3

「そういえば、はすなんかもイメージかも。神々しい感じ?」


 部長の山口先輩に言われて図書館に美術名鑑を返しに行く途中、不意に加奈が呟いた。

 転校生に対する適切な喩えが思い付かなかったのが気に入らなかったのか、ずっと考え込むように寡黙になっていたのが、やっと晴れ晴れした表情になった。


「……蓮……うん、いいね」


 重い図書類を加奈に持たせるのは忍びなく、そのほとんどを抱えた俊は、やや間をおいて相槌を打った。

「そう! 何だか、オーラが違うっていうか、力を感じるのよね……創作意欲が湧くなあ」

 こと、絵に関しては常の『大人っぽい美人』の皮を脱ぎ捨てて、子供の様に目を輝かせて多弁になる。

 そんな加奈を見るのが俊は、嫌いではなかった、が。


「……?」

 階段を昇ろうとして、急に表情を曇らせた俊に、加奈は口を閉じた。

「今……声がした。……悲鳴みたいな」

 加奈も、ジッと耳をすます。


 図書館や家庭科教室のある棟は、一般教室からグラウンドや理科棟に通じる渡り廊下を兼ねていて、校舎全体のほぼ中心にある。

 放課後ともなれば、図書館のある二階はともかく、被服室や調理実習室のある一階付近は、人気がなくなる。

 家庭科教諭が非常勤の為、不在時はほとんど使用されていないのだ。


 故に、運動部や吹奏楽部の練習の音がよく響き、職員室から見えにくい中央のグラウンド側出口付近は不良たちがたむろするのに好都合であり……知っているものは決して、その通用口は使わない。


 知っているものは、である。


 今の時期、まだ学校生活に慣れていない一年生が、紛れ込んでもおかしくはない。

「先に、行っててくれないか」

 加奈をみすみす危険な目に合わせるわけにはいかない。

 安全圏の二階に避難させようと促すが、加奈は首を横に振った。

「ここで待っているから、何かあったら大声出してね」

 この位置からなら、件の出口に近く、職員室もすぐそこだ。

 冷静な加奈の判断と譲歩に納得して、俊は図書類を近くの展示棚を兼ねた窓辺に置くと、中央に向かって歩き出した。




「……はなして!」

 耳に届く、少女の声。

 凛として、だが、少し震えている。

「……やめて下さい……」

 もう一人、こちらは今にも泣き出しそうなほど、弱々しく、か細い声……おそらく少女のもの。

「ちょっとお話ししようって言ってるだけだよなあ」

「そうそう、学校ん中、案内してあげるからさあ」

「お断りします」

「ヒュー! 強がっちゃってー。いいね! 好みだな」

「てめえは可愛い子なら、ミンナそう言うじゃねーか」

「あれー? そうだっけ?」

 下卑た笑い声が響く。

「こっちはビビりまくっているし。いいな、初々しくって」

「や……いや!」

「何す……モゴッ」

「あんまり騒ぐと、お友達が痛い思いするかもよ」

 くぐもった少女の声に被さるように、脅迫めいた男の低い声が重なる。

「な、付いてこいよ……」


「……やめろ」


 突然背後から響いた声に、不良っぽい男子生徒二人は振り向いた。

 二人とも制服を改造して着崩し、チェーンを何本も手首や腰に巻き、じゃらじゃらさせている。

 かなり強くブリーチした長髪を一人はポニーテール状に結わえ、もう一方はオールバックにして後ろに流している。

 耳はもとより、鼻や舌にもピアスをはめている。


 校則が緩やかで、一応制服を着用すれば、かなり自由な装いを認めているとはいえ、度が過ぎれば見ていて気分が悪くなる。


 人の格好にあまり関心を持たない俊だったが、力に任せて少女に不躾ぶしつけな振る舞いをしている所を目にしては、不快感は一層強まる。

「何だよ……」

 凄もうとして、男子生徒らは俊の視線に言葉を失う。

「……高天たかま先輩!」

 涙ぐんで俊の名前を呼ぶ少女は、よく見れば美術部の新入部員、加西かさい珠美たまみだった。

「……お、オメェには関係ねーだろ……」

 絞り出すように、珠美の手首を掴んでいたポニーテールの方が何とか言葉を紡ぐ、が。

「大事な後輩と……クラスメートの妹だ」

 そう言って俊は傍らの、もう一人の少女に一瞬目を向け、再び男子生徒らを見据える。


「……覚えてろっ!」


 それだけ何とか言い捨てて、二人は手を離し走り去っていった。

「高天先輩! ありがとうございました!」

 泣きべそをかく珠美を扱いかね、やや途方にくれていると、折よく加奈が現れて珠美の肩を抱き、ハンカチを手渡す。


「……タカマ、さん?」

 もう一人の少女が、ゆっくり、俊の名前を口にした。

「……遠野さん、かな?」

 その呼び掛けは、表情も口調も平坦で……しかし穏やかだった。

「はい。遠野とおの美矢みや、です」

 答えて、不意に気が緩んだらしく、ポロリ、と一筋涙を溢した。

 黒目がちな瞳を伏せ、幾筋もの涙が、ミルクコーヒー色をした頬を濡らし続けた。




 気がすむまで泣いて、ようやく泣き止んだ二人の少女を、俊は美術室に連れていった。

 美術室の流しでタオルを絞って(加奈が保健室から調達してきた、蛇足ながら保健委員だったりする)、真っ赤に腫れ上がった瞼を冷やしていると、バタバタと足音がして、慌ただしく音を立てて扉が開いた。


「美矢!」

「……兄さん」

 俊のクラスに入った転校生の遠野和矢が、血相を変えて飛び込んできた。

「だ、だい……」

「大丈夫。高天先輩が助けてくれたから」

 すっかり落ち着いた美矢が、息も絶えだえな兄をなだめるように言った。

「えっと……高天、君? ありがとう。本当に、ありがとう」

「いや……特に何も……」

 涙ぐむほど感謝され、俊は何だかむずむずして、居心地が悪くなった。

 それほどのことはしていないのに。


「カッコよかったです! 高天先輩。『やめろ!』って一喝して、ひと睨みで、不良さんたち、退散してしまいました」

 こちらもまだ感激冷めやらぬ様子の珠美が、セッセと武勇伝を語ってみせる。


 他の美術部員は、微笑ましく見守り、特に囃し立てることもなく、俊には救いだった。

「本当に、たまたまで」

「偶然でも、居合わせてくれてよかった。本当に」

 感謝が尽きない様子の和矢が、ふと、辺りを見回した。

「そう言えば、このことを知らせてくれた彼女は……?」

「ここにいます」

 美術室の入口で、息を切らせて加奈が答えた。

「もう、遠野君、美術室、って聞いただけで、位置も聞かずに飛び出していくんだもん。しかも方角違うし……探したよ。よく辿り着いたね」

 加奈がタオルを調達したあと、和矢に知らせに教室に戻ってから、既に十数分過ぎていた。

 和矢が慣れない校舎内で迷っていないか心配して、探し回ったらしい。

「……すみません。平常心なくしてました」

「まあ、いいわ。むしろ顔色一つ変えない方が、不気味だし」

 それには俊も賛成だった。

 それに、神々しいまでの落ち着きと存在感を持つ転校生の、人間味のある一面が見られ、何だか好感が持てた。


 父が日本人で、母がインド人だと言う遠野兄妹は、商社勤めの父の仕事の都合で、日本とインドを行き来しているという。

 顔立ちはエキゾチックだが、肌色は少し浅黒い程度で、正直夏の盛りの運動部の連中(と言っても、俊の脳内に浮かぶ比較対象は、主も副も正彦しかいない)に比べたら色白と言っても差し支えない程度である。


(後日聞いた話では、広いインドでは地方で顔立ちや肌の色も千差万別で、欧米人に近い白色人種系もいれば、いわゆるインド人をイメージする濃い褐色の肌や、黄色のモンゴロイド系の淡い肌色など、様々なのだと言う。遠野兄妹も顔立ちは母譲りだが、日本人の父よりもインド北部出身の母親の方が色白なくらいだと言う)


 インドと日本を行き来していると言ってもインドでの生活がかなりの比重を占めているが、現地には日本人も多く、意識して日本語も使うように心がけて来たと言う。

 しかし大学受験に備えて、まだしばらく帰国できそうにない両親の元を離れ、父方の叔母に世話になっていると言う。

 ただ、日本の教育制度でなく、インドのナショナルスクールに通学していたため、転入学の手続きや許可が降りるのに時間がかかり、五月半ばと言う半端な時期になってしまった……等々、転校の挨拶で聞いたよりも更に詳しく自己紹介を受け。


「落ち着いたら、部活動もしたいと思っていたんだけど……これも縁だと思うし、早速美術部に入部してもいいかな」

「……」


 無言で、俊は山口先輩を見る。

 現部長の山口は、同好会降格寸前の美術部にとって、希少な入部希望者を何度も門前払いにしている。

 多くは加奈目的の男子生徒であったが、中にはサボりに部室を使う目的で(学校の端にある部室はそこの部員以外が使用できないよう、暗証番号を押して開けるタイプの鍵が付いている)きた生徒もいたらしい。

 そんな生徒を、山口は描かせた絵を見て、驚異的な勘で探り当てるのだ。


 曰く『悪魔は芸術を解さない』。

 

 何か裏心を持っている人間は、 絵を描かせてみれば分かる、と言う。

 上手い下手ではないことは、俊が一番分かっている。

 ただし、山口先輩以外にはどこら辺が判断基準なのかは謎である。

 そして、例の如く、スケッチブックが渡された。


「わあ、上手! インドの石仏ね」

 スケッチブックを覗き込んで、加奈が感嘆の声を上げた。

「言葉が通じないときも、絵だと分かり合うきっかけになるから……行った先々でスケッチしていたんだ」

 鉛筆だけで濃淡もつけて、作品としても十分に見ごたえのある群像を書き上げた。


「俊はどう思う?」

 珍しく、山口先輩がひそひそと俊に意見を求めてきた。

「あ、上手だな、と」

 答えてから、それは判断基準になっていないらしいことを思い出す。

「何だか、楽しんで描いているようです」

「一緒にやっていけるかね?」

「……大丈夫だと」


 俊の答えを聞いて、山口先輩は、声を大きくして、入部許可を言い渡した。

「私は……」

「あ、兄妹特典で許可」

 美矢が尋ねると、飄々として山口先輩は答えた。

 呆気に取られる遠野兄妹を尻目に、山口先輩は作業に戻り、相変わらずのマイペースぶりに、俊は小さくため息を吐いた。

 何だか山口流の判断基準が掴めた気がしたのに、また分からなくなってしまった。


「まあ、そのうち、慣れるから……多分」

 説得力がないことを自覚しながらも、俊は一応フォローしてみた。

 慣れなくても、何とかやっていけるから、と自分に言い聞かせながら。

 慌てて笑顔を取り繕い、よろしく、と返す和矢の横で、まだ固まっていた美矢に目を向けると、パッと目を逸らした。


 その頬が赤く染まっている様子に、俊は微笑ましさを感じながら、胸の奥がざわめいたことに、まだ気が付いていなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る