第20話 怖いもの
/要
「うーん。特に変なとこはないね」
深夜になって。
一通り校舎内を回り終えた由羅が、首を傾げて私に言う。
同行した私も、もちろんこれといった異常を見つけることはできなかった。
「まあ、そうですわね」
仮眠は取ったとはいえ、まだ何となく眠い声音のまま、小さく頷く。
夜の十一時を過ぎたあたりになって、私と由羅の二人は寮を抜け出して校舎へと向かった。
寮ではこの時間でもさすがに起きている生徒もいるようだったものの、校舎の方には人っ子一人いるわけもなく。
「…………っ」
これといった気配があったわけでもなかったが、そんな夜の校舎を改めて見返して、ぶるっと身体を震わせた。
「要?」
そんな私の様子に気づいてか、由羅が立ち止まる。
「どうしたの? 寒い?」
「いえ……そういうわけではないのですけれど」
冬目前、ということもあり、この時期の夜はかなり冷え込む。
でも身体が震えた理由は、寒さばかりではなかった。
「わたくしは、けっこう弱虫なので」
「……?」
きょとん、となる由羅。
「怖いものがいっぱいあるんです。夜の学校など、正直不気味で仕方ありませんし、そこに幽霊が出るかもと思うと……」
本当に、身体は正直だ。
よくもまあこれで、長谷先輩に自分はプロだなんて豪語したものだと思う。
「でも要って、こっちに来てからけっこう仕事したでしょ? 夜中に仕事なんて、しょっちゅうじゃなかった?」
「慣れはありますわ。もちろん。ですけれどね、由羅。いくら理性と経験で囲っても、わたくしの場合は元が弱いので……震える程度には洩れてしまうんです」
「ふうん」
分かったような分からないような、そんな相槌を彼女は返してくる。
そういえば由羅が何かを怖がっているところなんて、見たことないな。
やっぱり自分自身が強いと、そんなことは少しも思わないものなんだろうか。
「由羅は、何か怖いものはないんですの?」
興味本位で、思わず聞いてしまった。
「え、私?」
「はい」
「え~と……」
人差し指を自分の顎に当てて、うーんと考え込む由羅。
「あんまり思いつかない、かな……?」
「やはり怖いものなどない、ということですわね」
羨ましいな、と思った矢先に、由羅はぶんぶんと首を横に振った。
「そんなことないから。あんまり思いつかないだけで、怖いものはちゃんとあるもの」
「そうなんですの?」
「うん」
頷く由羅の瞳は妙に真剣で、どうしてだかこっちまで緊張してしまう。
「情けないと思われるかもしれないけど、私、その人の前だと怖くて怖くて立ってもいられなくなっちゃうから……。足が勝手に震え出して、腰も抜けて……目だってきっと、開けてられない」
その人……?
どうやら特定の人物に、とんでもなく怖い相手がいるらしい。
私はざっと記憶を辿ってみたけど、これまでに由羅がそんな反応をしたことなど見たことがなかった。
彼女は私の知る人物の中では、エクセリアと黎に対して緊張のようなものをみせてはいるものの、怖がるというレベルではないし。
気になったものの、あまり詮索しない方がいいのかもしれないと思い直し、さりげなく話題をそらすことにした。
「意外でしたわね。でもちょっぴり安心ですわ。一人で打ち震えているだけというのは、何やら不公平というか、悔しいですし」
そう答えて、私は笑顔を作って向ける。
つられて由羅もすぐに笑顔を戻した。
「大丈夫、要のことは私がちゃんと守るから」
もちろん、彼女に守られるだけでいるつもりはない。
でもここは頷いておくことにした。
お願いしますわ、と付け加えて。
それにしても、怖い相手、か。
私にだってそういう相手はたくさんいる。
この町に来てからその最たる相手といえば、あの金髪赤目の少女だろうか。
時々事務所に出入りする少女で、由羅はもちろん、茜とは特に仲のいい相手だ。
でも私にとっては怖くて仕方の無い相手だった。理由はよく分からない。
彼女に何かされたわけじゃないのに、気分は蛇に睨まれた何とやらの気分なのだ。
何なんだろう、彼女は。
普通の人間じゃないことは分かるけど、ただの異端者ってわけでも……。
それともう一つ。
さりげなく由羅を見つめ、確認する。
私は充分あなたのことも怖いんだけどね、由羅。
そんな思いは胸中にしまい込んで、二人でもう一度細かく校内を回ってみた。
一階から三階まで、各教室を回り、特別教室も洩らさず回ったものの、やはりこれといった収穫は無い。
「出ないねー……昨日の幽霊」
ぽつり、と由羅がつぶやく。
「今夜はお休みなのかもしれませんわね。でも、由羅?」
「ん?」
「今日は感じないんですの? 昨夜のようなものは」
「うーん……今のところ、別にこれといって違和感無いと思う」
「そうですか」
頷いて、私は小さく息を吐いた。
白くなった息が、ぼやけて消える。
昨夜は見回りに出る前から、彼女が何か妙な気配を感じとっていた。
今日は、それがない。
昨日と今日で、何か違いがあるのだろうか……?
私には、これといった違いは分からない。
「弱りましたわね」
何も起きないのならそれに越したことはないが、それでは根本的な解決にはなってくれないのだ。
昨夜、あの変なのが現れたのは間違いない。だから、幽霊もどきは間違いなくいる。でも今日は現れない。
何か条件の違いでもあるのか。
「え?」
思いにふけっていたところで、初めて違和感に気づいた。
いつの間にか足音が一つ、自分のものしか聞こえなくなっていた。
つまり――由羅が、いない。
「――――っ!」
ぞっとなって、振り返る。
すぐに杞憂だと知れた。
彼女はいた。
数メートル後ろで、膝をついて地面にしゃがみ込んでいる。
杞憂……?
違う!
「由羅!?」
慌てて駆け寄った。様子がおかしい……?
「どう……したんですの? 由――」
思わず息を呑んだ。
しゃがみ込んだ由羅は、苦痛に顔を歪ませて、それでも声を上げないようにと耐えている。
彼女の手は脇腹に当てられ、そこからは何か赤いものが滲み出していた。
「血……!? あなた、昨日の傷、治って……!?」
出血している箇所は、昨夜襟宮先輩に刺された場所に間違いない。
由羅は治ったと言っていたけど、実際には治っていなかったのだろうか。
それをずっと我慢していて……いや、でも。
「違う……急に痛く……でも、いい――我慢、できる、から……」
我慢って、全然できてないじゃない!
「戻りますわよ!」
即断した。
脳裏に思い浮かんだのは、まさに昨夜のことだ。
あの時の由羅は、ほとんど手がつけられなかった。
もしあれと同じ状態にまで悪化したら――
「大丈夫……だから……!」
しかし由羅は、私の手を振り払い、無理矢理その場に立ち上がろうとする。
赤い雫が零れ落ちるのも構わずに。
「由羅……!?」
思わず非難の声を上げてしまった。
服越しでも分かってしまう。
完全に、傷口が開いてしまっていると。
「要……気をつけて。昨日と、同じなの……!」
「同じ……?」
痛みを堪え、必死にそう告げてくる由羅の言葉に、訝しげに眉を寄せたのも一瞬のことだった。
「な、に……?」
分かった。
嫌でも分かってしまった。
空気が変わったのだ。
とてもとても、嫌なものへと。
「くっ……っ!」
慌てて周囲に注意を払った時には、すでに遅かった。
「囲まれた……」
いつの間に、これほどの人数にと思わされるほど、完全に囲まれてしまっていた。
周囲を囲むのは、やはりこの学校の制服を着た者がほとんどか。
よく見れば教師と思しき姿の者も数人、混じっている。
「要……下がって」
思わず一歩後ずさっていた私の前に、庇うようにして一歩、由羅が前へと出た。
「ゆ……馬鹿、何を」
「もう治った、から。平気……」
治っているわけがない。
出血は止まってなどいないし、痛みが収まらないのも見ればすぐに察することができる。
その彼女の言葉を思い出す。
昨日と同じ、由羅はそう言った。でも違う。昨日の比じゃないのだ。
私たちを囲んでいる人数は、昨夜の十倍は間違いないし、この嫌な空気は、少なくとも昨日の私には感じ取れなかった。
つまり、昨日よりも遥かによくない状況なのだ。
しかも由羅の傷が、急に開くなんて……。
「偶然じゃ、ない……?」
空気が変わったこと。幽霊もどきが現れたこと。
由羅の傷が開いたこと……全ては、同時に起こった。
なぜ?
「う……」
浮かび上がる疑問の答えを考えている暇は無かった。
囲んでいた幽霊もどき達が、徐々に距離を縮めてきている。
「……要」
そんな周囲の様子に、由羅がこちらを見た。
「はい」
「やっつけちゃえば、いいの?」
「やっつけるって……」
正直由羅の具合が心配だったものの、ここは彼女に頼るしかないのも事実だった。私に彼女を押しとどめるだけの力は無い。
「……そうですわね。彼らの相手は、あなたに任せますわ」
「うん……任せて」
もうここは信じるしかない。
「ですが、ただ倒すだけでは解決しない。こうなった原因が、どこか……もしくは誰かにあるはずです。それをわたくしが捜しますので、由羅は足止めと時間稼ぎを」
由羅が頷く。
そう、原因がどこかにあるはずなのだ。
さっきまでとは違う――こうなったからこそ、捜し出せるものもあるかもしれない。もう一度、校内を捜す。
もちろん、これは最良の選択肢ではない。
由羅に何の問題もないのならば、多少の危険は承知で挑むべきであるが、彼女に予想外のアクシデントがあった以上、本来ならば即時撤退すべきなのだ。
でも由羅はそれを聞いてくれないだろうし、私に彼女を従わせるだけの力も無い。ならば、本来の目的を果たす形で解決するしか方法が無いのだ。
もっとも原因を見つけることができたからといって、解決できるとは限らないが、今はもう考えないことにした。でないと前に進めない。
「では――由羅、いきますわよ」
「……うん」
幽霊達の包囲が閉じ切る前に。
私と由羅は、同時に駆け出した。
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