170.見えない違和感、見えた異変
三階に到着する。
支部長室の扉を見てすぐ、俺は眉をひそめた。
薄く金色に明滅する靄で、扉全体が覆われている。
俺は指先を伸ばした。靄に触れるか触れないかというところで、バチンと弾かれる。
『結界です、マスター』
「そのようだな……」
レーデリアの鎧で護られているおかげで痛みはないが、生身の人間が
この感触。ゴールデンキングの地下研究施設に張られていたものより、さらに強力だ。
そのとき、室内から濁った声が聞こえてきた。
「ようこそ我が世界へ。結界を越えてきた無法者の諸君」
「アガゴ……!」
歯ぎしりした俺に、アガゴは気分良さそうに続ける。
「本来なら貴様たちの暴挙を断罪すべきところだが、結界を越えられないのなら仕方あるまい。その程度の小物なら、ワタシが手を下すまでもないだろう。悔しそうな声が聞こえるぞ。顔が見られず実に残念だ」
ふざけるな。
結界の向こうにいるアガゴの口調には、勝ち誇った響きがあった。
フィロエが声を張り上げる。
「そんなところに引きこもっている臆病者に言われたくないですね!」
「ええ、まったく同意」
「まあまあ。真の小物ほどよく吠えると言いますし」
「クッソださいんだけどコイツ」
アルモア、ルマ、パルテも続く。容赦ない口撃だった。
室内からの声が止んだ。奴の性格を考えると、むしろ不気味な沈黙だった。
俺は感情を抑えて言う。
「アガゴ。あんたが捨て駒に使ったクルタスさんは、俺たちに力を貸してくれたぞ。もうあんたに味方はいない。大人しく投降し、連合会の裁きを受けろ」
さもなくば――と武器を掲げる。エルピーダの少女たちも各々戦闘態勢を取る。
壁一枚へだてた向こう側。俺たちの気迫は伝わったはずだ。
無言。物音もしない時間が、五秒、十秒と続く。
ふいに。
扉を覆う結界がうごめいた。靄の濃度が濃くなり、一枚の大きな板の形になる。
警戒し、距離を取る俺たち。
その姿をあざ笑うように、板状の結界は『ある光景』を映し出した。
陽の光が差し込む室内。執務机。簡易寝台。元の世界の支部長室だ。
側近の男性が慌てたようにこちらを見ている。警戒、驚き、焦り。俺たちの姿は見えていないのだ。声も届かない。
寝台に横たわるシグード支部長の顔が、大きく映し出される。苦しそうに表情を歪めている。
アガゴの潰れた声が聞こえてきた。これは……笑い声?
「なんという哀れな姿か。これがウィガールースのギルドを統括する者だというのだから、情けない」
「なんだと……!」
「やはりあの椅子はワタシにこそ相応しい」
沼が泡立つような不快な音声。
俺は怒りと同時に違和感を覚えた。アガゴの様子がどこか――おかしい。
プライドを刺激されても黙って受け流すような、そんな男ではなかったはずだ。
「世界は不完全だった。輝きに満ちたこの世界こそ、正しく完全で、あるべき姿だ」
アガゴの声が急に大きくなる。
「見るのだ! 道行く人々の目が、建物の一つひとつが、吹き抜ける風の匂いが! 美しく活気に満ちあふれている! そのすべてがワタシを讃えているのだ! 素晴らしい、本当に素晴らしい!」
「何を、言っているの? この人は……」
フィロエがつぶやいた。心からの嫌悪と、確かな恐怖があった。アルモア、ルマ、パルテも同じ表情を浮かべる。
アガゴの姿は扉で見えない。
だが、声と気配でわかる。
奴は、本気で、心底から、この金と黒の空を持つ異世界を『美しい』と思っている。自分が目指す理想の世界だと信じ込んでいる。
俺たちと見ている世界が、違う……。
「狂っている」
いや――。
さらに映像は移り変わる。
「さて、せっかくだ。もっと面白いものをお見せしよう。『晴れ舞台』だ」
薄暗闇。
空が広い。屋外の景色だ。ウィガールースから離れた場所のようだった。
その中に浮かび上がる巨大な影。フィロエが息を呑む。彼女も、そして俺も見覚えのある巨体。
大地の鯨だ。
様子がおかしい。
エルピーダ孤児院で見たときのような知性の光がない。
「ああ、ああっ……!」
アルモアが、言葉にならない震えた声を漏らした。
かつて。
大精霊の名にふさわしい偉容を誇った大地の鯨。
その身体が今――見るも無惨に朽ち果てていたのだ。肉体はボロきれのように崩れ、ひび割れた骨格があちこちにのぞく。
そんな痛々しい姿をさらしながらも、大地の鯨は動いていた。
さらに、気づく。
朽ちた巨体に乗る小柄な少女の姿。
特徴的な赤い髪が風に大きくなびいている。
少女が手を振れば、それに呼応して大地の鯨がゆっくりと動き出す。まるで操り人形のように――。
「ついに手に入った。我が手に」
感極まったアガゴの声。
まさか――。
あれは。
「ノディーテ、なのか」
彼女の持ち味だった底抜けの明るさは完全に消え去っている。全身にまとう雰囲気がまったく違う。
俺は無意識に胸に手を当てた。
俺の中にノディーテの魂は眠っている。だとしたらあれは、行方知れずになっていた彼女の身体。
アガゴの手に渡っていたのか――!
変異した大地の鯨と、異様な雰囲気を醸し出す魔王ノディーテ――。
彼らがそろってウィガールースに到達したら。
魔王クドスの襲撃が頭をよぎる。
「あっ!」
ルマ、パルテの双子姉妹が俺の両腕に取り付く。彼女らは震える手で指差した。
映像の端。
そこに映っていたのは、大精霊と赤髪の魔王に対峙する、グリフォーさんの姿だった。
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