第2章 落ちた
宮本課長の言いつけを破る訳にはいかないため、珈琲をみんなに配り終えると、私はものすごい勢いで自分の仕事を再開した。
溜め息なんて、出している暇はない。会社の終業時間は18時。それまでに終わらせなければ!!
いつもは残業になることはないけれど、「今日は会議があったから少し残業になっちゃうな~」ってくらいのペースで進めていたもんだから、必死に頑張った。
「……ふぅ。」
ものすごいペースで飛ばしたから、17時50分には自分の仕事が終わった。なんとか間に合った。そして、明日の仕事の準備までして、18時を迎えた。美香は、残業決定のご様子だ。
「美香、お疲れ。」
「げ。一緒に会議に出たのに、もう終わったの?」
「へへっ。じゃあ、また明日ね。」
「お疲れー。」
その場に居た同僚の皆さんに一声かけて、フロアを出た。ロッカールームへ向かい、鏡で軽く化粧を直す。そして防寒具を羽織って、ロッカールームを出た。腕時計を確認すると、18時20分。
早めに着いちゃいそうだな。
そう思いながら、1階へ向かうエレベーターに乗った。1階のフロアに着くと、ちょうど今しがた取引先から帰社したらしい、部長と柚ちゃんにバッタリ会った。
「部長、佐々木さん、お疲れ様です。お先に失礼します。」
「お疲れ様。今日は、1年目の佐々木くん達の打ち上げに誘われてるんだが、大島くんもどうだね。なぁ?佐々木くん。」
「あ、そうですね。宮本課長が急用でキャンセルされたんで、1枠余っちゃうんですよ。その1枠も宮本課長の奢りだから、お金は大丈夫ですよ!」
部長も柚ちゃんも、ニコニコしながら、私を誘ってくれた。というか、宮本課長の急用って?!
「そ、そうなんですね。でも、私も生憎用事がありまして。良かったら、まだ残業している社員をお誘いされたらどうですか?」
残業してるってことは、予定のない人も居る可能性が高いだろう。
「お。そうだな。じゃあ、気をつけて帰りなさい。」
「はい。お疲れ様でした。」
「大島先輩、お疲れ様でした。」
二人に会釈をして踵を返す。そして、宮本課長との待ち合わせ場所に向かう。
宮本課長に急用が入ったと聞いたため、「もしかして私との約束も来れないんじゃ……?!」とも思って居るが、宮本課長の連絡先を知らない私は、とにかく駅に向かうしかない。
駅前には約束の20分前に着いてしまったため、近くのコンビニで時間を潰すことにした。
パッと顔を上げて、腕時計で時間を確認すると、19時5分。
や、やばい。思ったより集中して雑誌を読んでしまった。私は慌てて、雑誌を元の位置に戻した。
「ぷ。」
すると、隣から噴出した笑い声が聞こえてきた。
「そんなに慌てなくても、隣に居るよ。」
「み、宮本課長!!」
宮本課長が、いつの間にか隣で雑誌を読んでいた。
「いつから隣に居たんですか?」
「んー。10分前くらい?」
「声掛けてくださいよ!!」
それから私達は一旦コンビニの外に出たのだけれど、宮本課長の急用は大丈夫なのだろうかと気になる。
「そういえば、宮本課長。急用が入られたんでしょ?」
「急用?」
「はい。先ほど、佐々木さんに、宮本課長が急用で打ち上げを断られたと伺いました。」
「あぁ。急用ね。それ、これのことだから。」
は?これ?
「え?」
「大島さんと急に食事に行くことになったから、断ったんだよ。」
宮本課長が、なんでもないことのように言うから私は絶句した。心の中では「急用って私だったのーー?!」と叫びまくっているが、声に出せるわけがない。
「じゃあ、行こうか。」
「……はい。」
宮本課長が歩き出したため、私もそれに、着いていく。
一体、どんなお店に行くんだろう。宮本課長が行くお店って、なんだか想像がつかない。
駅から10分ほど歩いたところで、宮本課長が足を止めた。
「ここ。」
そして、宮本課長がそのお店の戸に手をかけた。
……なんか、想像してたのと違ったなぁ。
そのお店は、こじんまりとした焼き鳥屋さんだった。オシャレっちゃオシャレだけど、私が想像していた宮本課長のイメージとはかけ離れていた。てっきり、イタリアンがフレンチかハイソなところに連れて行かれるのかと思った。
しかし今の私からすれば、こういう焼き鳥屋さんはの方がありがたかった。初めて二人でご飯に行くのに、おしゃれすぎるお店だと気づかれしてしまうからだ。
「ここ、知り合いが経営してる店。いつも、立ち寄るんだよ。」
そしてこの店が、宮本課長が常連である店だと教えられた。
「いらっしゃいませ。」
店員さんが私達を出迎えてくれる。
「宮本様ですね。こちらへどうぞ。」
店員さんが宮本課長の顔を見ただけで、席を案内しはじめた。そんなにいつも来てらっしゃるのかな?
案内された席は、個室だった。表がこじんまりしている割には、中は広いんだなぁって思った。
「大島さんは、お酒飲める?」
「はい。少しだけなら。」
「そう。じゃあ、最初は何飲む?カクテルもあるけど。」
宮本課長はそう言って、ドリンクのメニュー表を私に見せてくれた。
わぁ、ソフトドリンクのメニューが少ない。私、酔っ払うとひどいんだけどな。
「酔っ払っても大丈夫だぞ。今日は、無礼講。」
宮本課長がソフトドリンクを凝視する私を見て、そう言ってくれた。そんな風に言ってくれているなら、最初の一杯くらいはお酒を頼まないと申し訳ない気がする。
「そしたら、カシスオレンジお願いします。」
困ったときはカシオレだ。
「OK。食べ物は、何食べる?どんどん頼んでいいから。」
「は、はぁ。」
「俺はやっぱ最初は豚バラだなぁ。」
宮本課長は楽しそうに料理のメニュー表で、自分の食べたい物を決めている。その姿があまりに無邪気で「こんな少年っぽい表情もするんだなぁ」と、見入ってしまう。
「決めた?」
しばらくぼうっとしてしまい、宮本課長のその言葉にハッとさせられる。
え、どうしよう!まだ決めてない!
「ちょ、ちょっと待ってください。」
私は慌てて、メニュー表を見つめる。よく見ると、焼き鳥以外のメニューも充実しているから何を頼んだらいいのか、よく分からない。
「あの、宮本課長のオススメを食べたいです。」
宮本課長は常連だから、きっと美味しい食べ物をご存知だよね。そんな私に宮本課長は、ふっと柔らかい笑みを零す。
「分かった。」
そう言うと、店員さんを呼んだ。
宮本課長オススメの焼き鳥は本当に美味しかった。豚バラや鶏皮なんて数えきれないほど食べてしまった。そのお陰で、カシオレも進んだ。そうなると、お酒にあまり強くない私は、当然酔っ払ってしまうわけで。
「田中くんには、ひどいことしちゃったなって、思うんですぅ。」
なぜか、宮本課長に元彼の田中くんの話を始めていた。そんな私の話も、宮本課長は楽しそうに聞いてくれている。
「ひどいことって、どんな?」
……宮本課長。あなたがそんな風にかっこよく聞いちゃうから、私が調子の乗っちゃうんですからね!
「私、高校2年の時に付き合い始めた彼が、初めての彼氏でした。」
「うん。」
「その彼とは、去年までの6年間付き合っていたんですぅ。」
「うん。」
「だから、トーゼン、私の初体験もその人でぇ。その人以外、知らなかったんですぅ。」
「うん。」
「もぉ、すうっごい大好きだったんですぅ。……でも、お互いの気持ちが離れちゃって、別れることになりました。」
「うん。」
「その後にぃ付き合い始めたのが、田中くんだったんですぅ。」
宮本課長は少しも嫌な顔せずに私の話を聞いてくれるから、更に気分がよくなって話を続けた。
「それでぇ、やっぱ恋人同士だからぁ、そういう甘い感じになっちゃうじゃないですかぁ。」
「うん。」
私のくだらない話に宮本課長がきちんと相槌まで打ってくれるから、私のくだまきは止まらない。
「でも私ぃ。高校から付き合ってた彼に未練はなかったんですけどぉ。」
「うん。」
「比べちゃってたんですよ、夜のベッドでの方とかぁ。」
「うん。」
「だから、田中くんとのことに集中できなくてぇ。」
「あぁ。相手が集中してないと、分かるもんな。」
「やっぱ分かるんですか?それで、何でいつも集中してないのって聞かれたから、正直に言っちゃって。」
言葉に起こすと、やっぱり私は最低だと思った。エッチを比べてしまうこともそうだけれど、それを本人に言うのは以ての外だ。私の浅慮さで田中くんを、傷付けてしまった。
「それから気まずくなって、別れたってとこか。」
「そうなんですぅ。」
自分で口にしてみて、やっぱり落ち込んだ。お酒が入ってても、落ち込むものなんだなぁ。
「でもそれは、田中が悪いな。」
なのに宮本課長は、田中くんが悪いとキッパリ言った。
「え?」
「だってそうだろ。田中に大島さんを夢中にさせる技量があれば、問題なかったわけだ。」
「ち、違いますよぉ。私の恋愛経験と思慮が浅かっただけですぅ。」
私はそう言いながら、もう何杯目か分からないカシオレをゴクッと一気に体に流し込む。お酒って、こんなに美味しかったけぇ?
「ふぅん。じゃあ、大島さんが恋愛経験浅いだけか、俺で試してみる?」
宮本課長がなぜか、そんな不可解なことを言い出した。
「?」
意味が分からず、首を傾げてみる。
そんな私の頬に右手で触れたかと思うと、宮本課長はこう言った。
「前の男と比べる気分にならないくらい、愛してやるよ。」
……落ちた。完全に落ちた。私を捕らえて離さないその瞳に、私は完全に落ちてしまった。
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