3番目のあなた【カクヨム版】

茂由 茂子

3番目のあなた

第1章 溜め息

「はぁ。」


今日も穿き慣れたストッキングに足を通しながら、盛大な溜め息を零す。


出掛ける前に、ドレッサーの鏡で身支度を確認すると、その表情は情けなくても、出社準備は万端だ。


1人暮らしの部屋の戸締りも入念に行い、どんな重い荷物よりも重い気分を肩に背負いながら、玄関を出た。


最寄りの駅までは、徒歩5分。電車に揺られるのは、10分。そしてまた徒歩10分歩くと、私の勤務する会社に到着する。


通勤時間は、約25分。これは毎朝変わらない。


だけどここ1ヶ月、私の出社に対する足取りは異様に重くて、会社の敷居を跨ぐだけでも、一苦労なのだ。


「おはよう。」

「おはようございます。」


会社の中に一歩踏み入れると、出社してきた人が大勢居て、朝の挨拶の声も、飛び交う。私の勤めているここ、コスモ商事は、海外事業も展開する大手だ。


私はそんな会社の、第一営業部に所属する。入社2年目の、ほぼ新米。……さすがに1年目の子達よりは、仕事を覚えているけどね。


大島おおしまくん、おはよう。」

「おはようございます。」


出社する人で溢れるエレベーターの前へと行くと、部長と会った。とびきりの笑顔で挨拶をする。


部長は面倒見の良い人柄で第一営業部の皆から慕われている。……だけど、少しだけ強引なところがあるのが、私はちょっとだけ苦手だ。


「今日の会議の資料、第一営業部の棚に置いてあるから。配っといて。」

「……はい。」


早速今日の会議について触れられて、私の心はより一層重くなる。今日、いつにも増して出社拒否しそうなほど心が重いのは、この会議が原因なのだ。


「……はぁ。」


自分のデスクに到着しても、溜め息が出る。


「おはよう、ともみ。ひどい溜め息だね。仕事はしっかりやんなよ?」


私の溜め息の原因を知っている同期の三枝美香さえぐさみかは、課は違うけれど同じ営業部所属であるため、フロアは一緒だ。毎朝溜め息の出る私を、そんな風に励ましてくれる。


美香とは、この会社に入社して以来の付き合いだけど、気が合って休日も一緒に過ごすほどの仲だ。強いて言うなら、同僚兼何でも話せる友達だ。


「ありがとう、美香。……頑張るよ。」


頑張るしかない。だって子供じゃないんだから。ふんと気合を入れていると始業時間になり、早速今日の業務に取り掛かる。


はぁ……。


しかし、パソコンの画面を見ながらも溜め息が出る。今日の会議は午後からだ。それまでに、自分の今日の仕事を、少しでも多く片付けておこうと、パソコンのキーを叩く。


はぁ……。


本日何回目の溜め息なんだろうか。溜め息をつきながらでも、時間は刻々と時を刻んでいたようで……。


「ともみ、お昼行こう。」


……お昼休憩の時間になっていた。


キリのいいところで、私は席を立って、美香と一緒に社員食堂に向かう。午後からの会議を、よっぽど嫌だと思っているためか、時間が進むのが速い。私の心の準備をする時間を、与えてくれない。


「今日の会議、田中たなかくんも参加だよね?」


お昼を食べているときに、私の溜め息の原因であるその人物の名前を、美香が口にした。だから私は、ギクッとしたのが顔に出てしまった。


「はーん、なるほど。だからか。今日はいつにも増して、ともみの溜め息が多いの。もう、いいじゃん。終わった事なんだから。」


“終わったこと”。確かに、そう。


「それとも、未練があるの?」

「…そういうわけじゃないけど。」


美香が口に出した人物「田中」こと田中勝まさるは、私達と同期の24歳で、年齢も一緒である。その人と私は、1ヶ月前まで付き合っていた。


「彼のこと、傷つけちゃったから。どんな顔で会えばいいのか分からない。」


田中くんの顔を思い浮かべて憂鬱になりながら、ランチについていたサラダを口に運ぶ。


田中くんは、優しい人だった。だけど私はそんな彼を、無神経にも傷付けてしまった。私はまた、彼のように誰かを傷付けてしまいそうで怖いのだ。


しかも何が怖いって、田中くんをそんなにも傷つけていることに気付かたなかったことだ。そんな私達の付き合いが長く続くはずもなく、半年をもって終了された。


「まぁねぇ。男なら、かなり傷つくかもねぇ。しかも、ともみは無自覚でしょ?たまんないよねぇ。」


そんな私に、美香は追い討ちを掛ける。


「……だから合わせる顔が無いんじゃない。」


田中くんは、第二営業部だ。第一営業部の私達は国内の営業担当で、第二は海外向けの営業担当である。だから、通常ならばフロアも違っていて顔をあまり合わせることは少ないのだけれど、今日の会議は、第一と第二の合同会議なのだ。


会議というよりも、お互いの今後の活動大綱を発表し合う場である。その会議に参加しなきゃいけないのは、3年目までの社員と長がつく役職を持った人たちである。


入社3年目までの若い社員が、その活動大綱をきちんと理解しているか、を確認するための側面の強い会議である。だから、プレゼンテーションは、基本的に1年目の社員がする。


そんなわけで当然、昨年の私も第一営業部の同期とチームを組んで、このプレゼンテーションを任された。


そして、昨年のこのプレゼンテーションの打ち上げを、第一と第二が一緒にすることになって。……それが、田中くんとの関係が親密になっていくキッカケになったのだ。


「はぁ……。」


田中くんと私のエピソードを思い出して、また溜め息が出た。


「そんな溜め息ばっかりついてたら、幸せも逃げちゃうよ。」


美香の言葉に、全くその通りだと思ってしまう。不幸な顔をしている私に、幸せなんて寄ってこない。というか、田中くんに申し訳なくて、幸せになんてなれないよ。


昼食を終えると、私は午後の会議のための準備を始めた。部長に言いつけられてたし、しっかりやらないとね。


「先輩、私も手伝います。」


キャビネットから会議の資料を取り出していると、入社1年目で私の初めての後輩になる佐々木柚ささきゆずちゃんが、私のところに来た。彼女はこの後、プレゼンテーションするはずである。


「え。でも、柚ちゃんプレゼンテーションあるでしょ?その準備は大丈夫なの?」


私が今、手に握っているのは、きちんとホッチキスまで留めてある会議の資料だ。今からこれを、会議室の机に並べに行く。


「だってそれ、私達の資料ですし。最後まで見届けたいんです。」


ヘヘッと笑う柚ちゃんは、本当に可愛いい。入社1年目組では、一番人気だって聞いたのを思い出した。


「柚ちゃんが大丈夫なら、手伝ってもらおうかな。」

「大丈夫です!」

「じゃあ、半分持ってね。」

「はいっ。」


私達は半分ずつ分けた資料を持って、会議室に足を運んだ。


「プレゼンテーションはどう?上手くやれそう?」


緊張しているだろうから、柚ちゃんに声を掛けてみる。


「分かんないですけど……。でも、できるだけのことはやったつもりです。」

「そっか。そう思えるなら、大丈夫だよ。それに、確認し合う場だから心配しなくて大丈夫。4月から入ってくる新入社員に戸惑い無く、教える事ができるように設けられた場だから。」

「そう、ですよね。」

「まぁ、これは昨年、課長に言われた受け売りなんだけどね。」

「えっ。課長って、宮本みやもと課長ですか?!」

「そうそう。」

「宮本課長が言うなら、間違いありませんね。」

「えー?私じゃ駄目だった?」

「そ、そんなことないですけど!」


私達は、フフフッと笑いあった。


良かった。柚ちゃんの緊張も、少しはほぐれたみたい。


会議室の準備ができた後、14時から会議は始まった。会議室の席は、コの字型になっている。どこに座ってもいいはずなのに、こういうときに限って田中くんが私の真正面に座っている。


……はぁ。


会議中に田中くんと目が合ったけど、すぐに逸らされてしまった。


……まあ、そうですよねー。こんな女の顔なんか、見たくないですよねー。ついつい自分を卑下する心が出て来てしまう。


そしてまた、誰にも分からないように小さく溜め息を零す。本当に今日は、何回溜め息をついたらいいんだろう。溜め息をつきながらも、仕事に支障をきたすわけにはいかないので、会議のメモはしっかりとる。


「大島っ。」


会議が終わり、吐き出されるようにして出てきた人たちが、会議室から自分のフロアに向かって中、私はその声に足を止めた。


「田中くん……。」


思いもかけない人物からの呼びかけに、心臓はばっくんばっくんと五月蝿い。


「私、先に戻ってるね。」


気を利かせたのか、美香は私の肩をぽんと軽く叩くと、田中くんにも軽く挨拶してから、先に部署に戻っていった。


「……どうしたの?」

「……うん。」



中々喋りだそうとしない田中くん。お互いに、自分の仕事に戻らなきゃいけないから、そんなに時間は無い。


「……ごめん、な。」

「え?」

「なんか、気に病んでるみたいだから。こんなこと、俺の方からわざわざ言うのもどうかと思うけど、もう気にしないで欲しい。」


もしかして、私が溜め息を零してたのに気付いてたの?


「……ううん。私の方こそ、ごめんね。」

「うん。お互い、新しい恋愛、頑張ろうぜ。」

「うん。そうだね。」

「じゃ、また。同期のみんなで飲みにでも行こう。」

「うん。」


私と田中くんは、それで分かれた。だけど私は、そのまま自分のデスクに戻る気になれなくて、給湯室へと珈琲を淹れに来た。


せっかくだから、課のみんなの分も持って行こうと思い、15人分の珈琲を用意する。


……はぁ。


そこで、今日一番の大きい溜め息が出た。


新しい恋愛とか言われても、また田中くんみたいに傷付ける人を増やすのだと思うと、中々できないなぁ。


田中くんに未練があるわけじゃない。でも、私達の別れた理由を考えると、なんだか前に進めない。


……はぁ。


「今日はものすごい溜め息の数だな。」


俯いていたからか、給湯室に人が入って来たことにも気付かなかったため、私は肩を震わせて驚いた。


「み、宮本課長!!」


その声の主は、宮本課長だった。私の直属の上司。イケメンで、社内の女の子に、かなり人気がある。背はまぁ、180cmくらいあるから、高い方だよね。きわめつけに30歳独身。


しかも30歳という若さで課長をやってるから、わが社期待のホープと言っても過言ではない。


「田中と何かあったのか?」


宮本課長はそう言いながら、私が作っている珈琲を覗いた。私は投げかけられた言葉に、言葉を失った。


た、田中って、もしかして宮本課長は私と田中くんのこと、知っているの?!


もう頭の中はパニックだ。なぜなら、私と田中くんの事を知っているのは、同期でもほんの数人だったからだ。だから、なぜ宮本課長が知っているのかと動揺してしまう。


「な、何でそれを?!」

「部下の事を知っておくのも、上司の務めだ。」


宮本課長は私の目も見ずに、淡々とそう答えた。うちは社内恋愛禁止なわけじゃないから、田中くんと付き合った事が悪い事ってわけじゃないけど、でも上司に知られているのは気まずいを通り越す気まずさだ。


「……もう、関係ないですから。」


そう。もう田中くんとは、ただの同期。終わったこと。


「別れたってこと?」

「……はい。」

「ふーん。」


上司にこんな事を教えるのもどうかと思ったけど、バレている事だし聞かれた事だから、別にいいよね。


「じゃ、今日の夜。俺とご飯でもどう?」


え?ちょっと待って。どうしてそういう話に?!あ、そっか。


「それも上司の務めですか?」


私があんまりに溜め息ついていたから、心配してくれてるのかな?


「うーん。そうだなぁ。男としての務め、かな?」


宮本課長はそう言うと、首をクイッと傾げた。その仕草に、惚れ惚れしてしまう。


イケメンってなんだかずるいな!!!


「男としてって、それは……。」

「これ、俺のでしょ?もらっていくね。」


宮本課長は私の言葉を遮り、珈琲カップを1つ、取り上げた。


「じゃ。今日の19時に駅前集合ね。残業すんじゃねぇぞ。」


宮本課長は、珈琲を持って手をひらひらさせると、給湯室から出て行ってしまった。それはまるで嵐が過ぎ去ったかのようだった。


 な、なにが起きたの?!?!


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