3-5

 仕事がない時の三日は百年にも等しいが、猶予として与えられた三日は一日にも満たない。

 明日が返事の期限という前の晩、寄席の出番があった。馴染みの席亭からの「次に出る時は真打かな」というお愛想も適当に受け流し、俺は高座へ上がった。

 客席は満員御礼。聞き慣れた満場の拍手に頭を下げ、話し始める。

 時事を盛り込んだマクラでくすぐってから、本題に入る。「酢豆腐」だ。集中せねばと思う一方で、姐さんへの返事をどうすべきか考える。落語をしながら、同時に落語をどう続けていくかと悩むのは皮肉な話だ。電肢のおかげで支障はないが、何か道徳的なものが歪んでいる気がする。

 もし〈全角〉になるのなら、と俺は噺をしながら考える。やはり、俺の〈全角〉を作らなければならないのではないか。

 生き写しでは意味がない。師匠が継承したかった芸の正体が何なのか、今はまだわからないが、コピーをそのまま残すことではない気がする。

「おめえは、そのままでいいんだぜ」

 師匠は、最後にはそう言っていた。

 そのまま。

 俺は、俺のままでいいってことか?

 俺のまま。

 俺のままって、何だ?

 俺らしいってことか?

 俺らしさ……。

 俺が、俺の思うようにやっていいってことか?

 俺がいいと思う形で、自由に。

 俺の落語を。

 俺の〈全角〉として――。

『違えよ』

 思考が途絶えた。

 冷や水を浴びせられた後のように、元通りの意識を取り戻すまで時間が掛かった。

 俺の声ではなかった。噺の登場人物のものとも違った。少なくとも、物理音声ではなかった。だが、声は確かに。頭の中に響いたのだ。

 幻聴で済ませるには、あまりに鮮明だった。電肢での通話と同じぐらい、現実的な響きを持っていた。あるいは、本当に通話なのかもしれない。落語と黙話を同時にやると、さすがに頭の奥が痺れるが、それでも俺は頭の中で声の主に呼びかけた。

『誰かいるのかい?』

『間抜けなこと聞いてんじゃねえよ、馬鹿』師匠の声だった。『人のことインストールしておいて、いるかも鯨もあるかよ』

『インストールって……師匠? 師匠なんですか? やっぱりあれは夢じゃなかったってんですかい?』

『夢なんかで堪るか。俺はずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと、お前の頭ん中にいたんだ。お前が落語する様をこっから眺めてたんだ』

『いたならいたって言ってくださいよ。人が悪い』

『馬鹿。俺の芸がインストールされてるなんて知ったら、お前はますます頑張らなくなるだろ。死ぬまで二つ目ってことだって十分あり得るからな』

『そんなことは……』考えて、そんな未来がありあり浮かんだ。『……まあ、確かに。それじゃ、今までの落語は、全部師匠が喋ってたってことですか?』

『ちょっとは考えろ。今、お前は誰かに落語させられてんのかい?』

『いや、俺がやってますね』電肢のメモリを割いてはいるが、高座で噺をしているのは俺の意思であり、意識もある。誰かに操られているというわけではなかった。『けど、じゃあ、師匠は一体何をしたんです?』

『俺は何もしてねえよ。お前が俺になったんだ』

『もう少しわかるように言ってもらえませんか』

『お前が見たって夢の後、急に落語が上手くなっただろ』

『はい。なんだか憑きものが取れたみたいに何もかもが上手くできた気がして、落語が急に楽しくなりました』あのときの感覚は、未だに残っている。『あれは師匠の仕業なんで?』

『仕業ってえと聞こえが悪いが、まあそうだ。俺のデータをインストールしたからこそだな』

『みんなが師匠の生き写しだっていうのも』

『お前の根底に俺がいるんだ。よほど気をつけねえ限り、そうなって当たり前だ』

『俺は本当に、師匠になってたってわけか……』

『けど、お前はそれじゃあ不満なんだよな?』

『不満って、わけじゃあ……』残り少ないメモリで考えた。不満がないわけではなかった。

『まさかお前がそんな野心を抱くとはな。計算外だったぜ』

『師匠は』と、俺は呻くように言った。『俺をどうするつもりだったんですか?』

『そんなのお前、決まってるだろ。俺の後を継がせて〈全角〉にするんだよ』

『俺もそのつもりです。だからここまで、必死にやってきたんです』

『でもお前は』白く光る抜き身のような声で、師匠は言った。『お前の〈全角〉になろうとしただろ』

 切っ先を喉元に突きつけられている気がして、息を呑むのもままならなかった。

『だ、だって……』俺は切れ切れになりながら思考した。『それが、俺が〈全角〉になるってことでしょう?』

『馬鹿だな、お前は』ため息と共に、師匠は言った。『馬鹿のくせになまじ頭を使う大馬鹿だ。何にも考えず、大人しくやってりゃよかったものをよ』

『何を言ってるんです、師匠?』

『そのままでいいっつったのに、どうして余計な欲掻くのかねえ』

『師匠?』

『お前が余計なこと考えなけりゃ、こんなことしなくて済んだんだぜ?』

 師匠の声との会話に割いていたメモリが突然解放され、落語をしていた物理世界の認識が一挙に流れ込んできた。普通なら処理が統合され、落語を滞りなく続けられるはずだ。だが、この時は違った。俺は流れ込んできた〈外界〉を、受けきることができなかった。

 噺が止まった。口の中から、次の句が消えたのだ。

 代わりに、暗がりの客席が、妙によく見通せた。

 客席は満員御礼。

 つまり、眼が並んでいた。

 いくつもの眼差しが、俺を見ていた。眼。

 眼。

 眼。

 眼。

 眼、眼、眼。

 俺に向けられた、眼。

 喉に綿でも詰められたように、息が苦しくなった。胃袋が、中身を押し出そうと大きく波打つのが感じられた。

 俺は全ての苦痛を堪えようと歯を食いしばった。口の端から涎が垂れ、見開いた眼は眼窩を飛び出しそうだった。握った拳では爪を立てた。痛みで、飛びそうになる意識を繋ぎ止めようとしたのだ。

 誰も、俺が苦痛に悶えているなどとは思っていないようだった。めちゃくちゃな味付けをされた豆腐を食った演技だと思っているらしく、ほとんどが笑っていた。

『師匠……』俺は、揺らぐ意識の中で必死に言葉をまとめ、脳内の師匠に呼びかけた。『師匠は初めから……そのつもりで俺を……』

『芸ってのは、罪作りなもんだよなあ』師匠の声が聞こえた。『それに魅せられた奴を、どこまでもおかしくしちまう。肉体も人格も滅んでも、それだけは残そうだなんて考えさせるんだから』

『お前は……誰だ……』

『俺は〈蝶腹亭全角〉だよ』

『違う……師匠はこんなこと……』

『お前が言ってる〈師匠〉ってのは、人間の方だろ』〈蝶腹亭全角〉が言った。『だから最初から言ってるじゃねえか。俺は〈芸〉だよ』

『〈芸〉……』

『芸人を、芸人たらしめる核の部分さ』

『師匠の……』

『芸に溺れろ、半角』

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