第6話


点々とした血の跡が、狩りの後の結果だとしたら、獣をさばいて肉にするために、そう言った場所に続かなければならない。

そしてそう言った場所は、血の匂いが強いため、台所やそれ用の空間、といった所であるはずなのだ。

だが、血の跡は、点々と続きながらも、美しい石の床をどこまでも進んでいく。

これは一体何を意味するのだろう。

彼女はそんな疑問を抱いた。そしてこの城の静かさの理由が、あまりにも簡単だという事も、歩きながら気づいてしまった。


「こんなに歩いているのに、誰ともすれ違わないし、警備の人にも出会わないというのは、どういう事かしら……まさかこの城は、住人が一人だけとでもいうのでしょうか」


血の跡をたどり、彼女の感覚からしてもかなりの距離、そう玄関ホールの大きな階段を登り、そこの出入り口から先の回廊らしき、いくつもの銀の燭台が付けられている廊下を進み、別の塔に来たのだろうと思ったら今度は螺旋階段を下っていき、誰かの好みであったのだろう骨董趣味の椅子や長い机が置かれた、寝台まである部屋を突っ切りながらの言葉だ。


その間に、誰とも出会っていないのだ。

これがどれだけ不思議な事なのか、彼女は十分に知っている。

彼女の婚約者の城は、かなりの大きさを誇り、国では屈指の豪華さだといわれていた。

そこに少しの間だけでも暮らした彼女は、こう言った建物で、召使とも、お付きの誰かとも、おべっか使いの貴族とも出会わないのは、明らかにおかしい事だと知っていた。

これだけ見事な造りの建物の主が、何の権力も持たないというのは、首をかしげてしまう物だ。

いいや、それ以上に、やはり、誰とも出会わない事、これが最もおかしな出来事だった。


「魔王の国の住人は、こんな立派な建物も、一人で維持できてしまうほど、魔法の力に優れているのでしょうか……そうしたら、人間の国と交易をしないというのも、納得ですが……人間の国が、魔王の国の力を恐れて攻め滅ぼさないのも、不思議な話だわ……」


彼女の国では、四代前の女王が、当時の魔王を倒したというのが、庶民でも知っているほど有名な話だ。

女王はその頭の良さと優しさと、愛情深さと、武勇で、ここしばらくの王族の中では一番愛されている女王である。

女王は一人息子を産んだ後無くなってしまったため、その後の治世はその夫である、王配が行ったとも記されているモノの、この王配の人気はあまりない。一人息子を放置して、女王を失った悲しみを紛らわせるために、派手な舞踏会を何度も行った事が、当時の文化人に皮肉られているのだから。

不思議な事に、魔王を倒したというのに、女王はその後弱っているだろう魔王の国を滅ぼさずに、森を境界線にしたままだった。

そこに、他の種族にも温情を与えたのだ、という見方をする人は多く、女王が他の種族にも寛大だった、大変に慈愛のある女性だった、とたたえられる事にもなったわけだが。


「ここは一体何なのかしら……こんな裏まで入り込んでしまったのに、誰も使用人に出会わないわ」


娘は、何かの歯車がいくつもぐるぐる回っている空間まで来てしまい、ここから進むべきか進まないべきか、と悩んでしまった。

この歯車たちはどう考えても、城の、隠されている方の場所なのだ。

城というのはその性質上、屋敷の主が贅を凝らし飾りつけ、客やその他もろもろに自分の力や財力を見せびらかす表側と、使用人たちが忙しなく動き回り、城を維持するための裏側が存在する。

歯車しかない部屋など、明らかに何かの動力装置が置かれている部屋だ。どう考えても裏側であり、そこを守る、もしくは機能の異常を発見するために、人が常駐していそうな場所だった。

だがそこまで来ても誰とも出会わないでいるのに、まだ血の跡は続いていく。

彼女は血の跡をもう一度見た後、その跡が先ほどまでとは違っている事に気が付いた。

先ほど追いかけていた血痕は、ぽたぽたと垂れたように花弁のような形で落ちていた

だが、ちょうど歯車の部屋に入ったあたりから、血痕は形が大きく異なりだしていた。


「血が垂れた後に、誰かが何かを引きずった跡がある……普通こんな風に掠れていたらそう考えるべきなのでしょうけれど……?」


血の跡は、ついた後、何か……まるで靴で踏みつけて引きずったかのような模様に変わっていた。

進むべきかやめるべきか。

だが、誰かに出会わなければ、お礼さえ言えない。

彼女はまだあきらめないように、その先に進みだした。

進みだしてほどなく、部屋の反対側の扉につく。彼女はその扉に耳を押し当てて、外の音が何か聞こえないか耳を澄ませた。

誰かの声がしないものだろうか。

これ以上誰もいないとなったら、本当に恐ろしい場所に足を踏み入れてしまったような気持ちになって、とても平静ではいられない。

そんな思いを抱き、誰でもいいから声が聞きたい、と彼女は扉を開け放った。

びょう、と風が。冷たく冷え切った凍える冬の風が、彼女の肌にぶつかった。

同時に、その風とはあまりにも似合わない甘く、しかし澄み切った緑の匂いが、彼女の鼻まで届いた。


「……城の屋上が、庭園の一つになっているなんて……余程考えて水の循環を考えなければ、作れないと聞いているのに」


感想としては、色々間違っているだろう。

自分でそのような事を思いながらも、彼女はそんな感想程度の事しか出てこないほど、驚いていた。

彼女の開け放った扉から見えたのは、まず、濃い緑の生垣だった。

生垣の先の空は、いまだ重く雪を内包するような鈍い鉛色の雲で、今にも牡丹雪が落ちてきそうな色味をしている。

だが、生け垣の緑色は、そう言った空の事情などまったく気にならないように、生き生きと茂っていた。

生垣の間の道らしき部分も、緑の草で覆われている。芝ではないだろう、となんとなく、思わせる色をしている草だ。

季節が季節だからか、全くと言っていいほど、花の気配はない。

しかし、そこは、今までなんの生き物の存在も感じ取れなかった城内と比べると、生きた匂いと気配と、何かが動き出しそうな力にあふれていた。

生垣自体も、全く手入れされていないわけではないだろう。妙な草や蔓に覆われていない事からも、それは明らかであった。

庭園の広さは、生け垣をなんとなく見ただけでもわかるほど、広そうである。

彼女はその生垣の先まで行こうとして……体に刺さる風の冷たさに負けた。

城の中は石組の中であったから、外、それも遮るもの何もないような庭園に吹く風とは比べ物にならないほど、勢いの弱い冷たい風だったのだ。

庭園の風は冷たすぎる。彼女は自分の薄い衣装と、布に覆われた足を見て、これ以上進むのは危険だと判断した。

もう一度、進んだ道を引き返せば、誰かに出会うかもしれない。

彼女は足早に、血の跡を逆にたどって行った。




血の跡を逆にたどって行ったというのに、何故か玄関ホールにたどり着かなかった彼女は、首を巡らせて、自分の追いかけた血痕を見る。


「玄関ホールじゃなくて、台所につくなんて……わたくしはどこで見間違えたのでしょう」


見間違えるほど多量の血痕があるわけないのに、と思いながら、彼女はやはり誰もいない台所の奥に、かまどを見つけた。

ここなら少し火を熾しても、大きくは咎められないだろう。火があって当たり前の炊事場なのだから。

彼女はそのあたりにあった木の屑や繊維といった物を手の中で軽くまとめ、かまどの中に入れた後、そのあたりに転がっていた火打石らしきものと火打ち金を打ち合わせた。

火の起こし方を、彼女が知っていた理由は簡単で、乙女の母と国で呼ばれている人物の元で、色々な家の乙女たちと集団生活をしていた時期があったためだ。

そこでは火の起こし方から、料理から、夫の差さえ方から、愛人との付き合い方まで、とにかく幅広くなんでも習った物だった。

しかし、彼女はあまり火を熾す才能がなかったらしい。

いくらカチカチと打ち合わせて行っても、火花が飛び散らなかったのだ。

どうしよう、と彼女がほかに火を熾す方法を思い出そうとしたその時だ。


「それは見た目は火打石だが、実際は違う。それでは火花なんか飛ぶか」


背後から、ずっと願っていた他人の声が響き、振り返ると炊事場の入り口にもたれかかる、一人の包帯に包まれた上体の男が、立っていた。

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