2-5
運転手が法定速度を守ったせいで、寄席に着いたのは出番の一分前を切っていた。席亭に嫌味を言われ、他も縁者たちに嗤われながら、俺は着替えて舞台へ出た。
拍手よりも遙かに出囃子の方が大きい。暗がりの中に客は片手で数えられるぐらいしかいないのだろう。いつものことだ。高座に上がり、座布団に座る。出てきた時よりも拍手は少ない。代わりに誰かが大きくくしゃみをした。
これでいい。俺にはこの方が性に合っている。
「えー、金の切れ目は縁の切れ目と申しますが――」口を動かしながら、ネタを考える。昨日の酒が残っているかと思ったが、意外に頭は冴えている。いつもはマクラの段階で思考がヨタヨタッとよろめいて、無理矢理本題に入るところが、今日はすらすらと言葉が出てくる。しかも、ちゃんと筋道の通った話になっている。この道を辿っていった先には本題がある。俺は、自分がどのネタをしようとしているのかわかっている。こんなことは、久しくなかった。
噺が頭の奥底から湧いてくる。言葉が、掘り当てた源泉のように滾々と湧き出てくる。止めどない。俺はそれを余さず使おうと、夢中になって口を動かす。口だけでは足らず手を、腕を、肩を、全身を動かす。
俺は江戸の長屋に住む粗忽者になり、その妻になり、大家になり、奉行になり、天狗になる。
彼らの誰でもあって、やがて誰でもなくなる。
俺の中から湧いて出た登場人物たちは、俺の体を離れ、独立した存在へとなっていく。
俺から出た物語は、今や俺のものではなく、俺の方が物語の中へ取り込まれる。俺が御白洲を作り出し、俺がその一部となる。
笑い声が聞こえる。
〈嗤い〉ではなく、〈笑い〉だ。それも、俺の意図したタイミングで。それこそ、オーケストラの指揮者がタクトを振り下ろしたらシンバルが鳴るように。
嗤われているのではない。
笑わせている。
芸で。
俺の話芸で。
俺が、この空間にいる全員の心を掴んでいる。
何だこれ。
クソ気持ちいい。
俺が、俺じゃないみてえだ。
まるで、師匠の高座を見てるみてえだ。
サゲを言って、頭を下げる。
いつもはよくてパラパラとしか聞こえない拍手を待っていると、不意を打たれる。暗がりの中に、客がこんなにいたのかと思うほどの拍手が押し寄せてきたのだ。
俺はあまりのことに呆気にとられ、しばらく腰が上がらない。溢れんばかりの拍手が自分に向けられたものだと呑み込むまでに、短くない時間が掛かる。袖から次の演者に呼ばれて、ようやく我に返った。
袖でも拍手で迎えられた。こんなことは初めてで、俺の落語を他人が「よかった」と褒めてくれるのも初めてだ。
「全角師匠を思い出したよ」奥で煙草を吹かしていた真打が言った。「いつの間に、そんなに練習したんだい?」
「へえ。まあ、ちょいとワケがありまして」俺は昨夜のことを話した。ありのままを話したつもりだが、周りはみんな小咄でも聞いたように笑っていた。
「そいつはいいや」真打が言った。「まあ、その調子で励むんだね。全角師匠も、草葉の陰からきっと見ているよ」
まるで信じちゃいないようだ。師匠が電子人格など残すわけがないと、この界隈の人間は誰もが思っている。俺だってそうだ。現に、昨夜インストールされたデータは電肢のどこを探しても見当たらない。証拠がないのだ。与太話と信じる方が遙かに容易い。
だが、夢だろうが現実だろうが構わない。
俺は、俺の中に、俺ではない何かを感じている。それが思い過ごしだろうが何だろうが、その存在を感じる俺は確かにここにいる。
それだけで十分だ。
俺は生まれ変わる。
師匠が、今際の際にもくれなかった〈全角〉の名を。
俺が必ずもらい受ける。
誰にも渡さない。
俺が、この手で。
俺の芸で。
必ず掴み取ってみせる。
「君、こないだと目つきが変わったね」真打が言う。「昔の全角師匠と同じ眼をしているよ」
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