第6章 もう一つの失恋
自分の家に帰るには、会社の前を通らなければならない。みんな退社して電気のついていない会社の前を、歩いて通る。
「ん?」
すると、会社の玄関の植え込みに人影を見つけた。
「ひっく、ひっく。」
よく見てみると、泣いている髪の長い女の人だ。
……まさか、幽霊?
お盆前だけに、そんなホラー思考がよぎる。だけど、その人の前を通らないと俺は家に帰ることができない。そろりそろりと近づいて行く。俺の気配に気づいたのか、その女の人がガバッと頭をあげた。
「宮本かちょお?」
「……びっくりしたぁー。栗原さん?」
俺は一瞬、自分の心臓が止まるかと思った。いや、むしろ止まった。
「なにしてんの?こんなところで。」
女の子一人で。
「いいんです!ほっといてくらさい!」
……ん?なんか飲み会で別れたときよりも酔ってる?
栗原さんの周りをよく見てみると、缶ビールの空が5本ほど転がっていた。
「これ。全部、栗原さんが飲んだの?」
俺はおそるおそる栗原さんに聞いた。
「誰がどこで飲もうと勝手じゃないれすかぁ!」
ダメだ。会話にならない。酔ってる。酔っ払っている。酔っ払いの、しかも部下の女の子を、会社の前に一人にしておくわけにはいかない。
「……送っていく。栗原さんの家、どこ?」
「おしえませんよーだ!」
……クソ。この酔っ払いめ。
「じゃあ、住所教えて。」
どうせこんなにグデングデンになった酔っ払い、歩いて帰らせるのは無理に等しいだろう。
「教えたくないのれす……。ううっ。」
酔うと泣く質なのか、栗原さんは俺に悪態をつきながら、泣く。
「教えてもらわないと、送ってやれないだろ?」
「やー。」
こんなに酔っ払ったままじゃ、拉致があかない。とりあえず、水でも飲ませて酔いを覚ませしてやろう。
「ちょっとここで待ってくれる?」
俺のその言葉には素直にコクンと頷いた栗原さんを確認し、俺は近くにある自動販売機へと足を向けた。俺は自分の分の缶コーヒーと、栗原さんの分の水を買って、すぐに戻った。
「ほら。とりあえず水飲め。」
「宮本課長のおごりですかぁ?」
なんでそこでそれを気にするんだよ。
「おごりだから。」
「ありがとうございますぅ。ぐすん。」
栗原さんは鼻水をすすりながら、水を口につけた。その様子を確認すると、俺は栗原さんの横に座り、俺も缶コーヒーを口につけた。
「……ぐすん。美味しいです。」
「そうか。それはよかった。」
しかしそれにしても、栗原さんはどうしてこんなところで一人で酒なんて飲んでたんだろう?飲み会の時は普通だった気がするけど。
「なにか、あったの?」
俺は優しく栗原さんに問いかけた。
「……聞いてくれるんれすか。」
まだちょっと呂律が回らない感じだが、少しだけ落ち着いてきたらしい。
「俺で良ければ。」
「誰にも言わないれすか?」
「そういう奴に見える?」
「見えないです。」
「じゃあ、いいだろ。」
栗原さんは一口、もう一度水を飲むと、ふうっとため息を吐いた。
「宮本課長は好きな人、いらっしゃいますか?」
予想だにしなかった質問に、心臓がドクンと鳴る。
「好きな人?」
「はい。」
俺の好きな人は大島ともみ。
「……まぁ、いいなって思っている人はいるよ。」
動揺を悟られないように、やんわりと伝える。
「そうですか。私も居るんです、好きな人。」
「そうか。」
「私の好きな人……。部長、なんです。付き合ってました、この前まで。」
……ん?
「付き合ってたって。」
「はい。この前まで、部長と不倫してました。」
間近で聞く生々しい話に、驚きを隠せない。しかも、あの部長だ。女の影なんか一度も感じたことがなかったから、なおのこと驚く。
「驚きますよね。」
ふふっと笑った栗原さんは、自嘲気味だ。
「1年くらい、付き合ってたんです。もちろん、誰にも内緒ですよ?」
「言えるわけないだろ。」
不倫だし、上司だし、誰にも言えるわけがない。
「ずっと、言ってくれてたんです。娘が社会人になったら、妻とは別れるからって。夫婦生活はもう無いに等しいから、娘が家を出たら、一緒にいる必要はないんだって。そしたら、死ぬまでずっと一緒に居て欲しいって。」
「……うん。」
俺は遠慮がちに相槌を打った。むしろ、相槌しか打てなかった。こんな話、どう切り返していいか分からない。それに、栗原さんはただ聞いて欲しいだけだろう。
「だけどこの前。急に部長がよそよそしくなって。別れを告げられたんです。君のことが本当に好きだから、君を縛り付けておきたくないって。」
「うん。」
「私はそんなの構わないって言ったんですけど。請け合ってもらえなくて。結局別れることになりました。」
「うん。」
「でも、私は部長のことが好きだから、諦めきれなくて。だから、会社内で色んな男の人に色目振りまいて、部長にヤキモチを妬かせようなんて作戦もやってました。」
最近俺にやたらと話しかけてきてたのは、それだったのか。
「うん。」
「でも、違いました。」
「違った?」
「部長の心はもう、とっくに私から離れていたんです。だから、ヤキモチを妬くはずもなかったんです。」
栗原さんはそう言うと、また水を一口飲んだ。
「……部長、今日の飲み会で、電話がかかってきて、慌てて帰ったでしょ?」
「あぁ。なんか、奥さんから電話があったとかで。」
「あれ。奥さんなんかじゃないんですよ。」
「え?」
栗原さんは、笑っているような、泣きそうなどちらともとれる表情を俺に向けた。
「私、やっぱりタクシーを呼んだ方がいいと思って、部長が帰った後、その後を追ったんです。」
そこから先の内容は、なんとなく想像できた。
「部長の後を追って、店を出ると。部長は、奥さんでも私でもない。私よりちょっと上の世代の女の人と……抱き合っていました。部長の顔は、私にも見せたことのない表情で。……この人が、部長に本当に愛されている人なんだなって思いました。」
“表情”それは俺自身にも、グサッと刺さる言葉だった。表情で、相手がどれだけその人のことを好きなのかが分かってしまう。俺にはその気持ちが、痛いほど分かった。
「……情けないです。本気で好きになって、不倫までしたのに、こんなで。」
栗原さんは、はらはらと涙を流した。
「……情けなくなんか、ないんじゃない。」
「え?」
「……俺も。俺も、失恋したばっかでさ。」
その表情を俺に向けて欲しい。でも、それは無理で。俺が一番向けて欲しい表情を向けられている奴がいて。
「……宮本課長でも失恋するんですね。」
「まぁな。」
それから少し、俺たちは無言になった。というか、それ以上何を話したらいいのか分からない。今はただ、大島さんが今、田中と一緒に居るんだと思うと、胸が苦しくてしょうがなくなる。
「宮本課長。」
俺たちの沈黙を破ったのは、栗原さんだった。
「……家まで、送ってもらえますか?」
それがどういう意味なのか、ちゃんと分かった。俺を見つめる栗原さんの瞳が、物語っていた。
「……分かった。」
俺はそれを了承した。
栗原さんの家に着くと、電気もつけずに、俺たちはベッドになだれ込んだ。
「ん、ん、ふっ。」
なんども、なんども、何かを紛らわすように、口づけをする。栗原さんの体を、貪る。
「はぁっ。」
熱い吐息で、部屋の温度さえも上がっている気がする。
「か、ちょう…っ。」
「いいよ。」
俺の名前を呼んだ栗原さんの口を、遮った。
「名前を呼ばなくていい。」
「……っ。はい……。」
俺は目を瞑り、快感だけに集中した。栗原さんも俺と同じ。お互い、本当に愛して欲しい人じゃないのだから。
その夜。俺と栗原さんは、お互いの熱を分けあってすごした。
そして、お盆休みはあっという間だった。実家に帰ると、姪っ子や甥っ子に遊び回された。子育てをしっかりする兄貴の姿を見て、よくやれるよな、なんて思った。俺には自分の子供を俺が抱いている姿なんて、想像できない。
そしてなにより、自分が結婚式をする姿が想像できない。そう考えると、両親や兄貴夫婦のことを純粋に尊敬すると思った。
俺にもいつか、そんな日がやってくるのだろうか。俺と結婚する相手は、誰なのか分からないけれど。
だけどそこでいつも考えてしまうのは大島さんのあの顔で、人の心って本当に上手くいかないもんだと実感させられた。
「残り一ヶ月ですが、みなさんよろしくお願いします。」
9月の頭。栗原さんが、9月一杯で辞めることになった。なんでも、田舎のお父さんが倒れたとかで、それを機に実家へと戻るらしい。
「栗原さん。」
その日の就業後、俺は栗原さんを追いかけて呼び止めた。
「宮本課長……。」
「ちょっとお茶しないか。」
栗原さんの傷を知っているだけに、知らんふりをすることもできないと思った。俺の誘いに頷いた栗原さんを連れて、会社の近くの喫茶店に来ていた。
「なに飲む?」
「……じゃあ、コーヒーで。」
コーヒーを二つ店員に頼むと、すぐに運ばれてきた。コーヒーに口をつけながら、栗原さんの様子を伺う。
「……宮本課長は優しいんですね。」
先に口を開いたのは、栗原さんだった。
「俺はそんなにできた人間じゃないよ。」
俺がもしできた人間だったら、とっくに大島さんのことを諦められていただろう。彼女の幸せを願って。
「できた人間だから、優しいわけじゃないと思います。私のことを気遣って、今日はお誘いしてくださったんでしょう?」
ふふっと笑った栗原さんは、お盆前の彼女よりも、柔らかい物腰に感じた。
「私、田舎に帰ったら結婚するんです。幼馴染と。」
栗原さんの告白は、衝撃的だった。
「えっ。」
俺の口からは、驚きの言葉が出ていた。あんなに部長が好きだと泣き叫んだのは、ついこの前だったのに。
「宮本課長のおかげです。」
「俺?」
「私、あの夜のこと。後悔してません。」
栗原さんははっきりとした口調で、そう言った。
「後悔はしてないけど……。“違う”って気づきました。」
「違う?」
「はい。こういう行為は、本当に愛する人とそして、自分を愛してくれる人とするもんなんだなって。」
栗原さんのその言葉にも、俺は驚いた。なぜならあの日、俺も同じように思ったからだ。後悔とはまた違う感情が、湧き上がった。
だから俺はあの日、栗原さんが目を覚ます前に彼女の家を出た。
「私が後悔しない理由は、あの時、宮本課長に抱かれなかったら、分からなかったことがたくさんあったからです。だから、もう私のことは気にしないでください。」
俺より栗原さんの方が、よっぽど優しい人間だと思った。
「部長のことも、もういいんです。あの時は、約束を破られた悔しさとか、部長に愛されるあの人に対する羨ましさとか、色々あったんですけど。それも、違うって気づきました。だって私と部長の関係は、最初から間違っていたんですもの。」
栗原さんって、強いなって思った。なんでそういう風に、切り替えられるんだろう。
「だから結婚するのか?」
「部長や宮本課長とのことがあって、気づけたんですよ。お盆に田舎に帰ったときに、幼馴染にプロポーズされたんです。ずっと小さい頃から好きだったって告白されて。私、そんなこと今まで夢にも思わなくて。」
ふふっと笑った栗原さんは、その時のことを思い出しているのだろうか。どこか嬉しそうだ。
「だけどその時に、この人と共に歩く人生を選びたいって思ったんです。」
「栗原さんは幼馴染を選んだってことか。」
「違いますよ。」
俺がしみじみと言った言葉に、栗原さんは間髪いれずに言った。
「私は誰かを選んだわけじゃなくて、幼馴染と生きていく人生を選んだんです。宮本課長もご結婚されたら分かるんじゃないですか。」
栗原さんは、俺をからかうように言った。
「そうか。じゃあ、おめでとうっていう言葉をかけていいんだな?」
俺は、迷っていた。栗原さんが、逃げるために実家に戻るんだとしたら、引き止めなきゃいけないと思っていたから。
「はい。私、田舎でやっと自分の人生のスタートを切れそうなんです。」
そう言った彼女の笑みは萎んでいた花がぱっと開いたようだった。
「おめでとう。どこへ行っても、頑張れよ。」
「はい。ありがとうございます。……宮本課長も。大島さんのこと、頑張ってください。」
「あぁ。……っては?!」
「ふふっ。気づいてる人は少ないと思いますけど、私にはバレバレでしたよ。」
さすが、部長を落としただけあって、栗原さんは侮れないと思った。
「コホン。残り一ヶ月。引き継ぎしっかりと頼むよ。」
俺は咳払いをして話を終了させたが、栗原さんには笑われながら「はい。」と返事をされたため、照れていることに気付かれていたと思う。
お盆がすぎれば早いとはよく言うもので、秋がきたかと思うと、あっという間に寒い季節がやってきた。そして俺はもうすでに、大島さんに片思いして1年以上が経っていた。
よくよく考えたら、大島さんがコンビニであの表情をした瞬間から、俺は彼女に落ちていたんだと思う。この俺が、1年も片思いして、その上告白することなく失恋しているなんて、今までなら、全く考えられないことだ。
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