第29話 「マナフの黒き英雄」

 すべてを終えてマナフへと戻ったとき、リリアスを迎えたのは歓声だった。


『マナフの〈黒き英雄〉の誕生だ!』

仇敵きゅうてきバルトローゼから祖国を守った!』

『リリアス・リリエンタールに栄光あれ!』


 半壊したマナフ王城。

 それでも彼らにとっては、国家と民族の滅亡を免れたという歓喜がある。

 なにより、まだ〈マナフの鐘〉は鳴っていない。

 リリアスは国門からずらりと並んだ民衆たちによってつくられた凱旋の道を、複雑な表情をして歩いていく。


 ――ここを歩くのは俺の役目じゃなかったんだ。


 リリアスの心の中に歓喜はない。

 この激動の一日で起こったすべてを思い出すと、今にも膝をついてしまいそうになる。

 そうしてしばらく歩き、半壊したマナフ王城の前にたどり着いた。

 そこには華麗な衣装を砂ぼこりに汚したマナフ王族最後の生き残り――アストレア・ウォフ・マナフが立っていた。


「……よく戻った」

「……ああ」

「城の隣に仮の宿舎を作ってある。急ごしらえだが私が寝る場所として作られているから居心地は悪くない」


 民衆の目がある中ではアストレアも王族としてふるまった。

 リリアスはアストレアに先導されながら重い足取りで進む。

 いつまでも耳に残る歓声が、いまさらになってリリアスの心をがりがりとひっかいた。


   ◆◆◆


 簡素な四角い建物の中には、王城からどうにか持ち出したであろう王族の儀礼用品と、わずかばかりの調度品が置かれていた。

 丸い机の上にマナフの王としての印である宝石をはめ込まれた王冠が無造作に置かれていたが、リリアスはそれを一瞥いちべつしてすぐに椅子に腰を下ろす。


 ――疲れた。


 もう、なにもかもに疲れた。

 すべてを仕組んだザラシュールの内偵ベルセルカとの対峙。

 ゼムナスの命を奪った帝国の刺客ツェーザルとの対話。

 すべてを失いかけて、必死でもがいた。

 もがいている間は余計なことを考えずにいられた。

 ただ自分の大事なものをこれ以上奪わせまいと、死ぬ気でその身に刻んだ暴力を振るえばよかった。


 ――ああ……。


 人々の脳裏に存在するベスジアの王は、きっとこんな姿を見せないだろう。

 人々の思い描くベスジアの王は、傍若無人ぼうじゃくぶじんにして暴虐邪知ぼうぎゃくじゃち

 己の欲望のまま気まぐれに奪い、殺し、潰していく。

 ベスジアの王は憔悴しょうすいなどしない。

 すべてを己の気の向くままに蹂躙していく彼には、後悔などないのだから。


 ――俺は……。


「――リリアス」


 すると、先に宿舎の中で待っていたアストレアがリリアスの名を呼んだ。

 リリアスはほんの少しだけアストレアを見て、再び視線を地に落とす。


「リリアス、私を見ろ」


 彼女は再びリリアスの名を呼ぶ。

 彼女は椅子に座らずに、毅然きぜんと立ってリリアスに言葉をかける。


「……お前は強いな、アストレア」


 リリアスはそれでもアストレアを見ない。

 見てしまったらもうダメだと思っていた。


「お前には王の器があるよ」


 父王を失った。

 右腕だと思っていた側近に裏切られた。

 あげく、祖国が二つの大国の板挟みにあって、おもちゃにされていることを突き付けられた。

 そんな状況で、いまもなお外で歓声にわいている民の命の責任を一身に背負って立っている。

 あるいはマナフ王国を滅ぼした最後の女王になりかねないというのに、まっすぐに、前を見えて立っている。


「リリアス」


 ふ、と。

 リリアスは自分の体がなにかに包み込まれたのを感じた。


「泣け、リリアス。今だけは」


 アストレアが正面から優しくリリアスの体を抱きしめていた。


「っ……」


 だから、顔を見ないようにしていた。だから、

 彼女の表情から目を背けた。


「大丈夫だ。ここには私とお前しかいない。そして私も、お前の顔は見ないことにするよ」


 彼女の腕と腹に頭を包み込まれている。

 自分と同じようにすべてを知る者にして、唯一残った『守りたい者』。

 自分が歩んできた、そして巻き込まれてきたあまりにも大きな流れの中で、同じ位置で自分を見てくれる者。


「うう……」


 ほとんどすべてのものを失ったリリアスの手元に残ったそれは、今度は逆にリリアスを優しく抱きしめ、そして慰める。


「まだ、私は生きている。リリアス、お前が私を救ってくれたのだ」


 ベスジアの王は涙を流さない。

 でも、今だけは――


「あああ……ああああああああ……‼」


 ただ一人の、哀れな廃英雄としていさせてくれ。


   ◆◆◆


 ひとしきりそのままで泣いたあと、リリアスはゆっくりとアストレアから離れた。

 アストレアもまたリリアスを引き留めることはせず、軽く衣装を整えて少し離れた場所に居直る。

 やがてぽつぽつと今後のことについて話があがり――やがて、そこに一人の来客があった。

 そして二人は来客の姿を見て、同時に絶句した。


「やあ、兄さん、アストレア様。少しは落ち着いた?」


 長く伸ばした美しい白銀の髪。

 非の打ちどころのない美貌びぼうと青く光る双眸そうぼう

 細くも伸びやかな声音を聞き間違うことなどない。


「……ありえない」


 そうつぶやきつつ、リリアスはほぼ衝動的に椅子から立ち上がってその来客に近づいた。

 そして、その白い髪に手を触れる間際、ぴたりとリリアスの動きが止まる。


「――違う」


 リリアスの感じた違和感。

 その耳元で弟から受け継いだ月のイヤリングが揺れた。


「お前……誰だ」


 そしてその来客の耳にも――譲り受けたはずの月のイヤリングがついていた。

 生前、ゼムナスがつけていた方とは逆の耳に。


「さすがにわかるか。兄弟として過ごした日々も伊達じゃないな」


 すると、ゼムナスとうり二つだった姿がブレる。

 一瞬の間にその男は姿を変えた。


「私を忘れたのか、リリアス」


 それはあの片眼鏡モノクルをかけた王の側近、ベルセルカ・ベラスティの姿だった。

 さらに、


「お前を廃英雄として呼んだのはこの私だぞ」


 死んだはずのマナフ王。


「立て、リリアス。あがき続けろ」


 かつてリリアスに戦闘術を叩きこんでいた灰色髪の老兵。


「よう、元気かリリアス。適当に生きてるか?」


 戦場で他愛のない会話をした女好きの傭兵ナウロン。


「俺はお前だ、リリアス・リリエンタール」


 そして最後に、リリアスと同じ顔に。

 千変万化せんぺんばんかを絶句と共に見守っていたリリアスが、ようやく口を開く。


「お前は――」

「んー、このままだとなんだか話づらいな。たぶんお前が一番話しやすいのはこの姿だろう」


 そういって目の前の男は再びあのナウロンの姿に変化する。


「改めて、オレの名前はナウロン。ナウロン・ピースウォーカー。またの名を〈千の逆像を持つ男〉ともいう」


 わざとらしく片目をつむって気取るナウロンを前に、やはりまだリリアスの口がふさがらない。


「全部、お前だったのか――」


 ようやく絞り出た言葉。

 その言葉にナウロンは眉尻をさげてうなずいた。

 その表情は少し、寂しげであった。


「全部じゃない。でも、いくつかはそうだ。――神々の術式から生まれたお前に名前を与えたとき。お前に最初に〈廃英雄〉の事実を告げたとき。そのときのベルセルカは、オレだった」


 そういわれてはじめてリリアスの中の違和感が明確な形になる。

 あのときベルセルカは、いつもとは違う方に片眼鏡をかけていた。

 そして廃英雄について知らされたときに言われた言葉。


【今後二度と、たとえ相手が私であっても、この事実を口にしてはならないし、そのそぶりを見せてもならない。私も、なにも知らないものとして振る舞う。――この命が尽きるまで】


 あの言葉の真意を、今ここに知る。

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