第12話

 北条柾木ほうじょう まさきが新宿二丁目のスナック「轆轤ろくろ」ののれんをくぐったのは午後八時半を過ぎた頃、外食産業のいわゆるディナータイム、それもほぼピークを迎える事だった。ここ「轆轤」であってもそれは御多分に漏れず、テーブル席カウンターともほぼ満席、柾木が席を取れたのはむしろ僥倖であったといえたかもしれない。

 刺身定食に舌鼓を打ち、瓶ビールを一本だけもらった柾木は、人心地ついたところで改めて周りを見回す。

「もっと驚くと思ってたけど。柾木君、意外に肝座ってるのね」

 接客が手すきになって来た青葉五月あおば さつきが、周りの魑魅魍魎を肴に手酌で二杯目の瓶ビールをコップに注ぐ柾木に声をかける。

「五月さんがもう働いてたって事ですか?想像以上に和服似合ってるのはびっくりしましたけど」

「ありがと。そうじゃなくて、ここのお客さん」

「ああ、それはまあ、予想はしてましたから」

 ビールのコップ越しに店内を見ながら、柾木が言う。

「それにしたって肝っ玉の太いことで、お兄さん大したもんだよ。人は見かけによらないもんだねぇ。五月、洗いもん替わっとくれ」

 首から上・・・・だけを柾木の方に寄せた本所隼子ほんじょ じゅんこが、柾木に言いつつ、油を売っている五月を促す。

「はあい」

 ぱたぱたと五月はカウンターの中に入り、流しの前を隼子と替わる。

「……週末はまだしも、平日の夜はうちの客はこんなもんだからねぇ。人間さんがうっかり入らないように、平日は入口におまじないしてあるんだけどねぇ」

 流しを五月に任せ、一息いれるのか、中ジョッキにサーバからビールを注いで、隼子は柾木の近くに体ごと・・・来る。

 ああ、一応、普通の客も来る事は来るのね。柾木は、そんな事も思いつつ、頭を掻きながら答える。

「僕、なんか、そういうに鈍感らしくって」

「柾木君の霊的不感症は筋金入りだから。私の人払いの霊符ふだを軽く握りつぶしてくれたし」

 腕まくりして皿とグラスを洗いながら、五月が話に割って入る。

「ほお、兄ちゃん、術が効かん体質か。こりゃ珍しい」

 柾木の横でぬる燗を酌し合っていた二人組のジジイの片割れが、柾木に話しかけてくる。

「どうだ兄ちゃん、儂はどう見えとる?ん?」

 聞かれて、柾木は正直に答える。

「……店入ったときは人に見えてましたけど、今は立派な古狸ですね」

 そこそこ出来上がっているらしい、その等身大の信楽焼の狸みたいな化け物は、それを聞いて破顔する。

「それ見ろ、酒が入ると気が緩むのはおぬしの悪い癖じゃ」

 信楽焼みたいな古狸を挟んだ向こうの、やっぱりこっちも似たような古狸がそう言って笑う。おまえもだ、そんな声が奥のテーブル席から聞こえ、店の中に笑いの渦が起こる。

「うちの店の客はこんなのばっかりだからねぇ。もうちょっと待ってておくれ、ジジババ共がうとうとし始めりゃ静かになるから」

 隼子はそう言って、ジョッキを飲み干す。


 十時を過ぎた頃。何人かの客、比較的若そうな連中は会計して店を出た。残っている客は半分ほど、年齢層が高く見えるせいか、割と静かに呑んでいる。

「さて、一体何の話だい?」

 隼子が、カウンターの中でスツールを持ち出し、柾木と向かい合わせに腰掛ける。

「はい、それです。ちょっと考えた事がありまして。問題はいくつか残ってますが、上手くいけばこのビルを残せるかもと思いまして」

「へえ?どんな手を考えたんだい?」

 柾木の言葉に、隼子は面白そうに顔をほころばせ、その顔を柾木に寄せる――体は残したまま。

「はい。まず、ここの地主?オーナー?ですが、亡くなったそうで」

「あら……そう、あの強突張りごうつくばり、とうとうお迎えが来たのかい」

 愛用の煙管きせるを取り出しつつ、隼子がちょっと声のトーンを落とす。

「はい。それで気が付きまして、もしかしたら、このビルを取り壊さなくても、現金化出来れば交渉の余地があるんじゃないかって」

「どういう事だい?」

 煙管を軽く一服して、隼子が聞いた。

「あちらの交渉窓口の会計士の口ぶりが気になりまして。財産分与がどうこう言っていたので、もしかしたら遺産の配分で揉めてるんじゃないかって思って。だとしたら、不動産そのものよりも、現金の方が欲しがるんじゃないかって」

「なるほどね……いやね、ここの地主は食えない奴でねぇ。渡世って程じゃないけど堅気ってわけでもない、金さえきちんと納めてりゃ、それが人間だろうが化け物だろうがお構いなしって人種だったからねぇ。確かに、あの銭ゲバの遺族ってんなら揉めそうだよねぇ。それで、ビルごと買い取っちまおうって腹かい?」

「そういう事です。ただ、当たり前ですがお金がかかります、それもとんでもなく。それが第一の問題です」

「どのくらいだい?」

 苦笑しつつ、柾木は答える。

「僕は土地は専門じゃないんですが、ここら辺の公示価格がざっと平米あたり百四十万、このビルの敷地がざっと百五十平米ですから」

 仕事でも使う電卓をスーツの内ポケットから取り出した柾木は、キーを叩いた結果を隼子に見せる。

「いち、じゅう、ひゃく、せん……こりゃ、大した額だねぇ」

 電卓に顔を寄せた隼子が、眉をひそめる。いつの間にか、店の客の数人が近寄ってきて一緒になって電卓をのぞき込んでいる。

「当然、相手側はこれに色をつけてくるでしょう。なので、こちらもそこから値切らないといけません。そこの交渉をうまく出来るか、そこが第二の問題です」

 柾木は、肩をすくめてため息をつく。

「引き受けた以上、僕がどこまで出来るかなんで。正直、公認会計士相手に値引き交渉なんて、ちょっとビビってます」

「そりゃ期待するしかないねぇ。でもいいのかい?話聞いてると、お兄さん、ずいぶんこっちに肩入れしてないかい?中立とか言ってなかったかい?」

 煙管の灰を煙草盆に落としながら、隼子が柾木に尋ねる。聞かれた柾木は、苦笑しつつ、

「双方納得で丸く収まるなら、中立だと思ってます。それに」

 柾木は、隼子を真正面から見て、

「最初来た時、蜂の子出してくれたじゃないですか、あれが嬉しくて、いいお店だなって」

「あら、そうかい?若い子は嫌がるかと思ったんだけどねぇ。キレイに食べたからこりゃ若いのに珍しいとは思ったけどねぇ」

 そんな、素直じゃない事を言いつつ、それでも隼子の顔はまんざらでもなさそうだ。

「俺も、あ、いえ僕も田舎もんなんで、たまに食ってましたから。それに、こういう所は必要なんですよね、皆さんにも」

 柾木は、周りを見回して、言う。

「最近、そういう事がわかってきたんですよ。だから、出来ればここはこのまま残って欲しいなって思いました」

「おお、若いのに良い事言うのう。まあ呑め」

 隣の古狸が徳利を差し出す。柾木は、咄嗟に隼子が渡したお猪口で、一言礼を言ってから杯を受ける。柾木のこの体、オートマータの体は酒に酔わない。そもそも本来は食事の必要すらないのだが、人間としての柾木の習慣は、やはり三度三度腹を満たさないと満足できないし、旨いものはこの体もきちんと旨いと感じる。そして、喉を熱くしつつ胃に落ちるアルコールの感触も、人のそれとほとんど変らない。だから柾木は、酔うことはなくても、食事と酒の味を楽しむことは出来ていた。そして、今この場で呑む酒と、さっき食べた刺身は、実に旨い。

 柾木は、こんな気持ちで呑んだのは、東京に出てきてから初めてだった。そうだ、相手が人かどうかなんてのは関係ない、一緒にいて楽しいかどうか、そっちの方が重要なんだ。柾木は、一つ利口になった気がした。

 そんな柾木をしばらく見ていた隼子は、軽くため息を一つつくと、意を決する。

「……よし、じゃあ一つ、お兄さんに賭けてみようかねぇ。金は何とか工面するよ、いざとなりゃ借りる当てもあるしね」

「大丈夫なんですか?」

 カウンターの外から、五月がやや心配げに声をかける。

「心配おしでないよ、こう見えてもそこそこ蓄えはあるのさ。それに、他の店にも声かけなきゃだからね。それで足りなきゃ……」

「銀行?」

「よりも当てになる知り合いも居るからね、まあ、せいぜいお兄さんが値切ってくれることを祈るさ」

 言いながら、隼子は、微笑みつつ柾木に流し目を送る。

「どっちにしても、消防法と耐震性の対応はまた別の話なんで、そっちもお金かかりますけどね。ま、そっちもちょっと考えはありますけど」

 隼子の流し目をもらった柾木が、苦笑しながら答えた。

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