第5章 二つの失恋
告白する前に、失恋した。なんてカッコ悪いんだろう。そもそも、こんなカッコ悪い恋愛を、今までにしたことがあるだろうか。……いや、ない。
あとから分かったことだが、大島さんが付き合っている“田中”というやつは、大島さんの同期で、第二営業部所属。ちなみに、合同会議の打ち上げのあとに、大島さんと一緒に歩いていた男だった。
またそれを考えると、俺はカッコ悪すぎる。なんていったって、目の前で好きな女をかさらわれたようなもんだ。そんなことを言いつつ、大島さんに全くアプローチできなかったのは、この俺なのだが。
「宮本課長、ここ教えてもらえますか?」
課長になってから、以前よりも女子社員に話しかけられる頻度が増えた。役職も女子社員にとっては、魅力の一つなのだろう。
「あ、あぁ。どこ?」
最近、よく話しかけてくるのは、俺より二つ後輩の栗原さんだ。彼女は特別美人っていうわけではないが、自慢のスタイルとお色気で、男を落とすようだ。
「ここなんです。」
そう言って俺に近づいてきた栗原さんからは、甘い香水の匂いがプンプンとする。これにも男はやられるわけだな。心の中でそんな分析をしながら、栗原さんに仕事を教えた。
「そういうことだったんですね。課長、ありがとうございます。」
「どういたしまして。」
笑顔でお礼を言うあたりは、チャーミングだと思うが、俺の好みではない。
俺の好みといえば……。俺はチラッと熱心にパソコンとにらめっこをする大島さんに目をやった。
大島さんと田中は上手く付き合っているのか、社内では全く噂になっていない。そういうことを考えると、もしかしたら大島さんと田中は結婚してしまうんじゃないか、という考えが頭をよぎる。
どうにかして、それだけは死守したい。
「さて。明日から盆休みだし、みんなでパーッといくか。」
終業間際の第一営業部のフロアに、部長のそんな声が響いた。
「いいですね。」
他の課の課長も乗り気で、かくいう俺もそんなに嫌ではない。
「じゃあ、店が大丈夫かどうか聞いてみよう。」
部長はおもむろに携帯電話をスーツのポケットから取り出して、店に電話をかけ始めた。部長がこんな感じだから、第一営業部全体も和気あいあいな感じなんだろうな、なんてふと思った。
「今日、参加する人、手を挙げて。」
店に電話をかけながら、その場で参加人数の確認。俺はもちろん、手を挙げた。急の事にも関わらず、用事がある人以外は大体手を挙げていた。連休の前にぱーっといきたいのは、みんな同じらしい。
手を挙げているメンバーに目をやると、そこには大島さんの姿もあった。それだけで、少し嬉しくなる。……中学生男子か、俺は。俺が心の中でツッコミを入れている間に、店の予約は終わっていた。
「各自、自分の仕事を終えたらいつもの店に集合だからな。」
「はーい。」
みんな自分の仕事の追い込みにかかる。俺も全力で仕事を終わらせたけれど、会社を出ることができたのは最後から数えた方が早いくらいだった。
「宮本くん、遅かったね。」
だから俺が店に行ったときには、みんなできあがっていた。かくいう部長もその一人。
「遅れてすみません。」
俺は店員から渡されたお絞りで手を拭きながら、部長の隣に座る作田の隣に座った。座敷を貸切って行っている宴会は、いつも以上に盛り上がっていた。
鼻に割り箸をブッ刺して定番のどじょうすくいをしている後輩も居る。明日から休みだから、みんなハメを外しているのだろう。
「宮本課長、どうぞ。」
「あぁ。ありがとう。」
俺は作田にお酌されて、ビールを喉に流し込んだ。やっぱり夏の暑いこの時期は、ビールが最高だ。
「宮本くんは、結婚せんのかね。」
「ゴホッ。」
酔っ払いの絡みほど、タチが悪いものはない。部長のいきなりのその質問に、俺はビールでむせてしまった。それに気づいた作田が、すかさず俺にお絞りを渡してくれた。
「……部長、ずっとこの調子?」
「……俺もその質問されたんですよ。」
作田に小声で耳打ちして、帰ってきたのはその言葉だった。今年の11月で30になる俺。そろそろ結婚を考えなければならない歳ではあるが、いかんせん相手がいない。
「まぁ、そうですね。結婚は一人ではできないので。」
「じゃあ是非ともうちの娘をって言いたいところだが、娘はまだ高校生なもんでね。すまんね。」
な、なんで謝られたんだろう……。俺も作田も苦笑いしかできなかった。俺たちのそんな空気には気づかず、部長だけが豪快にがははっと笑う。
「しかし。男は結婚してからが勝負だよ。そして本当の意味で男になれるっていうかな。人は自分のためには、強くなれないんだよ。な、川田くん。」
部長に同意を求められたのは、川田課長だ。俺と同じ役職ではあるが、部長より少し年下のベテランだ。
「そうですね。守らなきゃいけないものが大きいですからね。」
“守らなきゃいけないもの”……。結婚、か。
その話題を出されて、思い出すのは岩崎のことだった。結婚できそうだな、なんて軽々しく思ったけれど、果たして、俺は彼女の人生まで責任が持てただろうか。彼女のために、更に仕事を頑張れるようになっただろうか。……いや、ないな。
おそらく、「彼女を守らなきゃいけない」という自覚さえ持てなかったかもしれない。そう考えると、岩崎とは別れて正解だったんだな、と確信する。
じゃあ、もし、今の俺が結婚するとしたら?そう考えたときに一番に思いつくのは……一人しかいない。
30のいい大人が、なんで6歳も年下の女の子にこんなに夢中になっているんだろう。
「宮本課長、どうぞ。」
そんなことをボンヤリと考えていたら、栗原さんがいつの間にか隣にやってきて、俺にお酌をしてくれていた。
「あぁ、ありがとう。」
コッコッコッコと、グラスに冷えたビールが注がれる。
「なんだね、栗原くん。宮本くん狙いかね。」
すると、酔っ払った部長は、とんでもないことを言い出した。
いくら飲みの席だからって、みんないるわけだし、栗原さんの答え方次第では変な空気になってしまう。
「やだ、部長。私の大本命は、部長ですよ。」
栗原さんは冗談交じりにそう言うと、ササッと作田と部長の隣に割り込んだ。がははっとその場が盛り上がる。
栗原さん、うまい切り返ししたなって思った。さすが、そのスタイルで男を手玉にとるだけあって部長もいちころだ。部長は上機嫌で栗原さんにお酌されている。
会も時間を増すごとに、各々酔っ払ってくるため、会自体がへべれけになってくる。
……俺もちょっと飲みすぎたかな。そう感じて、トイレに立った。用をたすと、外の風に少しあたりたくなって店の外に出た。
「大島さんが、好きなんだ。」
すると、どこからともなく聞こえてきたのは、そんな言葉だった。
は?大島さんって、大島さんのことだよな?それにこの声って……。
俺の心臓は、ドクンドクンと波打ちながら声の主を探した。店の扉の前から一歩踏み出すと、店と隣のビルの裏路地にある非常階段のところで話をしている男女が目に飛び込んできた。
「作田さん、ごめんなさい。私、お付き合いしている人がいて。」
申し訳なさそうな言葉を出したのは、やっぱり大島さんの声だった。そして、相手の男は作田だった。
「そっか。それなら。うん。分かった。俺の気持ちを伝えたかっただけだから。」
なるべく明るい声をだした作田の声が、ひどく痛々しく感じられる。
「本当にすみません……。」
「謝らないで。しょうがないことだから。じゃあ、俺。先に戻るね。」
その言葉が聞こえると、作田が路地裏から出てきた。あ、っと俺たちは目が合う。
「……。」
「……。」
俺も作田も、何も言わない。ただ俺は、作田の肩をポンポンと叩いた。公私混同するなよって意味と、頑張ったなって意味をこめて。
「……ありがとうございます。」
作田は眉毛をハの字にして笑顔をはりつけ小さくそう言うと、店の中へと入って行った。その姿を見届けると、俺はその場にうずくまった。
もし、俺も今作田みたいに、大島さんに想いを伝えたら、俺もあんな風に振られるのかな。“お付き合いしている人が居ますから”って。
そう考えると、俺は無償に田中が羨ましくなった。羨ましくて、羨ましくて、仕方がなかった。俺に向けて欲しい、大島さんの表情も、大島さんの気持ちも、体も。今はアイツだけのものなんだ。
もしかしたら、この先もずっと、アイツだけのものになってしまうのかもしれない。
「はぁ……。」
俺は盛大な溜め息をついた。
「宮本課長?」
すると、俺の頭の上から可愛い声が聞こえた。見上げなくても誰なのか分かっているが、ゆっくりと顔をあげる。
「大島さん……。」
「どうしたんですか?こんなところで。気持ち悪いんですか?」
大島さんが俺を心配してくれている。
「……ちょっと飲みすぎて。」
君のことを考えていて、胸が痛くなったとは、言えない。
「えっ。大丈夫ですか?」
大島さんは益々俺を心配して、屈んで俺と同じ目線になった。それだけでも、不覚にも心臓がドクドクと早く音を立てる。
「ちょっと顔が赤いですね。お水、もらってきますね。」
大島さんは一旦店の中に戻ると、すぐに外に出てきた。
「とりあえず、ベンチに座りましょう。」
大島さんは俺の腕を引っ張り、店の前にあるベンチに座らせると、水の入ったコップを俺に渡した。
「飲んでください。」
普通の男なら、大島さんのこの気遣いに勘違いするんだろうなぁ。
「ありがとう。」
俺はそう一言だけ言って、水を飲み干した。
「気分はどうですか?」
俺の隣に座った大島さん。栗原さんとは違って、香水とかじゃない大島さん特有の甘い香りがする。
「大丈夫。心配かけて、悪かったな。」
酔ったわけじゃないから、元々気分も悪いわけじゃない。
「いえ。宮本課長でも、お酒に酔ったりするんですね。」
クスクスと笑う大島さんの笑顔に、つい見とれてしまいそうになる。
「どうして?」
「だって宮本課長、お酒に強そうじゃないですか。」
「そうか?」
「そうですよ。それにいつも、酔わないじゃないですか。」
酒は弱いわけでもないが、強いわけでもない。だから大抵、飲み会なんかは上手くセーブしながら飲んでいる。
「まぁ、酒と上手く付き合うのも大人のたしなみってことで。」
「なんですか、それ。」
クスクスっと笑う大島さん。
……違う。違うんだよ。そのカオじゃない。そのカオじゃないんだ。
「…そろそろ、戻るかぁ。」
俺は背伸びをしながら、ベンチを立った。
「もう大丈夫なんですか?」
「あぁ。付き合ってくれて、ありがとな。」
「いえ。私も外の空気にあたりたかったんで。」
大島さんがベンチを立ったことで、この時間が終わりであることを告げる。大島さんともっと居たいという感情と、大島さんから逃げたしたいという感情が入り混じる。自分の感情なのに複雑だ。
座敷に戻ると、出てきたときよりも更に賑わっていた。飲んでも飲んでも飲み足りないやつが多いらしい。
「あれ?部長は?」
ところがそこに、部長の姿がなかった。
「奥さんから電話がかかってきて、トイレに行ってます。」
部長が居なかったため俺より先に戻ってきた作田に、どこに行ったかを聞いた。結婚したら、こういう場に行くことも奥さんに言っておかないと心配されてしまうんだろうなぁ、なんてボンヤリと考える。
「悪いね、席を外して。」
しばらくすると、部長が席に戻ってきた。
「それで申し訳ないんだが、私はこれで失礼するよ。」
さっきまであんなに酔っていた部長なのに、今はただ顔を赤くさせているだけで、普段のようにしゃんとしている。
「これで足しになるかどうか分からんが、払っておいてくれ。」
部長はお金を作田に渡すと、自分の荷物をまとめて急いで帰ろうとする。
「タクシー呼びましょうか?」
栗原さんが気を利かせて、そんな言葉を部長にかける。
「……いや、いいよ。まだ電車が動いているだろう。それじゃあ、私はこれで。みんな、楽しんでくれ。」
部長はにこやかな笑顔でそう言うと、さっさと座敷を出て行った。みんな部長に一礼した後、また、騒ぎだす。
「これ、どうしましょう。」
作田の手に握られていたのは、5万円。
「俺が預かっとくよ。」
「え。でも……。」
「いいから。部長の5万持ったまんまじゃ、お前、気持ちよく飲めないだろ。」
「……すみません。」
俺はそう言って、申し訳なさそうな作田から5万円を受け取った。
「すみません、そろそろオーダーストップです。」
時間もだいぶ過ぎた頃、店員が最終オーダーを聞きにくると、みんなは思い思いに最後の注文をしていた。店員も、その注文を聞き漏らさないように、と必死だ。酔っ払いの注文ほど面倒臭いものはないだろう。みんなが一通り注文し終わると、俺は店員に近づいた。
「すみません。おあいそ、お願いしていいですか?」
「はい。かしこまりました。」
店員は頭をひとつ下げると、座敷を出て行った。しばらくして店員が持ってきてくれた請求書を見ながら、俺は計算を始めた。
「わ。宮本課長、私が計算しますよ!」
それに気づいた大島さんが、声をかけてくれる。
「いや。部長から5万貰っちゃったからさ。俺がするから気にしなくていいよ。」
「でも、宮本課長にやっていただいているっていうのに気づいちゃったので、気になります。貸してください。」
大島さんに請求書と5万円をぶんどられ、俺はポカンとするしかない。
「こういうのは、部下に任せてくださいよ。」
ニッコリ笑う大島さんの笑顔は、小悪魔かと思う。
「あ、ああ。」
「えっと一人1000円ずつか。みなさーん。会費、1000円ずつ集めまーす!」
ラストオーダーしたものが来る前に、大島さんはみんなからお金を集めた。
「部下、か。」
大島さんのテキパキとした姿を見ながら、俺は小さくそう漏らした。大島さんにとって俺は、ただの上司なんだなって突きつけられてしまった。
ラストオーダーも平らげ、みんなは思い思いに解散していく。大島さんに介抱してもらった後から一滴も酒を飲んでいない俺は、完全に酔いが覚めていた。
みんなが出て行った後の座敷で、誰か忘れ物をしていないか、チェックする。酔っ払ったやつは大体、忘れ物をするからな。
「よし。大丈夫かな。」
みんなに遅れて、俺も店を出た。外に出ると、酔っ払いの五月蝿い集団と大島さんが居た。
「宮本かちょーう!もう一件どうですか!」
酔っ払いの絡みは、本当に面倒くさい。
「……遠慮しとくよ。」
「つれないですねぇ!川田課長、行きましょうー!」
酔っ払いは川田課長とこの後も飲み屋に繰り出すみたいだ。あんなに普段は毅然としている川田課長も、かなり酔っ払っている。
「ほどほどにしとけよー。」
俺は苦笑いを浮かべながらそう言ってから、大島さんに近づいた。
「大島さん、精算、ありがとう。」
「いえ。当然のことですから。」
「二次会、行くの?」
「いえ。もう遅いんで、帰ります。」
そうだよな。女の子にとってはもう、遅い時間だ。
「……送って行こうか?」
俺は勇気を出して、その言葉を発した。女の子一人で帰らせるのも危ないだろうしっていう言い訳も自分の中で散々考えた。
「ありがとうございます。でも、迎えがくるので大丈夫です。」
だけど俺のその勇気は、無邪気な笑顔によって一刀両断された。
……迎え、か。迎えがくると言ったら、その相手は一人しかいないだろう。
「そうか。それならよかった。」
俺も笑顔を張り付けてそう言った。全然よくなんかないくせに。
「気にかけていただいて、ありがとうございます。ではまた、休み明けに。」
「あぁいい休日を過ごせよ。おやすみ。」
「おやすみなさい。」
俺はそれで、店の前を後にした。
言わなければよかった。こんなに胸にささるなら、言わなければよかった。別に俺の気持ちを伝えたわけじゃない。だけど、振られたのと同じだった。
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