一章 平凡な登校風景

1

「・・・・・・」


 俺は光のない世界にいた。


「・・・・・・ょ・・・・・・」


 ここは暑くもなく寒くもなく、臭いもせず音もしない。重力さえ存在しない空間に、俺は四肢を投げ出し漂っていた。


「・・・・・・め・・・・・・」


 俺は・・・・・・誰だ・・・・・・、ここは・・・・・・どこだ・・・・・・、何時からいるのだ・・・・・・、何も考えられない、考えるのが面倒くさい。


「・・・・・・め・・・・・・めよ・・・・・・」


 どこからか微かに人の声が聞こえてくる。音がないこの世界ではそれがひどく耳に障る。しかし、考えるのをやめた俺の頭では言葉の意味が理解できず、ただの雑音にしか感じられない。


「……めざめよ……」


 声は徐々に近づいてくる。いや、俺の体の方がその声に引き寄せられているようだ。


「……目覚めよ、羽生旭(はにゅうあきら)……そして、今日も予のために働くのだ……」


 止めろ! 呼ぶな! ほうっておいてくれ。俺はここにいたいんだ!


「我はシモンヌ・アレクサンドラ・ベルリオーズ・・・・・・主人の声が聞こえぬか、この痴れ者よ」


 ぐーすーぐーすー


「いい加減、起きよと言うておるに!」


 額に衝撃が走り、同時に金属音が鳴り響いた。

 俺は観念してゆっくりとまぶたを開けると目の前には、金色の髪、空色の瞳とよく磨かれた白磁器のような肌を持つ少女の顔が、息もかかるかというほどの距離にあった。


 ほどけば肩までかかる髪を頭の後ろで結わえ、形のいい細い眉の下には勝ち気で大きな瞳があり、彼女はそれの目尻をつり上げ、俺を睨んでいる。

 高校の制服の上にエプロンを羽織り、右手にはお玉を装備、額への衝撃はどうやらこれの仕業らしい。


「やぁ、おはよう荒木玲惟羅(あらきれいら)さん、いい朝だね」


 オレは布団に入ったまま、朝の挨拶をした。ボヤボヤしていると彼女から二度目のお玉の攻撃を食らってしまう。


「次におはようのチューを・・・・・・ん~」


 突き出した俺の唇に、彼女は持っていたお玉を押しつけた。

 それは攻撃だけではなく防御にも使えるらしい。

 唇に金属の無機質な感触、鼻腔をみそ汁のかすかな香りがくすぐる。


「たわけ、つまらぬことをしている場合ではない。もう起きる時間は過ぎているぞよ」


 彼女は今度はお玉を枕元の目覚まし時計の方に向けた。

 首を巡らせてそのデジタルで表示された時刻を確認すると、確かに起きなければならない時間を十分程過ぎている。

 寝ぼけて鳴っている目覚まし時計を止める癖は無いはずなので、目覚ましのスイッチを入れ忘れたようだ。


「朝餉の用意は出来ておる、早く着替えて下に降りて参れ」


 そういい残すと、彼女はスカートを翻し、頭の後ろで束ねた髪を揺らしながら部屋を出ていった。


「うーん」


 布団から上半身だけを起こし、軽く延びをする。

 一つしかない南向きの窓からは、春のやわらかい陽射しが部屋いっぱいに注がれている。カーテンは彼女が開けてくれたようだ。


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