見て話を聞く長内が珍しく俯いたままである。今となってはまともに話すことはないが幼馴染の縁もあり、放っておくのも気が引けるし、と俯く長内の横に移動していった。
「……え?」
「体調悪そうなんで保険室連れてきます」
何事かと近寄ってきた担任も、長内の顔色を見て頷く。
「長内、保健室まで歩けるか?」
「あ。平気……です」
「分かった。坂江、頼んだぞ」
坂江は必死に口角を抑え、平常を心掛けた。内心、校長の長話なんて聞いているだけ時間の無駄だと思っている所に堂々とサボれる理由が出来たのだ。担任の丹任三郎が学年主任で体育館を離れづらいことも織り込んだ計画である。
長内は見るからに嫌そうな表情だが、体調が悪いせいで顔を顰めているだけと捉えられた。反論しようとして、うぅと呻いたきり腹を押さえて動かなくなった。
「長内、肩掴まって」
周囲から高めの吐息が漏れる。全校集会の最中でなければ口笛で見送りされたことだろう。
「……」
長内は黙ったまま坂江の肩に掴まり寄りかかる。
ズシリと人間の体重が加わったことで身体の重心がズレたのか、坂江はよろけつつ反対側の腰を押さえて歩き出す。
校長の話に飽きた生徒達は心配しているそぶりを見せながら、運ばれていく生徒の方を気にしている。静かに集中して聞くルールを守れない生徒達に見守られ、体育館から二人の影が消えていった。
『体調不良、女子、一人』
養護教諭の新保育士はスクロールをしようとしたり、メールの文面を眺めてはスマホケースを閉じて開いてを繰り返したが、送られた文面が変わることはなかった。
「朝会長引いて誰かしら保健室に来る、いつものことです」
新保は愚痴りながらも、「参加免除されてるから構いませんけれど」と言葉に出しており、機嫌は悪くないようだ。鼻歌交じりに体温計と来室記録表をベッドの横に置いてシーツを引っ張る。シワになっている部分がマシになったが、跡は残ったままである。
コンコン。
ノックの後、二人の人影が保健室に入ってくる。
体調不良が女子とだけ聞いていた新保は動揺から男子に引率かどうかを尋ねる。
「ハイ。1年3組の坂江猿彦で、こっちが同じクラスの長内南志見」
「長内さんね。多分貧血でしょうから、横になって休めば回復すると思いますよ。念のため熱がないかだけ計らなくては。坂江君は来室記録の記入お願いします」
「記録つけるの面倒じゃないですか?ぶっちゃけ誰が見るの?」
「誰も見ないし面倒だけど、問題発生時に責任問われるの先生なんです。よろしくお願いします」
「(なんて面倒くさがりな……)」
坂江は心の声を押さえ、記録表に長内南志見を書き足した。直接聞いたわけではないが、可愛くないから平仮名表記にしたがってるというのを母親伝いに知っている。
「新選組のメンバーに居そうで好きなんだけどな」
「人の名前で遊ばないで。嫌いになる」
養護教諭は気が付いたら保健室から消えていたので、現在室内は二人きりだ。
長内はベッドで足を伸ばし、体温計を差し込んだ状態で腕を組んでいる。ポーズも相まり、威嚇の圧力が強く出ている。
そんな様子も坂江は気にせずといった風に続ける。
「親からもらった大事な名前だろ?」
「嫌いになるのは名前じゃなくてアンタの方だから」
長内は身体を震わせるとブランケットを手繰り寄せると、静かな口調で問いかける。
「だいたいさ…今は南志見って呼ばないでしょ?」
それは心臓に杭を刺されるような衝撃だったと後に語った。
疎遠になった理由のひとつが仲の良さを馬鹿にされたからだ。特に名前呼びは揶揄われることが多く、気が付けば名前で呼ぶこともなくなってしまった。あまつさえ暫く会話しないうちに仲が良かったことも過去の出来事のように感じはじめていたのだ。
「長内だって名前で呼ばない癖に、アイツとか、馬鹿とか。」
それは心臓に杭を刺されるような衝撃だったと後に語った。
いつまで経っても小学生のころから変わらず、やれ話しただけで好きなのかと揶揄ったりする気質がどうも合わないのだ。男子を内心馬鹿にする気持ちを暴かれたのである。
暫しの静寂が続く。
互いに1ミリも動かず、視線を合わせず、相手の動向を待つ無為の時間。
―ガラガラ
停止した時間を動かしたのは扉を開け放つ音。
ペットボトルを抱えた養護教諭の姿。
固まったまま動かない長内と坂江。
「長内さん、水飲める?……すごく静かだったけど、二人とも体調悪いんですか?」
「あ……いえ、いえいえ、なんでもないです」
「頭がクラクラする感じが続いているんです」
2人は同時に弁明をしたので、養護教諭は内容を聞き取れなかった。
しかし名前呼びの話を始めた頃からから入る様子を伺っていたため、今は仲良くないように見えるが幼馴染であることを知っている。
「そうですか?少し席を外すので、体調悪くなったら私の携帯に連絡ください。頼みましたよ、坂江さん」
「はい?」
そして思春期にはありがちなすれ違いにも思えるので、話し合えば上手くいかないかと余計な世話を焼く。
即座に保健室の外に出ると、しゃがんで影を見えないようにしながら扉に耳を当て、中の音を拾いにかかる。
「……」
坂江は悩んでいた。疎遠になった切っ掛けは自分からそうなるよう仕向けたからだ。だが賽は投げられた。勢いでお前も原因なんじゃないか、と聞いて長内が自分も悪い部分があるんじゃないかと罪悪感を背負うのは違う気がしていた。自分の失敗は誰も責任を取ってくれはしない。ここを何とか切り抜けよう。まさに攘夷志士たる気概である。
「猿彦」
「何?」
「……呼び方。これで良いんでしょ?」
「そういう問題か?」
「この間もモンキー呼びされて怒ってたそうじゃない?次から名前呼びにする。解決でしょ?」
「待って欲しい」
これ以上ないほど絶好の機会。有耶無耶になる前に話しておきたかった。
「話したい」
「今更、何?」
坂江は小学校高学年のことを思い出した。鮮明に記憶に残っている。あの日、坂江は仲のいい男子5、6人でタイヤ渡りをしていた。そのうち好きな女子の話になった。坂江は南志見以外の女子とそんな会話をしなかったので、好きという感情なのか分からなかった。漠然と何があっても一緒に居るのが自然なことだと考えてすらいた。
だから「幼馴染で一緒に居るって好きなの?」の問いも「好きだから一緒に居るわけじゃない」と答えた。納得せず一緒に居るなら好きなんだろうと言われ、なんだか癪に触って、「好きじゃない」と何度も言っているうちに南志見呼びも恥ずかしくなって、家に行くのも避けるようになって、後は現状の通りである。
「小学校の時、いきなり南志見に冷たくしたこと反省してる」
「今更過ぎる……」
「今更、なんだろうけど」
長内の言うことは最もである。坂江が態度を急変したとき、南志見は事情も知らず困惑していた。暫くは遊びに誘ってくれたものの、断り続けるうちに声を掛けてくることもなくなった。
「俺が撒いた種といえ、あの態度は酷かったと、ずっと謝りたかったから」
「……」
「クラスでそんな真面目じゃないし、家だと親が見てるから、って言い訳して結局謝れなかった」
「……」
「本当にごめん!」
頭を下げ、誠意を示す。
「謝れば許してもらえると思ってるの?」
「今謝らないと一生機会がないかもしれない。後悔したくない」
「それ、猿彦が謝りたいだけじゃない?」
「ずっと、謝りたかった」
「……」
「最初に長内って呼んだ時の顔で、誰に馬鹿にされても良いから謝るべきだった」
脳裏には今より小さい長内の寂しそうな表情がこびりついて離れなかった。長内だってもう関わりたくないと言う可能性も考えられるかもしれないが、坂江のことを嫌っているとはあまり考えてなかった。
モンキー呼びで怒った話はバイトに入ってる時のことなので母親経由の話だ。
どうでも良い相手のことを記憶に残さないだろうと坂江は踏んでいる。
しかし何時養護教諭が戻ってくるか分からない状況で長話は避けるべきだろうと思い至る。
「付き合ってもらえないかな?」
「え?」
坂江は財布から美術館の無料招待券を取り出す。その場の思いつきであったが、次の約束を取り付ければ話す機会も生まれるだろうという判断。
「待って!確かに幼馴染だし、昔から知ってるけど最近は話してもいないし、せめて段階踏ませてよ!」
「うん?どういうこと……」
「……」
「ごめん、美術館一緒に行こうと思って」
世の中は複雑そうに見えて、実は単純な機構で出来ている。ただ、自分たちの手で捻じれてしまう。
弁明を続ける長内も5分後には落ち着くだろうと、坂江は言い方が悪かったと謝罪し、宥めるのだった。
覆水盆にカエサル 春川風 @harukawa-fooooooo
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