第19話 独り占め


     /茜


 仕事の打ち合わせが予想以上に長引いたせいで、今日の予定がずいぶん狂ってしまった。

 時間はすでに夜の十時を越えてしまっている。


 私は小さく息を吐いて、繁華街の隅にあるくたびれた感のある喫茶店を後にした。

 吐く息が白くなって、顔の前を通り過ぎていく。


 しばらく立ち止まって、空を見上げてみた。

 街が明るすぎるせいか、空はぼんやりとしていて少しも星らしきものは見えなかった。


 どうしようか、と少し思い悩む。

 長引いたとはいっても、仕事の打ち合わせは七時頃までには終わっていた。

 その後何件かの店を回ったせいで、こんな時間になったというのが正直なところである。


 店――というのは、私が京都にやってきたより少しずつ作ってきた、情報屋のことだ。

 もっとも大半は柴城さんのものを引き継いだだけなのだけど、新しく私自身が作ったものもある。


 そしてその全てが空振りで、それがため息の原因といえば、まあそんなとこなんだと思う。


「……どうしようか」


 もう一度、今度は口に出してつぶやく。

 このまま事務所に帰るか、それとも――


「何が?」


 どこかきょとん、とした声。

 不意にそんな声が響いたせいで、私は思わず目を見張ってしまう。

 夜の闇の中に、当然のように彼女はいた。


 彼女の姿は半ば闇に溶け込んでいたが、その瞳と髪がその中にあって一際異彩を放っている。


「……イリス」


 その名を呼べば、彼女は数歩前に歩んで姿をあらわにしてから立ち止まった。


「こんばんは」

「ああ……」


 私は困ったように言葉を濁しつつ、曖昧に頷く。

 困ったといっても、何に困ったのかは自分でもよく分かっていなかったりする。

 それもいつものことといえば、いつものことか。


「どうしたんだ、イリス」


 私の問いに、少女は小首をわずかに傾げてみせた。


「茜に会いにきたの。事務所に行ったら、仕事でいないって言われて」

「会いにって……用事か?」

「心配で」


 あまりに明確な返答に、私は苦笑いを隠し切れなかった。

 同じ答えを真斗あたりに言われようものなら、間違いなく怒鳴り返していたところだろうが、この少女が相手だとそんな気にもなれない。


 イリス――そう名乗ったこの少女と知り合ってから、もうずいぶん経つ。

 私がこの世で苦手とする相手は二人いるのだが、そのうちの一人が彼女だったりする。


 どういうわけか出会ったその時から気に入られて、それ以来何かと私によくしてくれていた。

 しかも何の見返りも求めていないと分かる純粋な好意で、きっとそれを苦手としているんじゃないかと……何となく自分では思っている。


「別に、心配されるようなことなんて」


 それでも口から出てしまった強がりは、やはりというか、この少女には少しも通じはしなかった。


裄也ゆきやも心配していたから」

「む……」


 イリスが口にした裄也、というのは、彼女の想い人である。

 ……たぶん。


 本人は飄々としていてかなりのマイペースな性格で、頼り甲斐があるのかないのかよく分からない人物である。

 私の姉さまの幼馴染でもあり、あの姉さまがほとんど唯一、異性に対して明確な好意を向けている相手だ。


「裄也も捜しているのか?」

「さすがにおかしいって、裄也が言うの。この前、わたしがちょっと怪我したことも含めて、だけど」

「ああ、そうだな」


 あれはちょっと、というレベルの話ではなかった。

 イリスでなければ致命傷に違いないような重傷だったのだ。


 イリスの話し通りならば、彼女をあそこまで傷つけたのは、姉さまの持つ三日月の弓ベファーリアということになる。


 そう、姉さまの。


 元々姉さまとイリスは仲が悪い。

 今でこそそんなことはないが、一時は互いに殺し合ったほどの因縁の相手なのだ。


 穿った見方をすれば、何かが原因で姉さまとイリスが再び殺し合ったとも取ることができる。

 如何に姉さまといえど、イリスにはきっと敵わない。

 それでもイリスも無傷ですむわけがない。


 結果として姉さまは死んで、イリスは重傷を負い、そしてだからこそ今になっても姉さまは見つからない――そんな馬鹿げたことを、少しでも考えなかったといえば嘘になる。


 もちろんそんなこと、在り得るはずが無い。

 イリスは絶対に嘘をつかないし、例え隠していたとしても、裄也が気づかないはずがない。


 そもそもイリスを疑うこと自体、馬鹿げているのだ。

 それでも――これはいい加減自分でも認めなくちゃいけないことだけど――私は姉さまのことになると、冷静でいられなくなるのだ。

 だから、つまらないことも考えてしまう……。


「私は、駄目だな」


 自嘲といえば、自嘲。そんな気分の懺悔だった。


「……どうして?」


 イリスは驚かない。

 ただ、聞き返してくる。


「意地っ張りで……素直になれなくて。だから姉さまに敵わない。真斗にも頼れない……」

「そう?」

「ああ……そうなんだ」


 その通りだと、今更ながらに思う。

 イリスが何を心配しているのか、そんなことは考えるまでもない。

 姉さまがいなくなったこと――それ以外にあるわけないのだから。


 そのことに対して私は平静を保つ振りをしながらも、結局は隠し切れていなかった。

 真斗や由羅、それに黎までもが私に気を遣ってくれて、それぞれが動いてくれている。


 なのに私ときたら、礼の一つも言えない有様だ。

 考えてみればこれ以上情けないこともないのかもしれない。


「でも、わたしには頼ってくれるんでしょう?」

「――――」


 時々浮かべる心底嬉しそうな微笑を拵えて、イリスはぬけぬけとそんなことを言ってくれる。


「え? あ――」


 加えて不意に近づいてきたかと思ったら、そのままぎゅっと抱き締められてしまった。


「イ、イリス……!」


 恥ずかしさに慌てて振りほどこうとするものの、少女の細腕とは思えない力で、結局振りほどくことなんてできなかった。


「ふふ……。わたしが茜を独り占め、だね」

「いや、だから、その……!」

「楓はこんなことできないでしょ? それに真斗だって……」


 嬉しそうにじゃれついてくる姿は、もはや子犬か何かである。

 そのまっすぐな好意に、やっぱり戸惑ってしまう。


 どうしてこんなにも――私なんかに……。


「大丈夫、心配しないで」

「え……」

「楓は必ず見つけるから。誰よりも早く、一番に」

「イリス……」

「もしそれができたら、今度は茜がわたしを抱き締めてね……」

「い、いや、それは――」

「約束だよ?」


 言うが早いか、イリスは抱擁を解いて、一歩下がった。

 その紅い瞳に見つめられて、私はほとんど否応無しに頷いてしまう。


「う、うん……」


 私の返事にイリスは満足したように、もう一度微笑んでみせた。


 本当――私はイリスに弱い。

 こんな姿、とてもじゃないが真斗には見せられない。


 万が一見られるようなことになったら、少々強めにでも殴って、記憶を飛ばさないと。


「……ところで、何がどうしようか、だったの?」

「? 何のことだ?」


 真顔に戻ったイリスにそう言われ、私は首を傾げてしまう。


「茜、言ってたでしょう? どうしようか、って」


 言ってたかな?

 いや……ああ、なるほど。


 すぐに思い出して、小さく首を横に振る。


「大したことじゃない。このままもう少し姉さまを捜してみようかって……当てがあるわけでもないのに、どうしようか悩んでいただけなんだ」


 でももうやめた。

 ここは素直に事務所に戻ろう。

 それでもって真斗に、イリスより先に姉さまを見つけるように頼まないと。


「捜すの?」

「いや、帰る。一人で悶々としたってしょうがないしな。それにイリスと少し話せてすっきりできた」

「そう?」


 じゃあもうお別れ? とイリスは名残り惜しそうに小首を傾げる。

 イリスは一応私を心配して来てくれたのであって、その私が多少なりともすっきりしたと告げたことで、とりあえず用は果たせたと解釈したのだろう。


 ……律儀だな、ほんとに。

 私はちょっと考え直すことにした。


「裄也は?」

「?」

「待ってないのか? お前のこと」

「ううん、今夜は」


 すぐに、イリスは頭を横に振ってみせる。


「レポートの提出が明日だからって、レダが付きっ切りで監視してるから。邪魔できない」

「監視、か」


 思わず苦笑いしてしまった。

 裄也のやつ、相変わらずというわけだ。

 まあ、凛の教えがいいのは私も認めるし、イリスがそういうのに向かないのも分かるが。


「なら飲みに行かないか?」

「……帰らなくていいの?」


 私の提案に、少しだけイリスが表情を変えた。

 嬉しそうに。


「黎がいるから事務所の方は問題ない。……それに、この手のことには真斗のやつ、付き合いが悪いからな」


 酒を奨めても真斗はチビチビやるだけで、ちっとも酔ってくれない。

 酒に強いわけではなくて、単に飲まないのだ。

 飲めないわけじゃないくせに。


 ちなみにイリスはというと、とんでもなく強い……というか、多分アルコールの類がまったく通じないのだろう。

 本人はそんなことはない、とか何とか言っていたが、少なくとも私の前じゃ乱れたことなんて一度もなかった。


 だから飲んでも楽しめないんじゃないかとも思っていたけど、今夜は付き合ってもらおう。

 イリスならたぶん……私の意識が飛んでしまった後も大丈夫のはずだし。

 ……きっと。


「ふふ、じゃあ本当に今夜は茜を独り占め……だね」


 そう言って微笑するイリスを見てちょっぴり不安になったものの、もう後には引けない。


「いいお店、知ってるの」


 そんなことを言われて、驚いてしまう。


「お前、普段から飲んでるのか?」

「そんなことないよ。……時々連れて行かれるだけだもの」


 連れてかれるって……。


「誰に?」

「……アルティージェ」


 ちょっぴりぶすっとした返答に、思わず苦笑した。

 なるほど、アルティージェか。


 彼女はイリスにかなり執心しているようで、色々連れ歩いているとは聞いてるけど……まあ、イリスにはいい意味でも悪い意味でも経験にはなるな。


「あのお店なら、アルテージェの名前を出せばどれだけ飲んでも平気だから。茜もお金の心配しなくていいよ」

「そうなのか?」


 別にお金の心配はしてないんだが……。


「そうなの」


 つん、として頷くイリス。


「ふうん……」


 適当に相槌を打ちつつも、やっぱり面白いな、と思ってしまう。

 もちろん、イリスとアルティージェのことだ。


 私にとってイリスが天敵みたいなもので、でも決して嫌いじゃなくて……という微妙な関係なのと同じように、アルティージェはイリスにとっての天敵なのである。


 だからアルティージェの話題に及ぶと、イリスは普段ではまず見せないような表情を見せてくれるので、なかなか面白かったりする。


「まあ、いいか。イリスに任せる」


 そう言えば。


「うん」


 表情を微笑に戻して、イリスは頷いたのだった。

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