第4話

どんなに思って泣いていても、ここに騎士たちが戻ってくる気配はない。

彼女は自害用の短剣の柄を払い、その鋭利な切っ先を自分の喉に向けようとした。

しかし。

手が震える。カタカタと小刻みに震える両腕が、自分の喉を貫くための短剣を、動かしてくれないのだ。

いくら必死に決意を込めても、手が止まる。


「……」


彼女はしばらく足掻いていた物の、どうやら自分自身で命を絶つ事は出来そうにない、と悟った。


「死ねないなら生きるしかないのでしょう」


独り言をつぶやいて、彼女は短剣を腰に下げて、周囲を見回し……自分を今まさに食い殺そうと足音を殺していたらしき、数匹の獣と目が合った。


「ひっ……」


獣の眼は人間の目とは大きく異なる。彼等が策略を持って欺く事はなく、彼等の眼はまさしく彼女を獲物だと認識していた。

それが、彼女の脊髄に本能的な恐怖をもたらしたのは、おかしい事ではない。

じりじりと後ろに下がった彼女は、はっと気づいた瞬間には、朽ちた噴水に体が転がり落ちていた。

それを契機と見計らったのだろう。獣が飛び掛かってきたのだが、噴水の石組みの高さをがあった故に、そこにぶつかった。

そしてその振動と同時に、彼女は体を起こし、死に物狂いで命からがら、そこから走り出していた。

裸足で進む森の中は、弱い皮膚を持った王族の姫君の、パンのように柔らかい足を傷つけていくが、ここで走る事を止めたら、獣たちに食い殺されてしまう。

騎士に殺してほしいと願ったのに、獣に食い殺される事には恐怖を感じてしまうのは、どうも皮肉にしか思えなかったものがあるが、彼女はひたすらに走った。

簡素な髪留めはほどけて、顔に髪がかかる。頬を枝に切られて、むき出しになっていた手にも何かが引っ掛かり、血がにじむ。

それでも彼女は走っていた。もう自分がどこを目指して走っているのかなどは全く分からないまま、彼女は死にたくないから走っていた。

先ほどまでの、殺してほしいと思った感情はどこに消えたのか? いざ命がなくなると思ったら、生き物としての本能的な恐怖が勝っただけだ。

よくある話である。

彼女は走って走って、背後からうっすら聞こえてくる獣の声に、生理的に涙が出て来ていても、走った。

獣はすぐに体勢を立て直したらしく、執拗に追いかけてきているのだ。

病んだような、ちぢれた葉を枝につける木々の間をぬけ、薮をかき分け、浅い沢を突っ切り、彼女の足は血まみれだ。

それでも彼女は、痛いと思う事さえ忘れて、走り続けた。

しかしそれでも獣たちは追いかけて来る。執念深いのは飢えているからか、それとも彼女があまりにも襲い獲物だからか。

どちらにしろ、そう簡単にあきらめてくれるわけがなかった。

姫君という生き方から、彼女の体力はそこまであるわけではない。息は切れて肺が限界を訴えるように膨らんではしぼみ、脇腹はきりきりと切り裂くように痛んだ。

足はがくがくと震え、爪に入った小さな石が一層痛む。

だが彼女は、逃げる事を止めなかった。

そして。




「い、いきどまり」


彼女の目前に突如広がったのは、あまりにも密集した茨だった。

茨を突っ切る事はさすがにできない、と遠回りを選ぼうとした彼女だったが、右を見ても左を見ても、茨の終わりが見えない。

獣の咆哮は近付いてくる。


「!」


彼女はその時、自分が一体何を考えたのか全く分からなかった。

だが彼女は、自害用の短剣の柄をそのあたりに投げ捨てて、茨を切り裂き、切り払い、まっすぐ正面に進みだした。

野生種の茨は棘も観賞用のものとは格段に鋭さが違う。短剣を握り締める手にも棘が刺さり、切り払った枝の切り口で体中に傷が出来る。

彼女はとにかく無我夢中で、茨の海を切り払い、そしてそれは唐突に終わった。

力いっぱい前に進んでいた彼女の体が、体重をかけていた物がなくなった事で転がるように倒れ込む。

そんな状態になっても手放さなかった短剣を握ったまま、彼女は顔をあげ、目を丸くした。

そこは、茨の垣根に囲まれた、小さな城のように目に映った。

獣の声がする。はっとして背後を見た彼女は、驚くしかない光景に目を丸くした。

茨の垣根の向こうから、獣の姿は見えるのだが、獣はこちらに入ってこようとしないのだ。

それどころか、数回匂いを嗅いだ後、諦めたように去っていく。


「たすかった……?」


それだけが口から出て来て、そこで自分が酷く息切れしている事に思い至る。

ああ、助かったのだ、取りあえず。

あの城の誰かと、話が出来ないだろうか。

きっとここは、森を抜けた場所なのだ。……という事はこちらは魔王の国の領土だろうか、だが。


「ここを追い出されたとしても、また森に戻って今度こそ死ぬだけ……ならば」


この、目の前の小さな城の入り口を叩き、一晩だけでいいから休ませてくれないか、願っても自分としては同じ運命であるはずだ。

彼女は今更のようにずきずきと痛みを訴えて来る両足を、えっちらおっちら動かし、素足が雪でしびれるように感じ始めた頃、ようやく城の入り口までたどり着いた。

そこの来客用のノッカーを叩こうとした彼女であるが、彼女の体力はそこで限界に達し、ぐらりと傾いた体と、ずれていく視界に戸惑いながら、彼女は意識を失った。

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