3-1
思えば、この世界へ入ったきっかけは、決して落語が好きだからというわけではなかった。戦争が終わり、例のことがあって除隊した後で、他にすることがなかったところを師匠にスカウトされたのだった。あの時のことは、今でもよく覚えている。というか、電肢のストレージに保存してある。
「お前さん、兵隊かい?」
池袋のブラックマーケットの飲み屋で、声を掛けられた。使い古した電灯がチカチカ瞬いてるような安い店に似つかわしくない、紋付き袴姿の初老の男が、カウンターの並びで猪口を手にしていた。
「〈元〉な」俺は答えた。一張羅と化していた官給品のシャツを着ていたから、それとわかったのだろう。「おっさんは何者だい? こんなとこにそんな綺麗な形(なり)して来ちゃ、かっぱらいにでも遭っちまうぜ」
「ジジイの身ぐるみ剥いでまで売るほどのもんじゃねえよ。綺麗に繕ってるだけだ」
おっさんは痩せぎすで背も低く、腕力があるようには思えない。それでいて隙がない。どこから手を伸ばしても、手元の扇子でピシャリと叩かれそうだった。
「兵隊ってことは、どっかしら電化してるんだろうね?」空いた猪口に酒を注ぎながら、おっさんは訊ねてきた。
「まあね」俺は口角を上げた。「どこだと思う?」
「頭、だろう?」
一発で言い当てられ、それこそ頭を叩かれたような思いがした。脳の電化は手足とは違い、ぱっと見にはわからない。髪を掻き上げれば額に手術の痕こそ残っているが、おっさんの位置からは見えるはずがないし、そもそもこの場では晒していなかった。
俺は、声の震えを押さえながら言った。
「どうしてわかった」
「おや、当たりかい。一発目で当たるとはね」
「カマ掛けやがったのか」
「頭の先から言ってきゃ、いつか当たると思っただけだよ」
「おっさん、さては芸人だな?」
「へえ。どうしてそう思う」
「人を小馬鹿にしたような物言いが、誰かを嗤って笑いをとる芸人のやり口そっくりだ」
「ずいぶんとイメージ悪いじゃねえか。まあ、遠からずってところだけどよ」おっさんはクッと猪口を呷り、それから言った。「お前さん、落語は見たことねえか?」
「あの、舞台の真ん中に座布団敷いてやるやつか?」ぼんやりと画は浮かぶが、〈知っている〉といえるほどの情報は持っていなかった。
「まあ今時そんなもんか。あの法律で、芸事は相当やられたからなあ」昔を懐かしむような色が、おっさんの横顔に浮かんだ。「戦争が始まる前のことだよ。知らねえだろ」
「子供の頃から世の中はずっと戦争だったからな」だから、それが終わって何をしていいかわからずにいたのだ。
「昔はよ、面白えことがたくさんあったんだぜ。人を笑わせようとする連中も、手段も、溢れてた。落語だってその一つだ。大勢の噺家がいて、流派だっていくつもあった。江戸時代から続いてる名前だってあったんだ」
「へえ、そう」
「興味ねえか」
「興味がねえというより、想像ができねえんだよ。こっちは生まれてこの方、ふざけることは不謹慎だって教わってきたんだから」
「ふざけるのと面白がらせるのは違うぜ」心外そうにおっさんは言った。「落語は自分の芸で人を面白がらせるんだ。笑われるんじゃなく、笑わせるのさ」
「そのダシに他人の馬鹿を笑うんだろ」
「お前さん、さっきから聞いてると、芸人に何か恨みでもあるのかい」
「別に」俺は言った。「ただ、間抜けを指さして笑い物にするような奴が気に入らねえだけだ」
「大層な正義感だ」おっさんは酒を注ごうとしたが、もう残っていなかった。カウンターへ向けて徳利を掲げ、追加を注文した。
「馬鹿にしてんのか」
おっさんは答えず、出てきた徳利から酒を注いだ。猪口を軽く傾け、再び口を開いた。
「お前さんは考え違いをしているぜ」
「何をだよ」
「落語は人を嗤うだけじゃなく、自分が嗤う奴も嗤われる奴も演じるんだ。嗤える間抜けを指させるかどうかは、噺家の腕に掛かってる。下手を打てば、嗤われるのは喋ってる本人だ」そう言っておっさんは、「飲み過ぎたな」と席を立った。それから徳利をつまみ上げ、「おい、これ飲んでいいぞ」
ずっと空のコップを握っていた俺の手元に、徳利が置かれた。それから、住所と電話番号の書かれたメモ書きも。
「落語に興味が湧いたらそこへ来な」と、おっさんは言った。いつの間にか勘定を済ませていたらしく、そのまま店を出て行った。
これが、蝶腹亭全角との出会いだった。
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