第11話
翌日、就業日。北条柾木は、今日も今日とて、始業時間前に出社しフロアのモップがけから始める。
モップがけをしながら、柾木が考えるのは昨日の交渉の事だ。
考えつつモップを動かしていると、三々五々、他の社員が出社してくる。柾木はとりあえず頭を切替え、今日の仕事に集中する事にする。
「北条君、搬出のリストいいかな?」
柾木のOJT担当の下山が、発注ソフトと格闘している柾木に声をかける。
「あ、はい、そっちは出来てます……これでいいですか?」
今叩いている新規顧客の発注リスト画面を一旦引っ込め、さっき作った下取り中古車を系列の中古販売店に引き渡すためのリストを呼び出し、下山に確認してもらう。
「お、うん、でね、もう一台追加お願い出来るかな?」
「はい、そりゃ全然大丈夫ですが?まだ下取りありましたっけ?」
下山に頼まれ、リストを編集モードにしながら柾木が聞き返す。
「うん、多分昼過ぎに入庫すると思う、古いお得意さんの車なんだけど、持ち主が亡くなってね……」
あ、どっかで聞いたような話。柾木は、頭のすみっこでそう思う。
「……古い車だし、ご遺族が維持するより手放して少しでも現金化しようって。これ、査定見積もりの書類」
恐らくは昨日、そのご遺族が来店して話だけまとめておいたのだろう。見積もりから引き取り代金がさっ引かれてるところから見て、今頃は担当のフロントとメカニックが社用車で引き取りに向かっているのだろう。
「シーマですか……90年式か、初代ですね」
バブル期に新規開発、発売され、「シーマ現象」という言葉まで生まれた、当時の稼ぎ頭の車である。柾木も、V6・3リッターターボの馬鹿力でリアを沈めてダッシュする姿は見た事があった。
「あんまり距離走ってない無改造車でね、好きな人にはたまらない口だとは思うんだけど……」
下山も、話に乗ってくる。
「……お得意さんだった事もあって、所長が見積もり高めに出しちゃってさ、あんまり利ざや出なさそうだけどね」
「まあ、しょうがないですよね。オーナーがお亡くなりになってるんじゃ、買いたたくのも気が引けるし。御家族は乗らないんですかね?」
「らしいね。まあ、こいつ燃費悪いし、誰も欲しがらないから現金化して遺産分与の足しにって事じゃないのかな?」
「なるほど……?」
何の気なしの下山の感想を聞いて、柾木は、さっきの頭のすみっこで、何かがキラリと光ったような気がした。
翌日の終業後。
「お邪魔しま、す、って?」
引き戸を開けてのぞき込んだ柾木に、店内の喧噪がピタリと止み、一斉に客の目が柾木に集中する。いや、客だけでなく、カウンターの中の本所隼子と、燗のついたお銚子の載った盆を運ぶ
その中で、ちょっと驚いた目つきだった五月が、やっぱりね、といった感じに片頬に笑みを浮かべて、言う。
「いらっしゃい、柾木君」
「……なんだい、お兄さんだったかい。びっくりさせないどくれよ」
隼子も、ため息と共にそう言って、
「このお兄さんなら気にしなくて大丈夫だよ」
店内の客にそう告げる。
「……で?」
客達が緊張を解くのを見てから、隼子が柾木に向き直る。
「はい、ちょっと相談がありまして。ついでに、食事できたらなーと……」
「そういう事なら、カウンターで良きゃ空いてるとこ座っとくれ」
手を動かしながら、隼子が言う。はい、それじゃ、とか言いつつ柾木はそこしか空いてない、入口に一番近い椅子を引く。
「はい、どうぞ」
五月が、おしぼりを差し出す。黄八丈の着物にエプロン、肩で切りそろえた――
「……何?どうかした?」
「あ、いえ、和服って見慣れないから、綺麗だなって」
「あら」
ちょっと嬉しそうに五月はお盆を抱える。
「隼子さんに貸してもらったの、隼子さん、衣装持ちなのよ?」
そう言って、五月はカウンターの中の、紬の着物の隼子を見る。奥の客の相手をしていた、なまめかしい
「お兄さん、何にする?鰹の良いのがあるから刺身でどうだい?」
「あ、いいですね、頂きます」
「あいよ。話なら、十時過ぎには少しは落ちつくからね、それまでまあ、飲み食いして待ってておくれ」
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