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 その後は、他に行く宛てもないので弟子入りし、稽古稽古の毎日を送った。

 師匠は頑なに、芸を覚えるのに電肢のストレージを使うことを禁じた。曰く、そんなことをしたところで、先達のコピーにしかならないから、とのことだった。

「体を使って芸を身につけろ。芸を、自分の血肉にするんだ」

 元々物覚えが悪いたちである上、あったかどうかも定かでない大昔が舞台の噺ばかりだ。覚えるのが苦痛ではなかったといえば嘘になる。

 おまけに俺には――これは舞台に出て初めて知ったことだが――弱点があった。

 人の眼が駄目なのだ。

 小さい頃から人前に出るのが苦手だったとか、そういうのではない。決して得意ではなかったが、体が拒否反応を示すほど嫌いだったわけでもない。それがいつの間にか、駄目になっていた。拒否反応が、出るようになっていた。

 思い当たる節はあった。脳の電肢デバイスだ。そこにあるデータが、記憶が、俺に、大勢の眼差しに対する恐怖を強要しているのだ。

 データの正体は、やはり従軍中の任務のものだろう。俺は誘導弾の眼を通して、あまりに多くの人間の、死に際の眼差しと対峙し過ぎた。軍人から一般人まで、中には子供まで、恐怖に染まった眼をこちらへ向けていた。

 着弾すれば、全てが終わる。戦場では人が吹き飛び、俺はログアウトして次の誘導弾と脳を繋ぎ、兵器となる。そんなことを繰り返しているうちに、得体の知れないデータが焼き付いたのだろう。だが、どれだけストレージ内を探しても、それらしいものは見当たらなかった。あるいは、削除できないほど深く手の届かない場所に、根を張ったのかもしれなかった。

 幸か不幸か、対処する術はあった。酒だ。アルコールで脳を鈍らせれば、他人の眼差しに対する恐怖は薄れた。それも、段々と酒量を増やしていかなければならなかったが。

 結局のところ、俺は限界が近かったのだ。過去の記憶に苦しめられ、それを打ち消すために飲んだ酒で体も仕事も蝕まれる。自分自身と崖に向かってデッドヒートを繰り返しながら、断崖へ向けてダイブする瞬間が来るのを待っていたのだ。


 そういう地獄を振り返られる位置に、いま俺はいる。

 あの、師匠のデータをインストールした夢(誰に言っても〈夢〉として扱われる)を見て以来、俺の進む道は、断崖から逸れていったように思う。いや、確実に逸れていた。

 大きく変わったのは、お客の眼差しに晒されても、体が変調を来さなくなったことだ。しらふのまま高座へ上がっても、普通に噺ができる。むしろ頭がすっきりして、噺の隅から隅まで一つの世界として、自分で構築しているという実感が湧いた。

 初めて、落語をするのが楽しいと感じている。天職とさえ思っている。

 師匠の声が聞こえるなんてことは、一度もない。あれ以来、夢枕に立たれたこともない。やはり電肢にはそれらしいデータがインストールされた形跡はなく、ログにも残っていない。本当に夢だったのだと、今では思うことにしている。

 まあ、それならそれでいい。俺はどうにかいい方に、方向を変えることができたのだから。

 ツキとかそういう類いのものを、自分にない頃は一切信じていなかったが、いざ回ってき始めると、やはりあるのだと思うようになった。〈心持ち次第で変わるもんだな〉なんて日和った考えも浮かぶようになった。

 物事はトントン拍子で進んでいった。寄席に俺目当てで通う客が出始めたと思ったら、出番が後ろへ下がり、他の小屋からも声が掛かるようになった。寄席だけでなく電網メディアの類いからも次々に仕事が舞い込み、飲み屋へ顔を出す暇どころか寝る時間すらなくなった。気付けば英数と、放送局の廊下ですれ違う回数も増えていた。

あにさん、どうも。最近はお忙しいようで」

 一切の皮肉ぽっさのなさが、却って一番の皮肉のように思え、俺は口を曲げた。

「英数先生には敵いませんよ」

「兄さんなら、いつかこうなると思ってました」英数はこちらの皮肉など気付いていないようで、「元々、実力はあったんですから」

「〈やればできる子〉だってか。お褒めにあずかり光栄だよ」

「すみません、生意気を言いました」

 傍からは、俺が奴を一方的にいじめているように見えるのだろう。奴は得な外見を持っている。俺でさえ、胸の隅にジクジクと罪悪感を感じるぐらいだ。

「でも、僕は信じてました。本心からそう思います」英数は言った。「兄さんは、いつか大きな舞台に上がる人だって。やっぱり師匠の名前を継ぐのは――」

 そこまで言いかけて、どこかのお偉方が俺たちの話に割り込んできた。英数の手を取り、肩や尻を触りながら美辞麗句を色々と並べていた。英数はイヤな顔一つ浮かべず応じていた。お偉方の話が一段落すると、俺を紹介する余裕さえあった。お偉方は、俺には指一本触れてこなかった。英数とはそれきり、話を再開することなく別れてしまった。

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