第7章 言葉というナイフ
3日後、無事に宮本課長と柚ちゃんが帰って来た。
「おかえりー。」
「山口どうだったー。」
出社した2人に、みんなが集まる。そんなみんなを横目に、私は今日の業務へと取り組む。
「大島先輩もどうぞ。」
柚ちゃんはみんなに山口のお土産のお菓子を配っていた。
「ありがとう。」
私は笑顔で答える。
みんなお菓子をもらっているみたいだったから、私はお茶でも淹れようと給湯室へと向かった。
みんな珈琲でいいよね。
ヤカンを火に掛け、お湯を温める。
「大島先輩。」
肩がびくっとなった。
「手伝いますよ。」
そこには笑顔に柚ちゃんが居た。
「あ、ありがとう。」
「いいえ。こちらこそ、すみません。大島先輩の気遣い、私も見習わなくちゃ。」
へへっと柚ちゃんが笑う。……ダメだ。なんか直視できない。
「大島先輩と宮本課長って、仲いいんですね。」
ふと、柚ちゃんがそんなことを言い出した。
「え?」
やばい。あからさまに動揺してしまったかもしれない。
「だって宮本課長の携帯の発信履歴、ほとんど大島先輩なんですもん。」
柚ちゃんの方をチラッと見ると、心臓が重くなった感覚がした。……柚ちゃんの笑顔って、そんなに冷たかったっけ。
「なんか私、騙された気分満載です。私が宮本課長のことを好きだって話した時に、教えてくれてもよかったじゃないですか。」
ヤカンの沸騰した合図が、ぴゅーっと鳴る。平静じゃいられない私は、コンロのスイッチすら切れない。
パチン
柚ちゃんがコンロのスイッチを静かに切ると、珈琲メーカーに注いだ。
「大島先輩って、秘密主義なんですか?」
私と圭吾さんのこと、柚ちゃんにバレてるの?圭吾さんはどんなタイミングで柚ちゃんに話したの?
「シャワー浴びた後、何したと思います?聞こえてたでしょ?宮本課長の電話から。“圭吾さん”って呼びかけてましたもんね。」
「っ。」
私は、目を大きくした。あの電話は、柚ちゃんの意図的なものだったんだ!
「ま。大人だからシャワー浴びたらすることなんて、1つしかないですけどね。じゃあ私、これ持って行きますね。」
いつの間にかコップに珈琲を注ぎ終えていた柚ちゃんは、お盆にそれらを乗せて、給湯室から出て行った。珈琲の匂いが充満する給湯室で、私はしゃがみこむ。
なんか、上手く立ってられない。泣いてスッキリしたと思っていたのに。ナイフで、心をえぐられた気分だ。
「……ともみ。」
愛する人の声が聞こえたというのに、私はすぐにそちらを向くことができない。……もう充分えぐられたっていうのに。まだえぐり足りないの?
「み、やもと課長…。」
給湯室に、宮本課長が入って来た。
「なんで電話に出ない。」
宮本課長のその声色に、心臓がどきりと、跳ねる。今までに聞いたことのない、切羽詰まったような声だ。
「え、あぁ。」
私は腰を上げて、自分の足で立つ。
「携帯電話、無くしちゃって。」
「無くしたぁ?」
宮本課長はより一層怪訝そうな声を出す。
「サイレントモードにしたままどっかにやっちゃって。探し中なんです。」
私はちゃんと、笑えているだろうか。
「3日間もか?」
「はい。」
宮本課長の疑うような眼差しが、辛い。
「はぁ。なにやてんだよ。早く見つけろよ。」
「へへっ。はい。」
「じゃあ、また後でな。」
「はい。」
そう言って宮本課長は、給湯室から出て行った。その宮本課長の背中を眺める。
嘘をついて、ごめんなさい。だけどそうしないと、立って居られなかった。あれほど携帯電話という存在を憎んだことはなかった。私の携帯電話は、箪笥の奥に電源を切って封印しておいた。
それは、怖くてしょうがなくなったからだ。もう連絡が来ないんじゃないかとか。連絡がきたとしても、別れの連絡なんじゃないかとか。だから、封印した。
圭吾さんのことは誇らしいと思っていた。信じていた。……だけどあんなものを聞いたら、どうしたらいいのか分からなくなる。
そして、さっき柚ちゃんにえぐられた私の心をどうしたらいいのか分からない。宮本課長は“また後で”と言っていた。
……怖いよ。何を言われるの?
その“後で”を迎えたくなくて、私は必死に今日の業務を終わらせ、逃げるように家に帰った。
そんな日が何日か続いた。……宮本課長とは、業務連絡以外の会話をしていない。携帯だって封印したままだ。
そしてここ最近、ゆっくり疲れがとれない。だけどそれでも朝はやってくるから、毎日仕事に行かなきゃいけない。
「ともみ、大丈夫?顔色悪いよ?」
美香は無理矢理事情を聞いてくるわけでもなく、私の体を気遣ってくれていた。1人暮らしを始めてから、料理が楽しくて毎日栄養もちゃんと採れていたけど、最近は食欲が無いために、昼以外はほとんどちゃんと食べていなかった。
「大丈夫。最近本読むのにハマっちゃって。睡眠時間削られちゃうの。」
そんな美香のことも、私は笑ってごまかす。
だけど、こんな自分に戸惑っている自分がいる。宮本課長とぎくしゃくしちゃって、こんな風にちゃんと生活を送れなくなっちゃうなんて。
今までこんなことはなかった。最初に6年付き合った彼氏には、浮気を1回だけされたことあったけど、こんなにダメージもくらわなかった。きちんと話し合って、仲直りすることができた。
「もう!ちゃんと夜くらい寝なさい!今日は付き合ってもらうからね!」
「えっ。」
「明日は休みでしょ?飲みに行くわよ!」
それは美香なりの心遣いだとすぐに気づいた。
「定時にあがれなかったら、張り倒すから。」
とまで言われてしまったから、頑張るしかなかった。なんとか定時に仕事を終わることができたと思ったら、美香は私の腕を掴み、私と美香が飲みに行くときのいつもの店へと連行される。
「なにがあったかは聞かないけど。宮本課長と何かあったんでしょ?」
いつもの個室に通されて、頼んだ料理も揃ったところで、美香が優しく言ってくれた。
「……なにか、あったのかも分からない。」
だって、避けてるから。真実を確かめようとも、していないから。
「傷をえぐるようで、悪いんだけどさ。」
美香はカランと焼酎のロックを鳴らしながら呟いた。
「宮本課長、柚ちゃんに落とされたって噂になってる。」
ズキンと胸に響く。
「……そう。」
噂になるくらいだから、柚ちゃんが言っていたことは本当だったのかな。
「宮本課長と別れたの?」
「別れ話もできてない、かな。」
傷ついた心を隠すように、へへっと笑う。
「別れたいの?」
「……っ。」
美香のその質問には、答えに詰まった。
だって。だって。
「別れたい、わけ、ないじゃない…っ。」
ダムの水が溢れてしまったように、次々と涙が溢れた。別れたくない。圭吾さんのぬくもりを、もう一度感じたい。
だけど、だけど。
今までの恋愛なんて思い出せないくらいに、圭吾さんのぬくもりで埋め尽くされてしまっているのに、それを柚ちゃんも感じたんだとしたら、私はどうしたらいいのか分からない。
柚ちゃんにも、圭吾さんのぬくもりが注がれてしまったんだとしたら、きっと柚ちゃんは、圭吾さんから離れられない。
そしたら私は、きっともう誰とも恋愛できない。
涙のおかげなのか、柚ちゃんと起きた出来事を美香に話すことができた。
「ふうっ。おえっ。」
泣き過ぎて、嗚咽まで出たけど。
「そんなことがあったの……。」
美香は腕組をして何かを考えているようだった。
「とりあえず、今日のところは、お腹一杯食べて、飲んでスッキリしましょ!」
そういうと美香は、私に料理とお酒を勧めた。美香に話したおかげか、心も少し軽くなって、たくさん食べて、たくさん飲んだ。そして2人で私の家になだれ込んだ。
土曜日。二日酔いの私達は、お昼過ぎまで爆睡してた。あんなに飲んだのは久しぶりだった。
美香はちゃっかり晩御飯まで私の家で食べて帰った。おいしそうに私の手料理を食べる美香を見て、なんだか元気が湧いてきた。
ここのところ、色んなことがないがしろになっていたから、身なりだけでも健康にすごそう!まだ圭吾さんと向き合える勇気はないけれど、生活くらい健康に過ごさなきゃね!
美香のお陰でそう思えるようになった私は、明日は部屋の大掃除をして、大好きな料理も手の込んだものを作ろうと張り切った。
日曜日は、朝早く目覚めた。
だって今日は大掃除だからね。そして朝のうちに掃除を終わらせて、お昼から買い物に行って、晩御飯を豪勢にするんだ!考えただけで、気分はワクワクしてくる。
「まずはトイレ掃除からだね。」
掃除をまったくしていないわけでは無かったんだけど、いつもより綺麗にしてやろうと、意気込んで大掃除を進めた。掃除にはまり込んだら、時間なんかあっという間に過ぎるもんで。
「もう、お昼?」
時間が正午になったのを確認して、きりがいいところで掃除を切り上げた。
お昼ごはんは、チャーハンとたまごスープを作った。腹ごしらえをしたら、いざ出陣!今日の晩御飯のために、スーパーへ!
「今日は何にしようかなぁ。」
買い物かごを手に提げながら、今日のメニューを考える。
「あれ?大島?」
そこで、聞き慣れた声が耳に届いた。
「田中くん?」
偶然にも、田中くんとスーパーで出会った。私は手を挙げながら田中くんに近付く。
「なんか久しぶりな感じだね。」
「うん。」
スーパーで知ってる人に出会うのって、ちょっと照れくさいような、そんな気分。
「大島は、買い物?」
「うん。今日の晩御飯をね。」
「そっかぁ。料理、上手だもんなぁ。」
「覚えててくれたんだ。」
田中くんと付き合っている頃、田中くんに何度か腕を振舞ったことがある。
「まぁ、美味しかったし。」
「ありがとう。」
素直に私の料理を褒めてもらえて、嬉しくなって自然と笑みが零れる。
「田中くんは?買い物?」
「あぁ、まぁ。うん。」
「あれ?でも田中くんの家ってこの辺じゃないよね?引っ越したの?」
確か田中くんは会社の近くで1人暮らしをしていたはずだ。
「え?あ、あー……彼女の家がこの近くで。」
田中くんは頭を掻きながら照れくさそうに、そう言った。
「え!彼女!できたの!」
「…まぁ。」
「良かったねぇ。おめでとう!」
心から、そう思える。田中くんを幸せにしてくれる人が現れて、本当に良かった!
「え。じゃあ何かスーパーまで買いに行けっていうパシリ?」
「まぁ、そんなとこ。醤油が切れてたらしくて。」
田中くんは、ホラッと醤油を掲げてみせた。
「なんか、いいねぇ。」
私まで嬉しくなってきちゃう。だって嬉しい報告をこんなバッタリ聞けるなんて、そうそうない。
「ありがと。」
終始照れくさそうな田中くんを見ると、胸がホッコリする。
「彼女のこと、幸せにするんだよ。」
「あぁ。」
それで、「また会社で」と言って、私達は分かれた。田中くんとおしゃべりしていたのは、ものの数分だったと思う。だけど。
「ともみ、お前、田中とやり直すの?」
家に帰ると、マンションの前で圭吾さんが立っていた。そして、開口一番に、そう言われた。
「……え?」
私には、状況が理解できない。私のマンションの前にいることも、なぜそんな厳しい顔をして意味が分からないことを、言うのかも。
「さっき田中と一緒にスーパーに行ってただろうが。」
圭吾さんに睨まれて、体がびくっとなる。だけど頭の中では、冷静に色んな事を考える。
さっき?スーパー?さっきスーパーで田中くんとバッタリ会ったことを言ってるの?
「……行ってない、です。」
圭吾さんがあまりに怖くて、敬語になってしまう。
「見たんだ。」
圭吾さんもあのスーパーに居たの?だったらその時に声を掛けてくれたら良かったのに。
圭吾さんの考えていることが、分からない。柚ちゃんと一夜を共にして、柚ちゃんと噂になっているのはそっちなのに。
「田中くんとはバッタリ会っただけです。」
「じゃあ何でそんなに大量の買い物をしている。1人分じゃないだろ。」
私の手に握られていた買い物袋には、ぎっしり品物が詰まっていて、明らかに1人分ではない。だけどこれは、料理のレパートリーを増やそうと思ったから。
「これは…「ごめん、ともみ。」
説明しようと思っても、私の声は圭吾さんにかき消される。
「お前の事、よく分からなくなったわ。」
圭吾さんはその言葉を吐き捨てると、固まった私の横を通り抜けて圭吾さんは歩いて帰って行った。
なに?圭吾さんはどうして私のマンションに来ていたの?
ショックの大きかった私は、その場から動けなくなった。
“分からなくなった”って、別れの言葉ですか?
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