第10話

「急に呼び出してすみません、先方は大丈夫でしたか?」

 「協会」の事務員、笠原弘美かさはら ひろみは、北条柾木ほうじょう まさきが会話の出来る距離に来たところで、開口一番にそう詫び、聞いた。

「はい、まあ、しょうがないですよ、こういうのは先方の予定次第ですから」

 配属になって間もないとはいえ、柾木も営業職として、客先都合で予定がご破算になる事は既に何度も経験していた。

「そう言っていただけると助かります」

 弘美も、そういう経験は何度もあるのだろう、ほっとした表情で柾木に微笑む。

 その弘美の顔、リクルートスーツではないが、地味目のツーピースのレディーススーツの上の、やや童顔で細面に薄ピンクで細身のボストンフレームのメガネの載ったその顔を見て、柾木は、果たしてこの人は一体いくつなんだろう、と疑問を持つ。ぱっと見は自分と同じくらいに思えるが、事務経験は多分自分より遥かに上、高卒で働き出したと思えば充分あり得るが、何しろ「協会」の事務員だから、ひょっとすると……

「……どうかしましたか?」

 柾木の視線に気付いたのか、弘美が小首を傾げて、聞く。

「あ、いえ、何でもないです。それで、どこに行けば良いんでしょうか?」

「すぐそこです、談話室「高澤」って御存知ですか?」


 柾木は始めて入る、喫茶店、と言うには格調の高いその店で、四人がけのテーブルの片側のソファに弘美と並んで座って待つ事しばし。入店してきたスーツの男を見て、弘美が腰を上げ、会釈した。慌てて柾木も立ち上がり、同様に軽く会釈する。相手方も会釈を返し、席に着く。

「御足労戴きありがとうございます、こちらは、今回直接の交渉を担当します北条です」

 弘美が、柾木を相手に紹介する。柾木も、それにあわせて挨拶する。

「北条さん、こちらは、今回の依頼人側になります、宮崎会計事務所の宮崎さんです」


 宮崎という公認会計士の話は単純だった。彼は依頼人である地主の代理人であり、依頼人は可能な限り早期にビル内のテナント全ての立ち退きを求めている、それだけだった。

「ビルには、耐震性等の問題があると聞いてますが、よろしければその点について、オーナーさん側は立ち退き後にどうされるおつもりか、御存知でしょうか?」

 柾木は、宮崎の説明のあとに聞いてみる。

「私がお預かりしているのは現時点の財務上の案件だけですので、将来的にその物件をどうされるかは正直関知しておりませんし、憶測で申し上げるわけにもいきませんから、申し訳ありませんが」

 宮崎の返事はにべもない。

 さて、どうしたものか。柾木は思案する。どうやって双方満足する結果に導くか。もう少し、地主側の思惑の情報が欲しい。

「オーナーさんは、ビルを今後も維持管理されるかどうか、明確にされていらっしゃらないという事でしょうか?」

 柾木は、付け入る隙がないかと思って、問い重ねてみる。

「そうですね……御遺言には、財産分与についての事しか書かれてございませんでしたので、ご遺族の皆様が今後どう判断されるかは、ちょっと私どもにはわかりかねます」

「……御遺言?」

 柾木は、突然出てきたその言葉に驚く。聞き返すと同時に柾木は弘美に尋ねる視線を向けるが、柾木に視線を向けていた弘美も小さく首を横に振る。

「御存知ありませんでしたか?オーナー様は先日、長い闘病の末に永眠されました」


「お亡くなりになってたんですね……」

 小一時間ほど、談話室「高澤」で話し合った後、また後日再度話を詰める約束で宮崎と別れた柾木と弘美は、新宿アルタから通りを挟んだ東口駅前広場に佇んでいた。

「「協会」でも、御存知なかったんですか?」

 弘美が呟いた一言に、柾木が聞き返す。軽くかぶりを振ってから柾木に向いた弘美は、

「依頼は、テナント側代表として本所隼子ほんじょ じゅんこさんから受けたので……私自身、オーナーさんとは面識がございませんし」

「そうですか……」

 それでアポが取りにくかったのかな?柾木は、そんな事を思い、言葉を途切る。

「北条さん、大丈夫ですか?難しいようなら、だれか他の者に引き継いでも……」

 弘美は、柾木の沈黙を自信の喪失と読んだのか、心配げに声をかける。

「え?あ、いや、大丈夫です、大丈夫、だと思います。つか、もう少しがんばってみます」

 やり遂げてみたい。その気持ちは強い。隼子から聞いた話、ビルに住み着いている、人ならざるもの達までも含めて立ち退かなければならない、だが立ち退く先などそう簡単に見つかるものではないという話。それに。

 五月さんに少しは恩返ししたいし、玲子さんにも少しは良いカッコしたいしな。

 自分の本心を認め、柾木は、知らず、口角がわずかに上がる。

 その表情を誤解したのか、弘美が呟くように、言う。

「……自信がおありなんですね。そういうの、カッコイイです」

「……え?」

「応援します、私。それでは、今日はありがとうございました。また進展ありましたら連絡します、よろしくお願いします」

 そう言って、弘美はぺこりと深めに会釈し、地下鉄入口の方へ去って行く。

「あ、はい、どうも」

 気の抜けたサイダーみたいな返事しか出来なかった柾木は、気を取り直すと、スマホを取り出し、玲子の短縮ダイヤルを呼び出した。

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