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 いくら吐いても、その苦痛は残らない。残らないから、またしこたま酒を呑む。これがいいことなのかどうかはわからない。

「兄さん、飲み過ぎですよ。いい加減、体に毒です」

「うるせえ」俺は無視してコップをあおる。酒を飲み干し、カウンターに掲げる。「ママ、もう一杯」

「英数ちゃんの言う通りよ」カウンターの中で、厚化粧の中年女が言った。化粧が厚すぎてほとんど表情が動かない。仮面だ。「仕事前にも呑んだんでしょう?」

「それはもう出ちまったよ」

「仕事前に吐くほど呑むなんて非常識ですよ」英数が、まだ毛も生えそろってないような形(なり)のくせに生意気を言った。「師匠が見たら何と仰るか」

「お前、幽霊なんか信じてるのかよ。そんなんだからいつまで経っても生っ白いんだ、お前は」

「人にお説教垂れる前に、ツケをなんとかしてほしいわね」英数ひいきのママが口を挟む。

 払いの話を出されると分が悪い。このところはバタバタしていた分、それを加味して待ってもらっていたが、初七日も終わった今となっては、いつまでも言い訳にはならない。

「兄さん、今日は帰りましょう」それから英数はママに、「溜まっている分は、後日僕がお返しします。今度、大きな仕事がありますので、その報酬で」

「英数ちゃん、兄弟子想いなのはいいけど、それじゃこの人のためになんないわよ」と、ママ。

 やがてグデングデンに酔った俺は、英数に促されるまま席を立ち、店を出た。

 外へ出るなり、潮と排水の混じったにおいが鼻を突いてくる。桟橋の下には、ヘドロにまみれた浅瀬が見える。高輪ゲートウェイ僻地。かつては高層ビルが並ぶはずだったこの辺一帯は、立て続けに起きた震災と戦災によって地盤沈下を起こし、水没した。遠浅の海と化した今は、誰かが勝手に設置した桟橋をきっかけに、地価高騰によって都心部を追われてきた者たちによって作られた惨めったらしい場末の飲み屋街が広がっている。〈汚いベネチア〉とは誰が言ったことか。今は冬だからいいものの、夏になれば鼻を取りたくなるほどの臭気に覆われる。酒を安く呑める店がなければ、絶対に近づきたくない場所である。

 立ち上がってみると、意外に酔いが回っていて、足下が覚束ない。鬱陶しいことの方が遙かに多いが、今ばかりは英数がいてよかったと思う。俺はこの弟弟子に掴まりながら、桟橋を歩く。

 ギシギシ軋む音に、惨めさを掻き立てられる。

「クソが……今に見てろよ」酒のせいで、思ったことがそのまま口からこぼれた。「俺ァこんなとこで腐るようなタマじゃねえんだ」

「はいはい、その通りです。だから明日からはしっかり稽古しましょうね」

「オメエが知った風に言うんじゃねえよ、クソボンボンが。道楽で落語やってるような奴に、稽古がどうこうなんて言われたかねえよ」

「確かに兄さんから見たら、僕なんて道楽でやってるように見えるかもしれませんけど、人前で演じる以上はそれなりに練習はしてますよ。アンドロみたいにデータをコピーできればいいんですけどね。あ、そこ、気をつけてください。板が腐ってます」

「お前、今の嫌味か?」俺は弟弟子の腕を振りほどく。「生の脳がそんなに偉いのかよ。こっちだってなあ、好きで機械入れてるわけじゃねえんだよ。クソが」

 英数に背中を向けて、歩き出す。一歩目で、右足が何かを踏み抜いた。何かに掴まろうと手を泳がすが、空を切るばかり。俺は体勢を崩し、暗い浅瀬に転落した。

「兄さん!」

 大した深さもない水の中で、俺は半身を起こす。くせえ。今すぐ鼻を取って洗いたい。臭いと共に、水の冷たさが身にしみる。

「大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」

 視界の端では、水面がキラキラ輝いていた。遠く、六本木メガロポリスの摩天楼群の灯を映しているのだ。夜空をも滲ませる、富める者たちの人生の灯。俺は洟を啜った。

 最後に見た、師匠の姿がふと頭を過ぎる。

 病室で、無数の管に繋がれながら、半身を起こして窓の外を眺めていた。

 師匠は俺に気付くと、弱々しい笑みを浮かべた。本当に、弱々しい笑みを。

 本当にこの人は死ぬのだな、と俺は思った。それが既に確定し、どうやっても変えられない未来であることを教えられた気がした。

半角はんかく」師匠は枯れた声で、俺に言った。「おめえは、そのままでいいんだぜ」

 それは慰めだったのだろうか。

 好意的にとればそうだろうが、俺には、何か胸をトンと突き放されたような感触があった。

 おめえに俺の名はやれねえよ。

 そんな風に、言われた気がした。

 結局、師匠はその日のうちに死んだ。蝶腹亭全角ちょうふくていぜんかくの名を誰に渡すでもなく、蝶腹亭全角のまま死んだ。

 だから俺は、今でも蝶腹亭半角のままだ。

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