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 目を覚ましたのは、電肢に直接、電話の着信を受けたからだ。何度もしつこくコールされていたらしく、通話を繋ぐと、相手は開口一番「やっと出た」と言った。掛けてきたのは姐さんだった。

『あんた、何やってんの? 時間になっても顔出さないって、〈品川〉から電話があったよ』

 頭の中で聞こえる声がいつもより余計に響く。視界に時計を表示させると、午前の出番まであと三十分を切っている。更に着信履歴を見れば、席亭からの記録がずらっと並んでいた。

「やべえ」

 俺は転がるようにベッドを出て、ズボンを履いて荷物をまとめた。髭も剃らず寝癖も直さず、姐さんの小言を聞きながら部屋を出て、ドタドタと安普請の階段を駆け下りた。アパートの前の道で走ってきた自転車とぶつかりそうになりながらも、寄席を目指して走る、走る、走る。

 どれだけ深酒しようと、寝坊をする質ではない。大抵は、寝て起きたらすっきりしている。だが、昨日の酒はなかなかしつこく、まだ頭の隅が鉛でもこびりついたように重い。微かにめまいも感じる。あの店の酒のせいか。ツケを全部払ったというのに、安い酒を呑ませやがったのかもしれない。

 姐さんの声を聞きながら昨日のことを考えていたら、あのことまで思い出した。師匠のデータの話だ。

『ところでね、姐さん』と、俺は続いていた相手の説教に黙話で割って入った。

『まだ話は終わってないよ』

『昨日の晩、師匠が俺の前に現れたんです』

 沈黙。

 ややあってから、姐さんが言った。

『夢枕に立ったってこと? あんたが馬鹿ばっかやってるから、さっそく化けて出てきたんじゃないの』

『いや、そういうのじゃなくてね』

 赤信号に引っかかる。左右に車の姿はない。構わず渡る。

『師匠の〈芸〉のデータだって言うんですよ。それが突然、メールで送られてきたんです』

『あの人は人格の類いを一切残さなかったわ』

『たしかに師匠の人柄を丸々コピーしたデータはないかもしれませんが、戦時中のアーカイブがある。師匠の芸だけのコピーなら残っててもおかしくはないですよ。師匠は、自分の芸は残したがってたんでしょう?』

 また、考えるような沈黙がある。

『けどそれは、あんたや、英数に継承してもらいたいって意味で出た言葉よ』

『さあ、どうですかね。芸人なんてのは、なかなか貪欲な生き物ですから』

『偉そうに知った口を。今、どこ?』

『海岸通りを走ってます』

『車? 自転車?』

『脚に決まってるじゃないすか』

 電話の向こうでため息が聞こえる。向こうは物理音声での通話のようだ。

『お金はこっちで払うから、タクシー乗りなさい』

 へえそりゃどうも、とお言葉に甘えることにして、流していたタクシーを呼び止めた。乗り込んだ。品川の寄席まで飛ばすようアンドロの運転手に告げると、相手は「安全運転で参ります」と車をノロノロ走らせ始めた。俺は舌打ちする。人間の運転手だったら、かっ飛ばして五分と掛からず到着するだろう。

『それで、さっきの話だけど』と、姐さんが言う。『そのデータは今、どうなってるの?』

『俺の電肢(デバイス)にインストールされたはずですよ』

『あの人と話すことはできるの?』

『昨日はできましたけどね。ちょいと待ってください』そう言い置いて、脳内でメニューを思考スワイプしていく。昨日はダウンロードしたフォルダが勝手に開いたが、保存されたパスまでは見ていなかった。通常は〈ダウンロード〉のフォルダに入っているはずだが見つからない。他にもめぼしいフォルダを探してみるが、やはり空振りだ。

『どうしたの? 見当たらないの?』

『おかしいですね。呼んでみますか。あのー、師匠ー?』

 返事はない。

「師匠ー?」物理音声でも呼んでみる。運転手が振り向いたのを、手で払って前を向かせる。

 俺の意識内に変化はない。師匠の声も聞こえなければ、見覚えのないウインドウが開いているわけでもない。

『おかしいですね』

『あんたがおかしくなったんじゃなくて?』姐さんがひどいことを言う。『酔っ払って、妙な夢でも見たんでしょう』

『たしかに話したんですよ』思い返そうとするが、記憶には靄が掛かっている。しかも、目をこらすごとに、靄は濃くなっていくようだ。『大事な話もしました。えーと、何だったかな』

『はいはい、もういいわよ』

 目の前の広告モニタに、着物姿の英数が現れた。雇用機械均等法の施行を周知するための政府広報だ。いつの間にこんな仕事をしていたのか。曰く、機械は心を持っています。彼らは私たちの隣人です。全身生身の奴が、ヌケヌケと言いやがる。

 奴の顔を見たら途切れていた点と点が繋がった。

「そうだ、名前ですよ」つい声が出る。「師匠の芸を受け継いで、一人前になったら、〈全角〉の名前をもらうって約束したんです」

『半角……』

「そうだそうだ、そうだった」俺は腕組みする。窓の外を過ぎていく、だだっ広い野っ原へ目をやる。「俺は全角になるんですよ」

『だけど、そのデータがないじゃない』

『ありますよ。どっかにあるんです』検索を掛けるが、当該ファイルは見つからない。色々条件を変えて試すが、やはりない。

 目の奥が、チリチリと痺れてきた。

『あんた、夢でも見たのよ』

『いや、まさか』

 モニタの中では、英数が〈差別のない社会〉を呼びかけている。

『〈全角〉は、俺が継ぐんですよ』

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