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 どうして落語なのかは覚えていない。一人で、しかも身一つでできるところに魅力を感じたとか、そんなところだろう。

 気付いた時には夢中になっていた。そして、自分もいつか噺家になるのだと思い込むようになった。だから、中学を出ると当然のように蝶腹亭一門の門を叩いた。幸い、病気のために徴兵も免れた。人生の、恐らく最も瑞々しいひとときを落語に充てられたのは、この病が唯一もたらした幸運だろう。

 もちろん、不運の方が断然多かった。稽古や雑務で少しでも無理をすれば、三日は寝込むことになった。こんなひ弱な若造を、師匠はよく弟子に迎えたものだと今でも思う。まあ、世の中が地震やら疫病やら戦争やらで慌ただしかった時分のことだ。落語をしようなんて若い人間が、他にいなかっただけなのだろう。師匠とて、自身の芸を後世に残したかったに違いない。そのためには、病弱だろうが何だろうが、後を継ぐ人間が欲しかったのかもしれない。

 師匠から〈蝶腹亭半角〉の名をもらい受け、俺は体の許す限り芸に打ち込んだ。そのうちに、寄席へ出る機会も与えられ、高座へ上がるようになった。

 舞台から見渡す客席に、人影は疎らだった。世の中の目つきがどんどん鋭くなっていった頃で、笑うことが何か不謹慎なこととして糾弾され始めていた。噺家だけでなく、芸人全体への世間の風当たりが強くなり、ただでさえ少なかった寄席も、更にその数を減らしていた。御上からの圧力というよりは、お客が自ら遠のいていったのが原因だったように思える。

 誰もいない客席に向けて落語をするのも珍しくなかった。それでも、心が挫けることはなかった。人を笑わせるより、自分が落語をしたいという気持ちの方が強かったからだろう。

 既に死に体だった協会の序列に則り、俺は前座から二ツ目に、昔だったらあり得ぬ早さで昇進した。これもひとえに人手不足の賜だった。二ツ目に上がって三年も経たないうちに、今度は真打昇進の話が出てきた。誰でもいいから若いのを真打として担ぎ上げ、噺家という文化がまだ存続していることを示したかったのだろう。俺としては落語ができれば何でもよかったので、これを引き受けた。他に、世の中に対してできることもなかったので、他人が認める形で落語を続けていけるのなら、それに越したことはなかった。

 真打昇進に伴い、師匠が〈蝶腹亭全角〉の名を俺に譲ると言い出した。自分は噺家をやめ、隠遁するというのだった。聞けば、芸人を続けることに疲れたのだという。世の中の誰も、笑いなど求めていない。そうなると、自分が落語をする意味がわからない。師匠は――酒のせいもあったかもしれないが――目を真っ赤にしてそんなことを言っていた。

 かくして俺は〈蝶腹亭全角〉となった。誰も欲しがらない王冠を被せられた気分だったが、それでも喜びはあった。

 遠くで行われている戦いが、しかし俺たちの生活にも影を落とすようになってくると、最後まで残っていた寄席が閉鎖された。そうしろと誰かに言われたというより、席亭が自分から〈自粛〉という道を選んだようだった。

 食い扶持を失った俺は必死で仕事を探し、軍の慰問団にどうにか体をねじ込んだ。世間的には笑いは居場所をなくしていたが、兵隊の精神衛生を保つためにはやはり有効だったようで、軍は笑いの類いを必要としていたのだ。

 慰問団といっても、大昔のように戦地へ赴いて兵営や何かで芸をするわけではない。誰もいない狭いスタジオで、カメラに向かって話すだけだ。そこで撮られた映像が、各地の基地へ、もしくは兵士の頭に組み込まれた電肢へ直接届けられる。何が味気ないといって、撮影の時に笑う者がいないのはもちろん、それを見た兵士が笑っているかもわからないということだ。俺たちは狭い牢屋のような場所で、来る日も来る日もそれぞれの芸をやらされた。何かの刑なのではないかと思うほど、延々と。

 戦争は当初の予想に反して長引いた。だが、戦争が続く限り、俺たちの仕事がなくなることもなかった。俺は落語を続けた。古典は一通りやったのではないかと思うほど、膨大な回数をこなした。俺の映像はどこで消費されていたのかはわからない。だが、いつまでも撮られ続けたということは、それなりに需要はあったのだろう。俺は昔の名人たちのアーカイブ資料を漁りながら、一人で稽古に励んだ。それを、無人のカメラの前で披露した。誰かに見られているような、誰にも見られていないような状況で、落語をやり続けた。

 その間に、周りの噺家は一人二人といなくなっていった。皆最後には、先代の全角と同じ顔つきをしているように見えた。そして、同じ言葉を残して去って行くのだった。

 戦争が終わるまでの九年の間に、芸を生業にする人間はかつての十分の一もいなくなった。落語家などというものは、俺を入れても五人もいなかったかもしれない。残った一門より、なくなった一門を調べる方が簡単だった。そんな案配だから、俺一人でも残っている蝶腹亭一門は、まだ幸せというべきだった。

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