2-3

 どこをどのようにして自分の部屋まで帰ったかはわからない。桟橋から落ちなかったのが奇跡に思えるくらいだ。

 アパートの薄い扉を剥がすように開け、靴を脱ぐのも億劫で土足のまま上がり込む。ベッドの位置も感覚頼み。よく確かめもせず、暗がりに飛び込んだ。冷たい枕に顔を埋め、酔いの感覚と共に排水溝へ呑まれる気分で眠りに落ちる。

 メール着信を告げる概念ポップアップが思考に浮かぶ。目では見えないが、メールが届いたのだと

 枕に顔を埋めたまま、頭の中で電肢デバイスのメニュー画面を開いた。電化手術が半端なのと電肢が古くアルコールに弱いせいで操作が覚束ないが、どうにかこうにかメーラーを起動した。感じた通り、たしかにメールを一通、受信していた。

 差出人は不明。アドレスというより、ただの乱数にしか見えなかった。あからさまに、開けてはいけない類いのものである。

 通常なら、そのままゴミ箱へ入れるところだ。しかし、俺は操作の手(というより思念)を止めた。操作が覚束ないというのもあるが、サムネイルとして冒頭部分が覗いたメールの文面に、破棄するのをためらってしまったのだ。

 そこにはこうあった。

〈酒に溺れるな。芸に溺れろ〉

 読み上げたのは、師匠の声だった。それもそのはず、酒で失敗した俺を叱る時、師匠は決まって、最後を同じ言葉で締めくくったのだ。

 他の人間にそんなことを言われたことはない。姐さんかとも思ったが、夜中にこんなメールを送りつける理由がない。やはり、いたずらか。だが、いたずらにしては、突いてくる所が妙に的を射ている。

 そうこうするうちに、操作を誤り開封してしまった。爆発でもするかと身構えたが、普通に本文が開いただけだった。

 冒頭に例の〈酒に溺れるな。芸に溺れろ〉があり、その下に数行空けて英数字が並んでいた。どこかのURLのようだ。さすがにこれは押してはいかんと思うや、〈押す〉というイメージに反応してURLがタップされた。官給品のクソ電肢め。

 有無を言わさずファイルのダウンロードが始まった。半分眠っている意識が、さらにぼやける。進捗を表す緑色のバーがぐんぐん伸びていき、ものの十数秒でダウンロードが完了した。

 ダウンロードしたのはzipファイルだ。また有無を言わさぬ形で、今度は勝手にファイルが解凍された。部屋へ上がり込んできた輩がお構いなしに風呂敷包みを解いて荷物を並べ始めるみたいに、ダウンロードファイルは俺の電肢のストレージでデータを展開していく。

 やがて、俺の脳内に、真っ黒なウインドウが現れた。ずらずらと白文字で呪文のような英数字が並んだ後で、カーソルの点滅だけが残った。

『あー、テステス。聞こえるか?』師匠の声が響く。

 響く、というのは語弊があるかもしれない。厳密には、今の声は空気を震わせたわけじゃない。俺の頭の中で、信号が聴覚を刺激し、音声として認識されただけだ。俺が幻聴だと思えば幻聴になるが、耳を塞いでも聞こえ続ける。人によってはこれで気が狂うこともあるらしい。

『半角。俺だ、俺俺。俺だよ。わかんねえか?』

『なに昔の詐欺師みたいなこと言ってるんですか』俺は黙話で返す。『え、師匠ですか? 本当に?』

『なんだいお前、俺の声も忘れちまったってか。少し合わねえだけなのに、薄情な奴だな』

『師匠……の、お化けですか?』

『馬鹿だな。化けて出るほど暇じゃねえんだよ、こっちは。生きてるうちに残したデータだよ』

『でも、師匠は人格残すの最後まで嫌がってたじゃないですか』

『当たり前だよ。自分の預かり知らないところで、自分の顔と声を持った機械が勝手に喋るのなんて、気味が悪くて仕方ねえ』

『じ、じゃあ、今、俺が喋ってるのは誰なんで?』わけがわからなくなりながら、俺は訊ねる。

『蝶腹亭全角だよ』

 ますますわからない。その気持ちが、変換されて相手にも伝わったらしい。

『わからねえ奴だな。俺はお前のお師匠――全角の、〈芸〉のデータだよ』

『〈芸〉の、データ?』

『口では伝えられなかったことがたくさんあるからな。そういうもんはこういう形で、ごそっとお前にくれてやるってわけよ。ま、遺産代わりに受け取ってくれ』

『師匠……俺のためにそんなことを……』

『人を笑かして飯食おうって奴が泣くんじゃねえよ。ま、最終的にインストールするかはお前に任せるぜ。お前の頭ん中だからな。お前がよく考えて、じっくり決めろ』

『しますよします。しないわけないでしょ』

『馬鹿。ちゃんと考えろ。頭に他人のデータが入ってくるんだぞ』

『師匠のデータなら大歓迎ですよ。さ、どうぞどうぞ。狭苦しいところですが』

『お前ね、決心が早いのはいいが、早すぎるのは考え物だぜ? 俺が全角の名を騙ったマルウェアか何かだったらどうするんだい?』

『その時は、まあ、その時ですよ』俺は脳内で言う。『どうせ失くして困るものなんてありませんからね』

『お前……』

『むしろ捨ててえもんばっかりですよ。特に頭ん中には。こんなゴミ屋敷みてえなとこでよければ、どうぞ居座ってください』

『馬鹿。ちっとは自分を大事にしろ。おっかさんにもらった体だろうが』師匠の声が、心なしかしんみりする。聞いてるこちらも胸の内側が熱くなった。人情話のファイルも含まれているのかもしれない。マルウェアなどではなく、本物の師匠のデータだという確信が湧く。

『まあ、何だ。そう大したものじゃねえが、インストールはさせてもらうぜ』

『こちらこそ、ありがとうございます』

 インストール・ウィザードが立ち上がり、処理が開始される。会話するだけのメモリの余裕は残されていた。

『あの、師匠』

『何だよ』

『〈全角〉の名前は、いただけないままですかね?』

 答えは、すぐには返ってこない。

 溜まっては切り替わっていくウィザードのゲージを眺めていると、不意に師匠の声がした。

『お前はそのままじゃイヤか』

『いつまでもってのは、やっぱり決まりが悪いもんで』

 師匠がクツクツと笑う。

『まあ、そうだな。半人前には半人前の、一人前には一人前の名前ってのがあるからな』

『俺はまだ半人前ですか』

『自分ではどう思う?』

 考えるまでもなかった。

『だったら一人前を目指します。もし、それを果たせた暁には、師匠の――〈全角〉の名を、俺に譲ってはもらえませんか』

 フッと鼻を鳴らす音がした。肩をすぼめた師匠の姿が見えるようだ。

『まあ、とりあえずやってみろ。話はそれからだ。酒には溺れるんじゃねえぞ』

 やがて最後のゲージが右に達すると、ウィザードにインストール完了の表示が出た。途端に猛烈な眠気に襲われ、俺はそのまま意識を失った。

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