名ノナイ世界ノ勇者

第2話 誕生

 真っ先に感じたのは寒さと息苦しさだった。


 わけもわからないまま俺は叫んだ。肺が空っぽになって、そこに新しい空気が流れ込む。充分に肺が膨れたら、また叫ぶ。


 そうしているうちに息苦しさは改善していった。しかし寒さの方はタチが悪かった。


 ごわごわした布のような物で体を拭われたと思ったら、今度は肌触りのいい布で包まれる。誰かに顔を触られたような気がしたがのだが、その肌がひどく冷たい。


 次に高級ホテルに置いてありそうな柔らかいタオルのような物が触れる。だが寒さの対策にはまるでなっていない。


 誰かが言い争う声が聞こえてきた。カタカタとなにかが回る音や、金属がぶつかりあう不快な音も。いままでの静けさが嘘みたいに騒がしくなってきた。


 突然、辺りが静かになったと思ったら、ふわりと体が宙に浮いた。背中に筋張った、巨大な手を感じる。


 なぜか俺は、その手の持ち主を怖いとは感じていない。


「※※※※ ※※※ ※※※※※※ ※※」


 頭のうえから声が降ってくる。


 優しくて、静かな声だった。


 聞いたことがない言語だ。日本語以外の、なにか別の言語。


 返事をせねばと思うのだが、口は動かない。


 ゆっくりと目を開くと、陽の光を浴びて輝く金色の髪が視界に入ってきた。紫色の唇や白い肌、そばかすのある頬、青い瞳が。


 「※※※※ ※※ ※※※※※ ※※※※※※」


 顔色の悪い、疲れ果てたようなその女性は、ため息をつくように、静かに微笑んでみせた。


 彼女の胸に抱かれると、あれだけ感じていた寒さが嘘みたいに消失していく。とても気持ちが良い。


 もしかするとここは天国なのかもしれない。




 どうやら俺は生まれ変わったらしいぞ、と気がついたのは、しばらく眠って気持ちが落ち着いた後だ。


 生まれて初めて会った、そばかす金髪の女性は俺の新しい母親だった。名前はアスナ・ビズ・レイブ。ファミリーネームはレイブ、アスナが彼女の名前で、ビズは彼女の父親、つまり俺の祖父の名だそうだ。


 そんな風に、この場所ではファミリーネームとファーストネームの間に、自分の父親か母親の名前をいれる。ミドルネームというやつだ。たいてい女の子には父親の、男の子のには母親の名前を使用する。


 見事な禿頭とくとう、へんてこな口髭をいつも自慢げにさすっている男性はアスナの夫、つまり俺の父親のマリナス・マリア・レイブ。


 まるで早口言葉みたいな名を授かってしまった彼だが、ここらでは有名な商人らしい。ムダに部屋数の多い俺の生家は、マリナスが親の仇のように食品を売りさばいた努力の結晶だ。


 どうも酒癖がよくないらしく、酔えば決まって用途も価値もはっきりしない物を購入してはアスナに叱られている。


 ちなみに彼が最近手に入れたものはクギだった。


 どこにでもある、ありふれたクギだ。それを道行く職人の工具箱から、一晩の食事代並みの値段で購入したのだ。アホである。


 そして俺がいるこの世界。


 ここは(大きな世界)あるいは(偉大な世界)と、呼ばれている。


 ちなみに俺は生後三日でこれらの事実を把握していた。


 俺が知っているのはこれだけじゃない。


 この(偉大な世界)には、オークやオーガといった物語の世界でよくみる生物や、フェンリルや不死鳥といった魔物や神獣、これまた有名なヒトの亜種、獣人やエルフ、ドワーフといった人種が存在しているらしい。恐竜までいるということだから驚く。


 これらは実際この目で見るまでは信じることが出来そうにないが、獣人だけは存在していると断言できる。


 なぜなら俺の母親、アスナ・ビズ・レイブの頭のうえには狐のような耳がちょこんと乗っていて、尻からはふさふさとした尾が生えているのだから。


 言語は(偉大な言葉)というものが存在していて、ほとんどの生物がそれをもちいてコミュニケーションをとっている。


 もちろん種族独特の言語というものは存在しているのだが、たいていは(偉大な言葉)で通じてしまう。(偉大な言葉)というのは、普遍的な第一言語のようなものなのだ。


 なんとなくの印象を地球で例えると、ロシア語やフランス語に近い感じがする。


 ところで俺は、両親の言葉の意味を理解できない。


 では生まれたばかりの赤ん坊である俺が、なぜこれらの情報を得ることが出来たのか。


 それは、この世界に俺を導いたラジオのノイズのような声、彼女の献身的にして偏執的な授業のおかげである。


 ある日の授業のこと。


 ――あなた、の名前はファウスト・アスナ・レイブ。ファウスト、はあなた、の所有物、で、アスナは母、だけの所有物。レイブ、はあなた、を含む、小さな単位、皆が、所有している。


 彼女はこう言う。


 なぜか自慢げな感じがして非常に腹立たしいのだが、それは一旦置いておく。


 なにを言っているのかさっぱりわからない。


 ?


 と、こう念じると、彼女はまた、自信たっぷりにこう言う。


 ――あなた、の名前はファウスト・アスナ・レイブ。ファウスト、はあなた、の所有物、で、アスナは母、だけの所有物。レイブ、はあなた、を含む、小さな単位、皆が、所有している。


 と、壊れた音源みたいに繰り返す。


 俺は真剣に彼女の言葉を分析しようとするのだが、体の情報処理能力が低いのか、考えがうまくまとまってくれない。そうしていると、また。


 ――あなた、の名前はファウスト・アスナ・レイブ。ファウスト、はあなた、の所有物、で、アスナは母、だけの所有物。レイブ、はあなた、を含む、小さな単位、皆が、所有している。


 わかった。そうだな。お前の言う通りだ。


――あなた、の名前はファウスト・アスナ・レイブ。ファウスト、はあなた、の所有物、で、アスナは母、だけの所有物。レイブ、はあなた、を含む、小さな単位、皆が、所有している


 ……。


 こうして俺は、転生して数日しか経っていないにも関わらず、働き詰めてクタクタに疲弊したサラリーマンみたいに眠りの世界に逃避するのだった。

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