第19話 「とある侍女の願い」

 あと少しで森を抜けるかというところで、リリアスはかすかに途切れ途切れの息づかいを聞いた。

 剣を構えながら気配がする方へ進む。

 するとそこには――


「エルザッ!」

「これはこれは、あるじ様」


 横腹から血を流すエルザが、木に背を預けて座っていた。

 額から玉のような汗を流し、しかし顔には皮肉の乗った笑みがある。


「やられたのか!」

「この戦力差で傷一つ負わないあなたの方がおかしいんですよ。今日も血化粧がとても美しいことで」


 いつも以上に毒の効いた皮肉。

 リリアスはそれらを無視してすぐにエルザの傷の状態を確認した。


「くそ、深いな……」

「勝手に淑女しゅくじょの肌を見ないでください。いくらあなたがわたくしの主人だとは言っても、そこまでの無礼を許した覚えはありませんが」

「黙ってろ、傷に響く」

「いいえ、黙りません」

「黙ってろ!」

「あなたは怒ってらっしゃるのですか?」


 怒っている。

 そう言われてリリアスはハっとした。


「どうなのですか? あなたは今、怒ってらっしゃったのですか?」


 エルザがまっすぐな目でリリアスを見つめる。

 その目がリリアスにはおそろしく感じられた。

 自分の知らない心の奥底まで見透かされそうで。


「また封印しようとしているのですね、自分の感情を」


 言いよどむリリアスを見て、ふっとエルザが笑った。

 その笑みを、リリアスは美しいと思った。


「少し、お話をしましょう、リリアス様」

「今はそれどころじゃない」


 リリアスはエルザの傷口を手で押さえる。

 血が止まらない。


「今あらためて思い返すと、ずいぶん昔のことのように感じられます」


 それでもエルザは喋るのをやめなかった。


「わたくしは最初、あなたを見たとき『人形のようだ』と思いました」


 それはリリアスがエルザを見たときの印象と同じだった。


「魂がここにはない。あるいは体の外に追い出している。あなたの反応は空虚で、そして言葉には熱がない」


 まさしくその通りであっただろう。

 〈廃英雄〉として死ぬという目的のために、できるかぎり、そうするよう努めていた気もする。


「わたくしはあなたを自分と同じだと思いました。わたくしはガーラント家を没落させないため、望んでこの魂を〈英雄産業〉に捧げました。だからあなたの侍女となったときから、わたくしは魂の無い人間として振る舞おうと思いました。でも――」


 エルザは自分の血のついた手でリリアスの頬に触れる。


「やはり、それは無理でした」


 エルザの口からこぼれた言葉が、リリアスの心の中で何度も反響する。


「無理なのですよ、リリアス様。どれだけなにも感じないように自分を抑えこんでも、やはり感情は腹の底でうごめいているのです。あなたはわたくしのそういった感情を引き出すのがとてもうまかったですね。あなたはたぶん、誰よりも人の感情にさとい方なのでしょう」

「バカを言え」


 自分の心すらよくわからない人間に、他人の心などわかるものか。


「あなたは自分の心を見ないために、周りの人間の心をよく見るようにしたのでしょう。正直なところ大変不覚ふかくなのですが、あなたはわたくしの欲しいときに欲しい言葉をくださいました。そうして気づいたら、あなたに尽くすことが嫌いではなくなっていた。だってリリアス様、わたくしが沈んでいるときにかぎってなんでもないことに『ありがとう』なんて言うんですもの」


 そんな覚えはない。

 リリアスはできるかぎりエルザに感情移入しないように努めてきた。

 エルザがどういう経緯で自分の侍女になったかも知っていたから、必要以上に干渉しないようにしてきた。

 たまに皮肉の言い合いをすることはあれど、それ以上のことはしない。

 相手の内心に踏み込まず、静観せいかんする。


「とっくに踏み込まれていましたよ。あなたは自分が思うほど無感動な人間ではない。むしろ、率先そっせんして相手の気持ちをみに行こうとする人間です」

「違う」

「そうです。誰よりもあなたを近くで見てきたわたくしが断言します。あなたには感情があり、ただそれをあなた自身が封じてしまっているだけなのです。どこでそうしようと思ったのかはわかりませんが、もしかしたらそれが〈廃英雄〉として生まれてしまった不幸の最たるものなのかもしれませんね」


 リリアスのほほからエルザの手が落ちかける。

 それを感じ取ったリリアスは、


「行くなッ!! エルザ!!」


 とっさにその手を取って叫んでいた。


「はは、感情が乗ったよい声でした」


 エルザの脇腹から流れる血が止まらない。

 とめどなく流れていく赤い血を再び見たとき、リリアスの中でなにかがひび割れる音がした。


「……しないでくれ」


 小さく、リリアスがつぶやく。

 エルザは重い目蓋まぶたをなんとか押し留めて、リリアスの顔を見た。


「俺を一人に、しないでくれ……!」


 その日、エルザは初めてリリアスが泣いている姿を見た。


「俺は、もう自分がよくわからない……。俺はゼムナスを守りたい。そのためには自分の感情や欲求は必要ないと思っていた。なのに――」


 最近なにかと、無視できないものが自分の中に入ってくることが増えた。

 それは、よけいなもの。

 どうしても成し遂げたい目的のためには、邪魔になるもの。

 だから、無視しなければならない。


「でも、なにもかもを無視しようとしたら、今度はなぜか、ゼムナスを守りたいと思うこの気持ちまで空虚なものに思えてきてしまった」


 これは、状況に用意された役割なだけで、本当は心から望んでなどいないのではないか。

 そもそも自分には心なんて最初からなくて、本当に造りものの人形のように、誰かの意志に操られて動いているだけなのではないだろうか。


「俺はこの役割に命をかけられる。それは変わらない。……なのに、自分に心がないと思ったら、急にとても怖くなった」


 ひどい矛盾だと思った。

 でも一人ではどうしようもなかった。

 自分に心があるかどうかなんて、自分じゃわからない。


「ありますよ。あなたの心は、ちゃんとここにあります」


 と、エルザが優しげな笑みを浮かべて言った。


「あなたのゼムナス様を助けたいという思いは、本物です。それは、状況に用意された役割ではありません。その役割のためだけに、ここまで自分を犠牲にできる人間は、いませんから」


 エルザはリリアスがこれまで犠牲にしてきたものを知っている。

 ゼムナスを守るために、あらゆる犠牲を自分に強いてきたことを唯一すべて知っている。

 アストレアでさえも知らないリリアスの内面を、彼女は知っていた。


「あなたはそれを、二人の英雄として生まれた状況そのものに強要されていると思っているのでしょう。しかし、それは違います。それだけではここまで出来ません。あなたはゼムナス様を本当の弟のように思い、愛していたからこそ、ここまでやってこれたのです。……わたくしと同じです。最初は状況が強要した役割だったのかもしれない。でも、そのうちわたくしは、あなたを本当に――」


 エルザの目蓋が不意に閉じられる。

 リリアスがつかんでいた彼女の手に力が無くなった。


「エルザッ!!」

「……あはは、大丈夫です。わたくしは鍛えられております。伊達だてにあなたと戦場を共にしたわけではありません。……これくらいの傷、なんともありませんよ」


 目をつむったままエルザが笑う。


「そうだ、リリアス様、今までの奉仕の代価を、今いただけませんか」


 突然何を言い出すのかと思ったが、リリアスはじっと彼女の言葉を聞いた。


「ああ、構わないよ。お前には世話になりっぱなしだったからな」

「ちなみに望みは二つあるのですが、構いませんか……?」

「もちろん」


 リリアスはエルザの目を見て即座にうなずく。


「ではまずひとつ。――どうかわたくしの家族が住むあの国を、守ってください」

「……ああ」


 リリアスはうなずいた。


「必ず、守ってみせる」

「約束ですよ。ではふたつ。これはわたくしの至極しごく個人的なわがままなのですが……ゴホっ」


 そこでエルザが苦しそうに血を吐く。

 リリアスはどうすることもできず、ただやさしく彼女の体を抱き寄せた。


「……あはは、願いを叶えるのが早いです、リリアス様」


 エルザはその行動を受けて、目をつむったまま笑った。

 笑い終えたあと、彼女はわずかに目を開き、目元に涙を溜めながらリリアスを見上げた。


「アストレア様には内緒にしておいてくださいね」


 そして彼女は言った。


「――どうか、わたくしを一度でいいから、女として抱きしめてください」


 リリアスの顔に彼女の手が伸ばされる。


「あなたを愛し、そして願わくは――あなたに愛されたかった」


 しかし彼女の手は、リリアスに届かずに地に落ちる。


「エルザ……?」


 リリアスは彼女の名を呼ぶ。


「エルザ」


 二度。


「――――ッ!!」


 三度目は、言葉にならなかった。


 リリアスはその日、はじめて死を知覚する。

 努めて見ないようにしてきた現実。

 無視してきた感情。

 そのすべてがリリアスの中を無節操むせっそうに駆け回り、心の内側をがりがりと削りつける。


「ああ……」


 リリアスにとっての死の自覚は、最も近しい者の死によって達せられる。


「ああああ……!」


 リリアスはもう、自分の感情を殺さなかった。


「っ、あああああああああああああ!!」


 リリアスの魂が揺れる。

 やがて生じた魂の亀裂から、今まで理性で押さえつけられてきた魂の力があふれた。


 それは黄金の炎。


 苛烈かれつに、そして美しく輝くその黄金の炎は――まるで太陽の光のようでもあった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る