2-1
雑司ヶ谷にある師匠の家を訪ねると、アンドロの家政婦に出迎えられ、奥の座敷へ通された。部屋では姐さんが、文机の端末に向かって何やらパチパチ勘定のようなものをしていた。「ちょっと待ってて」というので、言われた通り座布団の上に縮こまる。
姐さんは左利きで、右の人差し指と中指で仮煙草を挟んでいた。アンドロにも劣らぬ白く細く長い指に、俺は見入った。師匠よりも三十近く若い姐さんは、銀座で水商売をしている時に見初められ、やもめだった師匠の後妻に入った人だ。俺が弟子入りした時には既に、この家の女将は彼女だった。歳は四十を少し過ぎたぐらいのはずだが、三十路手前といっても十分通用しそうな若さがある。師匠が彼女に惚れた理由はなんとなく理解できるが、姐さんが二十も上の男を好いた理由はわからない。もっと他に、いい男はいくらでもいたろうに。
白い指が、短くなった吸いさしを煙草盆に押しつけた。
「さて」伸びをしてから、姐さんが振り返る。「悪いわね。色々、片付けなくちゃならないことが多くって」
「師匠の、ですか」
「そう。あの人個人のものと、二人一緒のものが色々と」言いながら、姐さんは煙草入れの中から新たな一本を抜き出してくわえた。
勧められるが、俺は断った。代わりに電子マッチを擦り、姐さんの仮煙草に火を点けた。
「そんなに色々と残っているんですか」家と着物と扇子ぐらいしか、師匠の持ち物としては思い浮かばなかった。必要最低限のものしか持たないばかりか、遺してほしいものすら遺さないで逝ってしまったわけだが。
「何にも遺さないで死ねる人間なんていないわよ」姐さんは白糸のような煙を吐きながら言った。「あんたたちへの恩だって残していった」
葬式云々のことだ。人手の都合上、必然的に俺と英数も手伝うこととなった。
「弟子として当然ですよ」
「いいえ」姐さんは首を振った。「あの人は本当に最後まで、誰にも知られずに逝くつもりだったんだから。誰にも知られず、誰にも見送られず。だから、人格だって残さなかった」
最近では、体が死んだ後も何ヶ月かは機械の中で当人が〈生き続けられる〉仕組みがある。生前にセンサーを着けてその人物の人となりを記録するらしいが、師匠はこれを頑なに拒否した。
「イヤでしょうね、師匠は。ああいうの」
「自分の預かり知らないところで、自分の顔と声を持った機械が勝手に喋るのは気味が悪いって言ってたわ。でも――」姐さんは眼鏡を取り、目頭を指で揉んだ。それからまた、眼鏡を掛け直した。「自分の〈芸〉というものは残したがってた」
「残るでしょう、師匠なら」俺は言う。「独演会は数え切れないほどやったし、メディアにだって出まくった。それに戦時中の慰問映像が山ほどある」
姐さんが俺を見ていた。しばらくじっと見つめてから、やれやれと言うように首を振った。
「馬鹿」吸いさしが盆へ放り込まれる。「噺家の端くれなら、言葉の意味をもっとよく考えなさい」
姐さんの口調が強くなる。何か間違ったボタンを押したようだ。
「半角」
「は、はい」白刃のような声に、思わず背筋が伸びる。
「聞いたわよ。こないだの寄席での話」
「いつの寄席でしょう……」こんなことを言ったところで、もう逃れることはできない。
「あんた、舞台出る前に酒呑んで、高座の上で吐いたそうね」
「いや、上じゃないです。ギリギリ持ち堪えました」
「落語はすっぽかして?」
「落語は……まあ、舞台の上で吐くよりは。へへへ」
もちろん、姐さんは笑わない。
煙草盆が飛んでくることも想定し、避ける動作をシミュレートしたが、杞憂だった。姐さんは深いため息をついただけだった。
「どうしても、お酒はやめられない?」
俺は黙る。
「やめられないなら、減らすだけでもいい。せめて、仕事の前は呑まないようにできない?」
「そうしたいのは山々なんですが」俺は頭を掻いた。その皮膚の、頭蓋の、脳の中にある、電肢(デバイス)に触るつもりで。
姐さんの眼が、咎めるものから別のに変わっている。
「まだ例の幻は見るの?」
「忘れた頃に、ふと現れます」
「もう一度、治療してみたら?」
「医者に諦めろって言われましたからね。電肢の故障で、治しようがないって」
「今はまた、治し方があるかもしれないわ」
俺は首を振る。
「手っ取り早い方法がありますから」
「お酒なんて、一時しのぎにもならないじゃない」
「ないよりはマシです」
「まともに芸もできないで」
「こないだは少し、度が過ぎただけです」
後ろで襖が開いた。アンドロ家政婦が、姐さんへの来客を告げる。姐さんは客間へ通すよう言いつけてから、俺の方へ向き直った。
「半角」今度は包むような温もりのある声だ。「あんた、頑張らなくちゃいけないわよ」
へらへら笑いでは逃げ切れそうのない、真っ直ぐな眼差しがこちらを向いていた。俺はまた、頭を掻くしかなかった。
「あの人を悲しませるようなこと、しないでちょうだい」
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