207.リオの心の闇
実習の第一段階は台所で皿洗いだ。
自分の食事で使った皿は、自分で持っていかせる。最初は複数並べられたお皿を一度にどうやって運べばいいか悩んでいた。やがて俺の様子を真似して皿をまとめ、
ギールトーさんは俺の意図を察してか、四苦八苦するリオを見ても何も言わない。ただ、いつでも駆け付けられるよう目の届く場所には立っていた。
洗い場に到着。皿を置く。
――が、背丈が足りない。洗おうにも手が届かない。
リオは俺を見て、ギールトーさんを見て、それから「うーん」と考え込んだ。辺りを見渡し、台所の隅っこに置いてある手頃な踏み台を
見よう見まねで、洗い物を始める。
この間、俺は一声もかけていない。
リオの隣で皿を洗いながら、俺はまたも意外に感じていた。
思っていたよりもリオが素直なのである。
洗い物はメイドに任せればいい――そう言い出したときはどうしようかと思ったが。わがままはわがままでも、他人の声に耳を傾けることはできるようである。
これなら、ひとつずつ教えていけば何とかなりそうだな。
さしあたり、ミテラやメイドさんたちの心労を減らせるよう、館内での大暴れはやめるようにさせないと――そんなことを思いながら、手を動かす。
鼻歌が聞こえてきた。
作業しているうちに楽しくなってきたのか、リオの髪先が機嫌良く揺れている。
まだまだ子どもだなと微笑ましく見ていた俺は、すぐに微笑ましく眺めている場合ではないと気付く。
「リオ」
「なんですの?」
「泡、立てすぎ」
顔を引きつらせる俺の前で、リオはどんどんどんどん、石けんを泡立て始めた。
ついには自分まで泡まみれになり、ひっくり返ってしまう。
「あははははっ!」
気持ち良さそうに笑い声をあげるリオ。俺はため息をついた。手を差し伸べる。
一応、怪我はなさそうだが、泡まみれで髪も服もぐしゃぐしゃだ。
「このままじゃ風邪を引く。お風呂に入って着替えてきなさい」
「わかりましたわ」
「……風呂の場所はわかるか?」
「わかりませんわ!」
このままでは手当たり次第に部屋をのぞきかねない。
「勇者様。ここは私が」
「すみません。お願いしますギールトーさん」
リオを預けようとしたところ、やんわりと拒否された。
老齢の執事はテキパキと台所の掃除に取りかかる。
ん? これもしかしなくても、俺がリオを連れて行けと?
「イスト・リロス! はやく行きましょう。はやくはやく!」
場所も知らないくせに、俺の手を引っ張って台所を出るリオ。仕方なく、風呂場まで案内する。
もちろん、それだけでは終わらなかった。
「いっしょにはいりましょう!」
「あのね」
呆れる俺を尻目に、脱衣所に来るなり服を勢いよく脱ぎ捨てるリオ。そのまま浴室に突入していったので、ズボンの裾を上げて俺も後を追った。さすがに一緒に入浴はナイ。
エーリが丹精込めて仕上げた自慢のお風呂場は広くて綺麗だ。それをいいことに、リオは笑声をあげながら走り回る。
「こらリオ! 浴室内を走り回るんじゃない!」
「あははは! ひろいひろーいですわ!」
「リオ!」
強く声を張ると、リオがこちらを向いた。
足下の注意がおろそかになったその瞬間、リオは見事に足を滑らせた。
そのまま顔面から湯船に落ちる。
「リオ、大丈夫か!?」
亜麻色の髪が浴槽の表面にふわりと広がった。
……なかなか顔を上げない。
俺は唇を噛み、湯船に飛び込んだ。湯に沈んだままのリオを引き上げる。
意識はあった。痣や傷も見当たらない。前髪からポタポタと雫が落ちる様子を、彼女はぼんやりと見つめている。
「おい、リオ」
「……ふわぁ……ですわ」
「もしかして体力切れか」
本当にいきなり切れるんだな。心臓に悪いったらない……。
一転してお休み状態になったリオを一度座らせる。髪はまだ汚れたままだ。
仕方なく、リオを支えながら彼女の髪を洗ってやる。
もちろん、この時間はお説教だ。
「まったく。言わんこっちゃない。俺は走るなと言っただろう。足を滑らせて、さっきみたいに転んでしまうんだ。ただでさえ、お前は運動が苦手なんだから」
「むぅー」
「むくれても駄目だ。怪我がなかったからよかったものの、打ち所が悪ければ大変なことになっていたぞ。あのままだったら湯船の中で溺れていたかもしれないし。それにだ。今回はたまたま俺たちだけだったが、他の人間を巻き込む可能性もあったんだぞ」
「むむぅー」
「もうしてはいけない。わかったかい?」
「むむむぅ……わかりましたわ」
頬を膨らませながらも、うなずくリオ。
彼女の綺麗な亜麻色髪を洗ってやりながら、「言い訳をせずにこうして素直に認めるところは長所なんだけどな」と俺は思った。
体力切れのためだろう。リオが大人しくなったことで、浴室には髪を洗う音だけが静かに響く。
「イスト・リロス」
ふと、リオがたずねた。
「あなたはえいゆうになったあと、どう生きていくつもりですの?」
奇妙な質問だと思った。
普通なら、「どうやって英雄になったのか」と聞くだろう。もしそうたずねられたのなら、「俺は英雄じゃない」と答えるところだが……。
リオは、『これから先』のことを聞いてきた。
どう生きていくか。
俺はしばらく考えながら、手を動かす。体力切れ状態がまだ続いているのか、リオはされるがまま、静かに返事を待っている。俺が髪に手を入れるたび、彼女の頭が力なくゆらゆらと揺れた。
「そうだな。これから先、だよな」
正直に答えることにした。
「これからも変わらず、孤児院の院長先生で在り続けるさ」
ひねりもなにもない。
だが、それが偽りのない気持ちだった。
リオは振り返った。大きな目が、驚いたように見開かれている。
直後――彼女は目尻を緩めた。微笑んでいる。だけど。
初めて見るような、大人びて、諦念混じりの、虚無とさえ言える遠い目をしていた。
「その言葉。わたくしにのこされた、このかがやかしく無意味な人生のさんこうにいたしますわ。ありがとう、イスト・リロス」
「リオ……」
俺はそのとき、リベティーオ・グロリアという少女が抱える心の闇を垣間見た気がした。
――彼女はもしかしたら、自分がこれから先、一切成長しないと本能的に感じ取っているのかもしれない。
髪の汚れを、洗い流す。「わぷっ!?」と言って、リオは犬のように顔を左右に振った。
「リオ」
軽く髪を梳いてやりながら、俺は言った。
「この一ヶ月間で、なにかひとつ、自分のやりたいことを見つけるんだよ。いいね」
「イスト・リロス……」
「約束だ」
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