第5話
それが始まった時、その世界はゆっくりと音を立てて動き始めた。
止まり続けていた歯車は軋む音を立てながら回りはじめ、枯れる事も朽ちる事も止められた植物たちも、静かに水分を吸い上げていく。
開かれる事のなかった窓が次々と開き、その中に強く凍える、しかし清涼な風が吹き抜けて回廊を駆け抜け、階段をめぐり、呼吸すら忘れた世界が、徐々に、徐々に、色と形を取り戻していく。
そしてその中で体を休ませていたそこの主は、ゆっくりと目を開いた。
女王の妹は、自分が目を覚ました事によって、まだ自分が生きている事を知った。
「雪の中で眠ったら、死んでしまうと聞いていたのだけれど」
どうして自分はまだ、きちんと生きているのだろう。そう思いながら目を開けたため、彼女は自分が、何かしらの建物の中に運ばれていた、という事実を知った。
扉の外で意識を失った自分、と言う物を彼女はよく理解しており、自分が無意識に扉の中に入る事もまた、あり得ないとわかってた。
彼女は寝ころんだまま、ぼうっと周囲を見回していく。建物はかなりしっかりと建設された造りをしているようで、隙間風などまったく感じ取れない。
取りあえず、誰かが哀れんで、自分を何かしらの建物の中に入れてくれたに違いない。
そう結論付けた彼女は、森を走り続け、薮にひっかけられ、さらには茨の棘で作られたたくさんの傷の痛みを感じながら、ゆっくりと起き上がった。
起き上がってから気が付いたのだが、自分は何かの毛皮の上に寝かされていたのだ。
そして、何かの毛皮を何枚もつなぎ合わせた……これはマントだろうか? 一枚の布のように仕立てられたものが、上からそっとかけられていた。
どうやらこれのおかげで、凍える事無くすんだらしい。
「毛皮をこんなに使った物を、どこの誰ともわからない女に被せてくれるなんて……ここに住んでいらっしゃる人は、よほどの大富豪なのかしら」
大富豪と言う物は、ケチだともよく言われるものだが。
彼女は、指どおりの滑らかな毛皮を、何度か手で撫でた。撫でるほどにその柔らかい感触は、こんな状況でもうっとりしてしまうような素晴らしさだ。
こんな素晴らしい毛皮を、簡単に貸してくれる、それは一体どんな人なのだろうか。
彼女はそうやって考えながら、周りをゆっくりと見回した。
ゆっくりとしか見まわせなかったのだ。
彼女の疲れ果てていた肉体は、いきなり動くと、途端にぐらりとよろめきそうになるのだから。
彼女が寝かされていたのは、どうやら、玄関ホールと呼ばれるだろう、外に続く扉から最初に入るだろう、広い空間のようだ。
その空間には、寒さをしのぐための暖炉もつけられていた物の、その暖炉が働いていた形跡はない。
それと同時に、この玄関ホールが、自分の倒れていた扉の中である、と彼女は気付かされた。
倒れた時に見た扉と、外に続くであろう扉の形は、全く同じアーチ状の造りをしていた。
玄関ホールの正面には、大きな階段が二股に別れて、二階の空間へと続いている。
二階の空間に至るまで、そして二階のどこかに続く出入り口に至るまでの間には、採光のための窓がいくつかつけられていた。
ガラスもないその窓は、普通ならば外の天気に左右され、そして外のほこりなどを入れてしまいそうな物なのだが、不思議と、そう言った気配は感じ取れなかった。
まるで外界と遮断された空間のように、建物の中は、息をひそめたように静かだ。
外の光により、周囲がきちんと見渡せるようになった女王の妹は、床の石材は様々な色を使って模様が描かれている事や、階段の素材が、きちんとした石材である事から、この城はやはり最初に思った通り、かなり手の込んだ作り方をされている城である、としった。
普通そんな城は、もっとたくさんの人が出入りしているし、召使たちが常にせわしなく行き来しているものだったが……ここはそうではないようだ。
彼女はそのまま立ち上がろうとして、そこで本当に驚いてしまった。
「足の怪我に手当がされている……」
彼女の散々傷ついた足は、誰かが何かしらの手当をしたとしか思えない状態になっていた。
どうなっていたかというと簡単で、彼女の泥や汚れにまみれていた足は洗われており、さらにはしっかりと何かの布地を引き裂いた細布が巻かれていたのだ。
そして、彼女は自分が寝かされていた毛皮の敷物の周囲を見回した後、本当に誰かが来るわけでもないため、ますます訳が分からなくなった。
おそろしくなかったとは言わない。奇妙だ、恐ろしい、と感じて当然の事が立て続けに起きているのだから。
しかし、自分に危害を加えようと考えている誰かだったならば、まず、手当てもしないで外で凍死させているはずだ。
それに、どこかに売り飛ばそうというのなら、いつでも逃げ出せそうなほど、人の行き来がない場所に、足の治療をしてまで寝かせておくわけがない。
ここに入れてくれた誰かの目的は、全く分からないが、そこに、悪意だけは感じ取れなかった。
彼女は敷物からそっと足を踏み出した。
ぞっとするほど冷える足元に、悲鳴を飲み込んだ娘は、そこで、美しい模様を描く石の床に、点々と、赤い何かが垂れた跡がある事にも気付いた。
その赤い何かは、病に倒れた婚約者の看病をしている際に、とても見慣れた赤い色だった。
「血の跡だわ……誰かが怪我をしているの? それとも、……何かの獣を、捕まえてきたから、血の跡が垂れてしまったのかしら」
血はあまりにも見慣れ過ぎていて、彼女はそれだけをおそろしいとは思わなかった。
「……誰かはわからないけれど……お礼も言わないで、ここから出て行くのはあまりにも無礼だわ。……ここがどこなのかわからないのだから、ここに暮らしている人に、ここから一番近い、姉上の国ではない人里を教えてもらわなければ」
ここに長くとどまる事はないだろう、と彼女は考えていた。
この城はおそらく魔王の国のはずれにある城だし、ならば自分のようなぼろぼろの見た目の女が、身を寄せるような、例えば修道院のようなところがあるかもしれない、と期待したのだ。
そのため、彼女は、お礼を言うためと、ここの外の地理を聞くために、ゆっくりと、血の跡を追いかけ始めた。
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