第13話
どうしてこの人は、恩人だからと言ってくれるのだろう。
「それを言いましたら、あなたも私の命の恩人ですよ」
「そうか」
「はい」
パルミラの言いたい事は少しは通じてくれただろうか、もっと自分を大事にしてほしい、と感じていると、イオが彼女に、寝台の上に座るように示した。
示された通りに、とても丁寧な造りの寝台の上に腰かけると、イオは彼女の前にしゃがみ込み、彼女の素足を持ち上げた。
その手はとても冷たくて、大丈夫か、と問いかけたくなる指だった。
「あなたの手はとても冷たいですよ、体が冷えているのではなくて?」
「俺ではない。パルミラの足が化膿しているのだ。化膿して熱を持っている」
そうなのか。パルミラは、自分の足の裏がどんなに悲惨な状態になっているのかわからないため、そう思うほかなかった。
イオは彼女の足を、いつの間に持ってきていたのかわからないオットマンに乗せ、よくよく見ている。
それはちっともいやらしい視線ではなく、ただ、彼女の怪我の具合を調べている風であった。
「擦り傷ばかりだわ」
「足の甲の部分はそうかもしれないが、足の裏は悲惨だぞ。かなり切れている。パルミラの足は、パン生地のように柔らかいのだな」
ただの事実を語る声でイオが言う。それに馬鹿にされたとは、当然パルミラも思わない。
「そんなものでしょうか」
「いい靴を履いているとそうだ。いい靴を履いて、日常的に歩かない女性は、柔らかな足を持っている。他国では、小さく柔らかく、そして白い足が美の基準だというが……俺はよくわからない」
「そうですか」
イオは彼女の足の傷一つ一つを丁寧にぬぐい、ぬぐう時に使われたリネンは赤く汚れた。まだ出血しているのか、痛みはないのに。
「痛みがないのに血が出ているなんて」
「それはここが寒いからだろう。寒いと痛みの感覚が狂う。寒さは痛みを感じさせなくなるから、危険なんだ」
「詳しいのですね」
「俺の肩の傷がそうだった。寒ければ大して痛まなかったからな」
イオの肩の傷とは、パルミラが矢を引き抜いたあの傷だろう。他に彼の背中や肩に、傷は見当たらなかったような気がする。
しゃべりながらも、イオは彼女の傷一つ一つに、丁寧に塗り薬と、それから脂を塗っていく。固形の脂を塗る事も治療の一つだ。それらを当たり前の顔で行っていくイオは、最後に白い細布で、幾重にも彼女の足を巻いた。
「これでいい」
「足が完全に布に包まれてしまいましたね、こういう巻きかたもあるのですね」
「これなら傷が乾燥しないだろう。乾燥しなければ傷の直りは早いものだ」
イオはそう言って、彼女の瞳を見つめた。
本当に特徴的な瞳の人だ。パルミラはそんな事を思いながら、その瞳を見返した。
イオはその赤い瞳を瞬かせた後に、こう言った。
「パルミラは、どこかで見た事のある顔をしている。知り合いにパルミラの縁者でもいたのだろうか……」
「私には、イオに見覚えはないわ」
「俺もパルミラ自身には見覚えがない。きっと気のせいだろう」
そう言った後も、イオはこの部屋から立ち去りがたかったらしい。
何か言いたげにためらった後、周囲を見回し、暖炉の火が弱い事に気付いたようだ。
「火が弱いな」
「ええ、でも布団も暖かいのでこれで構いませんわ」
「そうか。薪が必要だと思ったら、そのあたりに、薪を持ってこいと言えば、出て来るだろう」
「本当に、色々お世話になってしまいますね。何かお手伝いできることがあればいいのですが……」
何でもしてもらって恐縮だ。そう言いたかったパルミラに、イオは真顔でこう答えた。
「俺の肩の矢を引き抜いた、それは全く持っておどろくべき事である、と言っておこう。ただの事ではないのだ」
「そうですか」
「いろいろな事が起きて疲れただろう、早く休むといい。俺が気になるならすぐに出て行くから」
イオはここの城の主らしいのに、彼女を気遣う声はどこまでも優しい。
その声を聞いて、パルミラは素直に寝台の掛布を持ち上げ、シーツの中に滑り込んだ。
きっと長い間主を持たなかったはずなのに、シーツからは埃の香りなどと言った古めかしい香りは一切せず、ただ虫除けの香りづけの、薬草の匂いがするばかりだった。
そしてその香りは、淑女教育のさいに預けられたお屋敷の香りとよく似ていて、それにどこか安心した彼女は、そのまま目を閉じた。
「お休み、パルミラ」
イオがそれだけを言って、部屋を出て行く音を遠くで感じながら、彼女は深い眠りの中に引き込まれていった。
透明度の高い水の中を泳いでいる。泳いでいるのに呼吸ができるのだからこれは夢だ。
パルミラはそんな事を客観的に考えていたが、体は彼女の思う通りには動かない。
彼女の意思とは違い、体は自在に水の中を泳ぎまわり、魚などが泳ぐ姿、藻の揺れる動き、上から差し込む光の反射、どこまでも透明な水の中を、楽しんでいる。
これは一体どういう事がもたらす夢なのだろう。
泳いでいた体が持ちあがる。水面に浮かぶつもりなのだ。
水面に浮かび、大きく視界が開け、そこが森の湖畔の湖である事が、パルミラにも理解できた。ここから首が動き、周囲を見回す。
周囲を見回しているさなかに、矢が迫る鋭い音が近付く事に気付き、はっとそちらを見ようと振り返る。
振り返った途端に、背中に衝撃を感じ、一度は水の中に体が沈みかける。
何とか岸に上がらなくては、ともう一度水面に上がると、上がった時を狙いすましたかのように、もう一つ肩に衝撃が加わる。
ただの矢ならば簡単に引き抜けるはずだ。パルミラは痛みと熱を背中に感じながら、一つを無理やり片手で引き抜こうとした。
引き抜こうとした手のひらが、指が、焼けただれるかのように痛み、熱くなる。
これは銀だ、我々の毒だ、と頭の中で何かが叫びまわる。
だが何とか痛みをこらえ、一本を引き抜く。だがもう一本を掴もうとする指の痛みは並々ならぬもので、さらに場所がうまく抜けない場所だったのか、ばきりという音とともに、矢が折れる。
折れた矢の矢じりから、毒でも流し込まれたかのように、力が入らなくなっていく。
何とかして岸に上がらなければ。
その一念で持って、体が近くの岸に上がる。
何かの獣と間違えて狙われたならば、追いかけて来る猟犬などがいてもおかしくないというのに、そういった類のものは来なかった。
なぜだ、何故だ、なぜだ。
彷徨う思考回路、そして力の抜けていく体。毒のような痛みをもたらす銀の矢じり。返しでもついているのか、頑として抜ける気配がないそれ。
なぜだ。
そう言った意識を最後に、視界が暗転する。
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