第8話
考えてもご覧よ、病み上がりの女が丸一日、飲まず食わずで山道歩き通し、そんな事出来るわけない、まともなわけがないだろう?あたしは、全部分かった気がしたよ。ややこを流しても涙一つ流さない女だ、そりゃ妖怪にもなろうさ。全部自分がバカなせいなのに、全部人におしつけて、そりゃ人の道も外れようってもんさ。大いに笑ったさ。けど、だったらいっそ死のうったって、死ねないんだよ、これが。なんたって、首吊ろうにも首が伸びちまうんだからねぇ……なんだいそのしけた顔は。ここは笑うところなんだけどねぇ。
帰ったお里はこの有様、元の宿場にゃ戻れない。死のうったっておいそれとは死なせてもくれない。途方に暮れたねぇ。腹も減るし、とにかくどっか人里に出よう、それから考えようって思って、村を出たのがその日の昼前さ。そりゃもう腹減ってたからね、それこそ木の皮草の根を囓り囓り、違う宿場まで丸一日、足引きずって歩いたね。
そうそう、その宿場は三州街道の松島宿だったっけ。あたしが元いたのが中山道の馬洗宿、大して離れちゃいないから、あたしの噂、ろくろっ首が逃げたって噂話でも流れてきてやしないかってちょっとは思ったけど、他に行けるところもなかったからねぇ。
その時の事は良く覚えてるよ。松島宿に着いたのは、もう日も暮れて黄昏時、逢魔が刻って奴さ。宿場の外れに蕎麦売りが居てね、あたしを見つけて言うんだよ。今日はもう店じまいだが、ちょうど一杯、蕎麦が余っちまった、捨てるくらいならどうだい、あんた食ってくれないか、ってね。
旦那が食えば良いじゃないか、あたしゃ銭はもってないんだ、そう言ったんだけどね。俺はもう蕎麦は食い飽きた、ホントは見るのも嫌なんだって取り合わないのさ。それで不承不承、でもホントは喉から手が出るほど嬉しくて、その蕎麦を戴いたのさ。
あれは、旨かったねぇ。あの頃の田舎の蕎麦なんてあんた、今と違って十割のぼそぼそで、
不思議なんだよ、あたしゃ、その言葉にそりゃもうぶん殴られたみたいに感じたんだけど、でもね、その蕎麦売りの顔がね、どうしても思い出せないんだよ。
そうだよ、あたしもすぐに気が付いたさ。その蕎麦売りも、あたしみたいな、人じゃなくなった何かだったんだろうねぇ。
その蕎麦売りが、近くに祠があるからそこで休むといいって教えてくれてね、その晩はその祠の裏で休んだんだけど、そんで、一晩考えてね、思い切って江戸に出る事に決めたのさ。こんな田舎じゃどうにもならないけど、江戸に出りゃ働き口もあるんじゃないか、どうせちょっとそっとじゃ死なないんだ、だったら頑張って働いて、今度はあたしが誰かに何か食わせてやれるようになりたいって思ってね。
まあ、実際やってみりゃ、そんなに甘いもんでもなかったさね、何しろ江戸は遠いし、そこまで行くにも路銀もないと来た。江戸に着いたら着いたで、芸も学もない飯盛り女が出来る働き口なんてろくにあるわけじゃないしね。結局最初のうちは夜鷹で食い扶持稼いで、段々にいろんな仕事増やして、その間に色々身につけていって。何しろそうそう死なないし、どうやら歳も取らない、病だってかからないってのがわかってきてね、時間だけはたっぷりあったのさ。それで、世の中の道理がわかってきて、屋台から始めて、明治新政府になるちょっと前には小さなお店が出せるようにはなってたね。明治大正の間はそこそこお店流行らせてたんだけど、まあ、こないだの戦争で全部燃えちまったけどね。
まあ、あの戦争で、あの空襲で死ななかっただけめっけもんだと思ってね。何しろあたしだって切られたり焼かれたりすりゃあさすがに死ぬんだ、焼夷弾なんか喰らった日にゃイチコロだったろうからね。だから、生き延びたってのも変だけど、玉音放送のその日から、焼け野原から使えるものかき集めて掘っ立て小屋からまた始めてね、闇市も巡ったし、米軍さんの余り物ももらったよ。そしたらそのうち朝鮮特需だイザナギ景気だって、運が良かったね。すぐにまたちゃんとしたお店を構えるまでに出来たんだからねぇ。
そんなんで、このビルも建ってすぐにテナント契約して、もうかれこれ四十年は居るかねぇ。どうにもあたし達は一度居着くと腰が重くなってね、おまけに長く居ると匂いが移るってのか、色々似たようなのが寄って来るもんだから、あたしなんかはまだ動きやすい方だけど、そいつらの面倒も見ないとね、捨てちゃおけないからねぇ。こういう、昭和テイストって言うのかい?薄っ暗くて薄汚れた所じゃないと居着けない奴、人の形してない奴ってのも、結構いっぱい居るんだよ、このビルにゃ。
耐震性だなんだってのもわかるんだよ、
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