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英数の野郎に言われるまでもなく、俺は〈全角〉の名を継ぐつもりでいた。それを目標にしていたし、他の奴には何が何でも渡さねえと心に固く誓ってもいた。
だが、実際のところ、師匠の名前を巡り争っていた(とこちらは思っている)奴に「どうぞどうぞ」と席を譲られると、気持ちはぐらりと大きく揺れた。押し合っていたのが、急に身を引かれ、前へつんのめったような格好だ。
倒れぬように踏ん張る中で、俺は色々考えた。果たして、俺は〈蝶腹亭全角〉の名を頂くに相応しい男なのか、と。
意気地がないと嗤われても仕方ない。甘んじて受けよう。だが、ないものはないのだ。袖をパタパタやったところでカスの一つも出てこない。
初めは〈もしや〉と思うだけだった不安は、斜面を転がり落ちる雪玉のようにぐんぐん膨らんでいき、しまいには轟音を立てながら俺を追いかけてくるようになった。俺はヒイヒイ言いながらも、必死で足を動かし続けた。押しつぶされぬよう、必死の思いで。
意気地が湧かなかったのにはワケがある。とあるインタビューで、ネットメディアの記者に言われた一言だった。
「全盛期の全角師匠そっくりだと、もっぱらの評判ですね」
頭を引っぱたかれたような気がした。相手が悪意からそう言ったのではないとわかったが、突かれたくないところを突かれた気がして、つい眼差しが鋭くなった。
「そんなに似てますかね」声にまで険がこもらぬよう気をつけた。
「ええ。アーカイブを見返していますとよくわかります」記者は言った。「やはり、全角師匠仕込みの芸を継承されているのだと感じます。なにか、師匠から特別な稽古をつけられたりはしたんですか?」
「至って普通ですよ。昔ながらの、見て覚えさせる形の稽古です」
「当世風の、データのコピーではなく?」
「それだったらどんなによかったか」俺は肩をすぼめた。「生憎、そういうものが嫌いな人でしたからね」
「たしかに、映像はたくさん残っているんですけどね」
俺たちは笑い合った。笑いながら、俺は背中を冷たいものが伝うのを感じていた。
師匠の芸は、間近で何度も見てきた。まだまだ素人だった頃ですら、その非凡さはわかった。初めて会った時に言っていた「落語は人を嗤うだけじゃなく、自分が嗤う奴も嗤われる奴も演じる」という言葉を体現するように、師匠は一人で何人もの登場人物を演じていた。粗忽者も長屋の大家も花魁も、師匠が語ることにより、たしかにそこに存在した。
その技術に圧倒され、続いて「同じことをしたい」という気持ちが寄せ返してきた。俺は師匠の芸を学び、盗めるものは盗もうと試みた。だが、盗めたところで、その技術は俺の手に余るものだった。使いこなすためには、ひたすら師匠の背中を追いかけるしかなかった。
追いかけ続けているうちに、師匠は死んだ。追いつけたかどうかは証明する術がないままだが、どうやら俺は師匠が立っていた場所には到達できたようだ。
ところが、今度はそれを素直に喜ぶことができない。芸人としての欲が出てきた。
俺は、俺の芸を認められたい。
〈全角の生き写し〉と見られることを拒む心が、生まれたのだ。
「しかし、〈見て覚えた〉というのなら、半角さんは素晴らしい観察眼をお持ちですね」記者は言った。「細かい所作まで、全角師匠を彷彿とさせます」
「モノマネとしてよくできている、と」今度は声音を繕う余裕がなかった。
「ああいえ、そういう意味では」ようやく自分が超えてはいけない線を踏んでいることに気付いたのか、記者は慌てて言った。「たしかに半角さんの芸は全角師匠を踏襲していますが、それは単なるモノマネとは違います。半角さんなりの解釈があり、今はまだ、師匠の芸を咀嚼している最中でしょうが、じきに半角さんオリジナルのものとして昇華されていくものだと思っています。真似は決して悪いことではありませんよ。〈学ぶ〉の語源は〈真似る〉にあるとも言いますし――」
そんなようなことがくだくだと続いたが、最後までは頭に入ってこなかった。取材がどうやって終わったかも、覚えていない。
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