第22話 イリスの自慢
/真斗
「そういうわけだから」
はい、と手渡されて。
俺は睡魔もどこかに忘れ、自分の腕の中に収まった輩の顔をまじまじと覗き込んだ。
完全に無防備な表情のまま、微かにくーと寝息を立てている姿は、年相応で可愛いといえば可愛かったが、それを呑気に見入るわけにもいかず、俺は困惑気味に来訪者を見返した。
「いや、そういうわけって言われてもなあ」
これは困るぞ、かなり。
「ていうか何で俺のとこに?」
とりあえず、目の前の少女に向かって疑問をぶつけてみる。
「わたしは昨日、いっぱい茜を独り占めできたから。……お裾分け?」
お裾分けって。
どこまで本気なのか、イリスはそんな返答を寄越してきた。
そう――イリス。
こいつが俺の住んでるワンルームマンションに直接やって来ることなど、滅多にない。
ないのだが、今日はどういう風の吹き回しか、朝っぱらから現れてくれやがった。
しかも土産付で。
土産というのはもちろん、俺の腕の中にいるやつのことである。
「だからどーして俺なんだって」
事務所に連れていけばいいだろうに、よりによってなぜに俺のとこまで連れてきやがったのか。
そう聞けば、イリスはほんの僅かに微笑みを見せた。
まるで誇るかのように。
「自慢……かな?」
「はあ?」
「茜、真斗のこと好きだもの」
「な――」
い、いきなり突然何を言い出すんだこの女は。
イリスは一歩近づくと、酔い潰れて眠っている茜の髪を、愛しむかのように、そっとなでる。
「でも、わたしは負けないから。昨日はわたしの勝ち。茜、わたしにいっぱいいっぱい頼ってくれたから、とても嬉しかった」
「頼ったって……こいつが?」
イリスの問題発言よりも、むしろそっちの方が気になった。
茜が誰かに頼るなんてことは、それこそほとんど無い。
俺はもちろん、こいつが敬愛しているであろう姉の楓さんにすら、頼ったりはしない。
何だかんだでプライドの高い奴なのだ。
そんな茜が酔い潰れるまで飲んで、イリスに身を任せてしまったというのだから、珍しいというよりは茜に何かあったと考えた方が自然だろう。
何か、か。
ふむ。
「……ったく。こいつらしいといえばそうだけど。酒に頼らなきゃならねえほどに、一人で背負い込むなっての」
茜がこの最近で悩むようなことがあったとすれば、それはもう一つしか考えられない。
面にこそ出してなかったものの、こいつなりに姉のことで心労が溜まっていたってわけだ。
「イリス、茜に楓さんを捜してくれって頼まれたのか?」
「え?」
驚いたように、イリスの表情が変わった。
「どうして……わかったの?」
いや、分かるぞ。
というかそれ以外に考えられないし。
「そんなとこかなーと思ってさ」
「……そう」
機嫌の良さそうだったイリスの雰囲気が、途端にがらりと変わる。
そして一言宣言された。
「負けないから」
「こらこら何の勝ち負けなんだ」
まあいいけどさ、別に。
「けどいいのか? こいつ、俺なんぞに預けて」
踵を返しかけたイリスへと、俺は慌てて呼び止める。
正直なところ、これはこれで困るんだって。
「……真斗は信用できるから」
信用……ねえ。
「それに茜に頼まれたのは、楓のことだけじゃないもの」
「そうなのか?」
「うん」
ふーむ。こいつ、いったい何を頼んだのやら。
「だから、後は任せてあげる」
「……わかったよ」
結局、俺は頷くことになった。
ここは俺の甲斐性の見せ所ってとこか。
しょーがあるまい。
「なあイリス」
「なに?」
「ずっと茜の……友達でいてやってくれよ。こいつ、お前のことちょっと苦手にしてるけど、反面お前の前じゃあけっこう素直になるしさ。俺は悪くないって思ってるし」
たぶん、茜にとってイリスは必要な存在だ。
少なくとも俺は、そんな風に思う。
「…………茜って、わたしのこと、どう思ってるのかな」
俺の言葉には答えず、イリスはそんな質問を返してくる。
聞きにくい質問を、それでも気になって聞かずにはおれなかった――そんな感じの、声音で。
「どうって。好きに決まってるだろ? 茜のやつが好きなのは、楓さんとイリスだって、そんなの周りの連中にはもろばれだっての」
「そうなの……?」
「なんだ、自覚なかったのか?」
あいつは他人に好かれやすい人柄というか、巡り合わせというか、そんな感じのやつなんだけど、その茜が明らかに他と一線を画して接している相手といえば、これはもうイリスと楓さんしかいない。
本人は苦手として自覚してるっぽいが、きっとそれは好意の裏返しなんだろう。
俺がそう指摘してやったところで、あいつはそれを認めないだろうけどさ。
「だといいなとは思ってた……。そう……そうなの」
そこでまた、イリスはどこか嬉しそうに微笑む。
そんな光景を眺めて、やっぱりどこかエクセリアと似ているな、と思う。
もっともイリスの方がずっと、自分に素直で積極的っぽいか。
「そーゆうわけだから、こいつのことよろしく頼むぜ」
「うん」
その返事を聞いて。
なぜだか俺自身も、けっこう満足することができたのだった。
/要
「……ふう」
身体の奥に溜まった疲れを吐き出すかのように、私は窓に向かってため息をついた。
もはや一限目の授業などそっちのけで、教師の声など耳にすら届いていない。
ぼんやりと眺める窓の向こうはいつもの風景で、これといって代わり映えのしないものだ。
身体が重くてだるい。
疲れもあるが、どちらかというと寝不足のせいだろう。
実際、昨夜もろくに眠ることができなかった。
あまりに色んなことがありすぎて。
教室内を一瞥すれば、空席が二つある。
一つは由羅のもので、今日は欠席扱いだ。
さすがに今朝は目覚めなかった。
昨夜――私の目の前で意識を失った由羅は、出血していた傷こそあっさりとふさがったものの、いっこうに目覚める気配がなかった。
担任には体調が優れないから今日の授業は休むということで、話をつけてある。
……色々と、たまらない。
由羅がこんなことになってしまったこと。
自分は何もできなかったこと。
この学校の得体の知れない現象のこと。
紫堂くんのこと。
正直頭がぐちゃぐちゃだった。
どこから考えていけばいいのか、それすらよく分からない。
ため息だって出てしまう。
あまり好きじゃないのに。
そういえば縁谷さんもお休みか。
氏埼先生は貧血だって言ってたけど、大丈夫なんだろうか。
「う~……」
小声で、うめく。
眠くて頭はぼんやりするものの、考えなければならないことも多くて、寝るに寝られない。
そもそも今は授業中。
本当にままならない……。
とりあえず今は、昼休みになるのを待つしかないか。
一応昼休みに紫堂くんと会う約束になっていて、軽く話し合うことになっている。彼の正体を含めて、色々と。
昨夜はばたばたしていて、ろくに事情を聞くこともできなかった。
私としても由羅のことでそれどころじゃなかったし。
とにかく、待つしかないか……。
/由羅
あまりに静かで、目が覚めてしまった。
「……ん」
その場に半身を起こして、目をこする。
「え……なに」
見覚えの無い部屋に、私はぼんやりとしながらも首を傾げた。
えっと……ここは……?
「そっか」
すぐに思い出した。私は寝起きはいい方なので、思考もあっさりと回復したらしい。
見覚えがないんじゃなくて、見慣れない部屋、かな。
どっちかっていうと。
ここは要と一緒に使っている寮の一室で、一昨日来たばかりだ。
「……あれ?」
隣を見てみて、要がいないことに気づく。
ベッドは空っぽで、綺麗に整頓されている。
部屋を改めて見回してみるものの、やはり誰もいない。
「うー……どういうこと……?」
少し不安になりつつ、時計を見つけて視線が止まった。
十一時を過ぎた頃。もうお昼だ。
要ってば、私を起こさずに授業に行っちゃった……のだろう。
ひどい、と思ったのも束の間で、どうして、と疑問が先立った。
「……あ」
それで、今更のように思い出した。
昨夜のこと。
ざわりと悪寒がして、思わず傷跡を確認してみたけれど、痛みもなければ痕もなかった。
でも昨夜のことは夢でも何でもなくて、ちゃんと覚えている。
思い出してみれば、あの時の自分はちょっと変だった。
ひどく好戦的だったというか、正気じゃなかったというか、とにかくあまり真斗の前では見せたくない自分だったと思う。
どうして、だろう……?
痛みのせいだったのか、自分自身の血に酔ってしまったのか。
でも確か要には見られて……そうだ、要は……?
「無事、だったのかな」
私が覚えている最後の記憶は、要の顔だ。
ちゃんと覚えている。
少し考え込んでから。
私は部屋の外へと出た。
◇
昼間の校舎を外から眺めてみても、これといって何も変わったところは無かった。
昨夜、私が意識を失った場所に来てみても、何の痕跡も残ってはいない。
前の日と同じように。
外の空気は清々しくて、昨夜とは打って変わって気持ちのいいものだった。
人の気配はあるけど静かなもので、妙に落ち着ける。
これが学校なんだって、改めて思ってしまう。
私は要のいるはずの教室に行くわけでもなく、しばらくぷらぷらと校舎の外を散策した。
うん……悪くない。
真斗もこういう学校生活を送っていたんだなって思うと、少し羨ましくなる。
私には縁の無かった生活、かあ……。
涼風に身を任せていたら、思わぬところから声がかかった。
「昼間から堂々とサボりとはな。恐れ入るぞ?」
そんな声に振り向けば。
黒髪の美人が、私に向かって好奇の視線を向けていた。
「あ……えっと」
その見知った顔に、私は思わず身構える。
私を刺したひと――確か、襟宮鏡佳って名前だったと思う。
「そのようにあからさまに警戒しないで欲しいな。少々哀しくなる」
そんなことを言って、鏡佳はすぐ近くまでやってきて、まじまじとこちらを見返した。
「な、なに……?」
「いや。校内の輩が騒ぐのも無理はないと思っただけのことだ」
「え……?」
「いっそ、わたしのものにならないか? お前ならば可愛がってあげるが……?」
「な、え――ちょ……っ」
慌てた。
もの凄く慌ててしまった。
気づいたら鏡佳は私の目の前にいて、いつの間にやらこっちの顎に手を添え、何だかとっても物欲しそうに唇を狙っていたんだもの!
「ふふ、あははは」
思わず離れた私へと、可笑しそうに鏡佳は笑う。
「冗談だよ。気にするな」
「な、なな……」
気にするなって……そんなこと言ったって、一度頭が真っ白になったのはどうしようもない。
しばらく口をぱくぱくさせていたら、鏡佳は続けてくすくすと笑った。
「しかし本当に可愛いな。反応も初々しくて、いい」
「な、なによセクハラ……っ! 変態!」
とりあえず思いつく言葉をぶつけてみる。
……こんな言葉を使ったのって、初めてかも。
「ふん、元気みたいだな。良かった」
私の罵倒などどこ吹く風で、彼女はそんなことを言った。
「な、なに……?」
「話は夕貴に聞いている。昨夜も大変だったそうだな」
「ゆうき……?」
「ん……ああ。紫堂のことだ。覚えているだろう? 生徒会の会計だ」
言われて誰のことか思い出せた。
昨日、鏡佳を迎えに来たひとのことだろう。
「覚えているけど……どうして昨日のこと、その彼から聞いたの?」
いまひとつよく分からない。
そんな顔になった私を見て、鏡佳はしばし考え込んでから、やがて納得したように頷いた。
「そうか、そういえばあいつが言っていたな。駆けつけてすぐに、お前は気を失ったと。見ていないのか」
「よくわからないけど……」
「いい。気にするな。とにかくわたしが来たのはただの見舞いだ。部屋に行ったら姿が無くて、外を捜してみたら、こんなところでというわけだ」
「…………」
見舞いって。
「今、授業中じゃないの? 出なくていいの?」
確認するまでもなく、今は授業中だ。これじゃあ彼女もサボり、である。
「出欠程度のことで、わたしに文句を言える教職員などいない。それにサボりならお互い様だろう?」
「お互い様って……まあ、そうかも」
要がどんな風にしてくれたかは分からないものの、授業中にほっつき歩いているのは私も同じか。
「それで? 具合はどうなんだ?」
「もう、大丈夫。全然痛くないし……」
「話では相当な重傷だと聞いたが、ずいぶんタフなんだな」
感心したように鏡佳は言う。
でもその原因を作ったのって、このひとのはずなのになあ。
「見舞いついでに謝罪を、と思ってな。正直覚えはないが、お前が怪我をしたのは事実だ。多少不本意ではあるが、仕方が無い。お前の望むように謝意を示そうと思うが?」
「謝罪って……謝るってこと?」
「そうだ」
いきなりそんなことを言われて、さすがに戸惑ってしまう。
「別に……いい、そんなの」
考えた挙句、私の口から出てきたのは結局そんな言葉だった。
「どうしてだ? わたしに対して怒っていたのだろう?」
「うん……だってとっても痛かったし、要に迷惑かけちゃったし……」
「それならば、なぜだ?」
そう言われても、答えに困ってしまう。
しいて挙げるなら、謝られることに慣れていない――そんなところだろうか。
「とにかくいいの! もしかしたら謝る必要なんかないのかもしれないし、もしあなたが嘘ついているのなら、謝ってすむことじゃないもの」
そう言えば、それもそうだと鏡佳はあっさりと頷いた。
「意外とお人好しだな」
「うー、なによ」
「素直に感心したつもりなんだがな。まあいい。それよりも、せっかくだ。お昼を食べないか?」
「お昼って……あ」
ひょい、と鏡佳が無造作に取り出したのは、弁当箱だった。
「もう四時限目も終わる。ちょうど昼食時だしな。謝罪のつもりで持ってきたんだが、良ければ食べて欲しい」
「あ……えと、うん……その、ありがとう」
私は目をぱちくりとさせて。
こくりと頷いたのだった。
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