第143話 炎の将

 南側の堀はほぼ埋められた。北側も最初の堀を埋め終わった。


 南側では、今度こそ汚名返上と池田恒興が、真田城の竹襖に向かって火矢を放ち根こそぎ燃やしていった。火矢を放つのは前回参戦していない者たちだ。真田軍はすでに砦の中に引いていて誰もいなかった。砦までの見晴らしが良くなり、遮るものは何もなかった。


 足利義昭は何としてもあの出城を落とすよう池田、筒井に厳命した。追加の兵も加えて総勢二万の大群が埋めた堀を渡り、見るも無残な形になってしまった竹襖を足で踏みながら砦に向かって真っ直ぐに進んだ。


 突然、地面が無くなった。そう、落とし穴だ。落とし穴の中にはまた黒い水が溜まっていた。それを見た兵のうち前回参戦していた者たちがパニックになって四方八方へ逃げ出した。落とし穴はあちこちにあり、兵がどんどん落下していった。


 火の恐怖症。それは簡単には消えない。目の前で仲間が焼け死ぬのを見た者達はすでに戦場では役立たずになっていた。自陣で休んでいる時に話を聞かされた兵も同様だ。事実上、池田筒井軍は殆どが使い物にならなくなっていたのだが、両ボスにはそれがわかっていなかった。度重なる失態を挽回しなければならないところまで追い込まれていた。


 実際に穴に落ちた兵は三百といったところか。大した人数ではないのだが、恐怖は人を錯乱させる。穴の中にいた兵が穴から抜け出し、油まみれになって陣内を逃げ回りはじめた。


「なんか簡単すぎるな、いいのかな?撃て!」


 同じように火矢が放たれた。と、同時に砦から兵が出撃した。それに合わせて遊軍の真田昌幸隊が池田筒井本陣へ仕掛けた。昌幸隊の先鋒はなぜか火のついた松明を持っていた。


 燃える兵は自陣へ逃げた。それを追うように砦から騎馬隊、徒士の兵が続く。少し後ろに控えていた池田恒興の陣の正面から火のついた味方兵が突っ込んでくる。


「なんだ、何事だ?」


「味方の兵が火だるまになりながら逃げてきております」


「また火だと、堀は埋めたであろう。砦まで障害物はないはずだ。何が起きた?」


 今回が最終決戦のつもりで前線近くに陣を張っていた池田恒興は火のついた味方兵を受け入れようとした、とその後ろ直ぐに敵の騎馬隊が迫っていた。


「ええい、撃て、蹴散らせ!」


「味方にあたってしまいます」


「構わん、撃て!」


 池田陣から鉄砲が撃たれた。弾は味方に当たり、真田軍からしたら敵兵はいい弾除けになった。そして池田陣に真田軍が飛び込んだ。



 その横、筒井順慶の陣には遊軍の昌幸隊が突っ込んだ。同じように燃える兵を盾にして、さらに松明を持った先陣が敵陣を走り回った。敵の多くの兵は火を見て足が竦んでしまった。そこを本多忠勝率いる五百の精鋭が暴れまわり、すぐさま五千の兵が突っ込んだ。そしてその後追加の三千が暴れ始める頃、池田恒興、筒井順慶は討ち取られた。途中で黒田官兵衛が応援の兵を送り込んだが間に合わなかった。そのくらい瞬足の攻めだったのだ。敵の応援が来たのを見た本多忠勝は撤退命令を出し、真田軍は一気に引いていった。見事な駆け引きだった。


 数では池田筒井軍の方が多いはずだったのだが、終わってみれば圧勝だった。真田軍の死傷者二千名、池田筒井軍の死傷者は前戦と合わせて一万五千にも及んだ。


 この戦で真田家の名は全国に知れわたった。炎の将、真田信綱と恐れられるようになった。昌幸は兄が有名になったので姓を武藤に戻すことにした。真田の名を広めたいというのが真田家の悲願、父幸隆の遺言でもあった。





 遠目で見ていた黒田官兵衛は呆れていた。いいようにやられ過ぎる。このままでは帰れんな、どうするかと悩んでいた時に早馬が着いた。


「秀吉様が関白に、武田勝頼が征夷大将軍に任じられました」


 何だと、何でそうなった。戦を止めるよう親王に命じられたので引くようにとの事。ただ戦は水物ゆえ官兵衛に任せる、だと。今の状況は負けっぱなしだ、このまま何も成果を上げずに戻る事は出来ん。先ずは義昭だな。


「上様。先日、武田勝頼が征夷大将軍に任じられたそうですございます」


「それでは余はどうなる?」


「解任ではなく、二人将軍がいることになっています。これは勝頼を打ち破り、真の将軍が義昭公である事を知らしめるしかないかと」


 官兵衛は、秀吉が関白となり足利将軍を傀儡にして世を治める考えでいた。それには武田が将軍では困るのである。


 義昭は少し考えてから話を始めた。


「其方も知っておろう。余は元々は嫡男ではなく僧籍だった。足利家では嫡男以外は外に出されるしきたりでな。兄上、義輝が三好に殺され還俗する事になった。将軍として担ぎ出された。ただ将軍になった以上は責がある。そう思って民の平和を願いここまで来た。信長が天下を取っては民が苦しむ、そう思って包囲網をしいた。今となっては民の事を考えれば余が留まる必要はないのかも知れん。武田軍は強い。武田勝頼という男に会ってみたいものだ。官兵衛、余を担ぐ事で民が平和になるのか?答えよ」


 この男はここまでか。武力で武田を滅ぼす道か、それとも武田を手懐けるか。どちらにしてもここは引くしかないか。とはいえ負けっぱなしでは秀吉に合わせる顔がない。


「もちろんでございます。武田は勢いがあるとはいえ甲斐の山猿、上様は由緒ある足利家の尊い血を引いておられます。民の指示が得られるのはどちらか、考えるまでもありません。敵は勝って気が緩んでおります。もう敵の罠も出尽くしたはずです。今こそ攻める絶好機ですぞ」






 北側では前田利家軍が最初の堀を埋め二つ目の堀を埋めようと慎重に前進していた。何ヶ所か落とし穴らしきものがあり、慎重にならざるを得なかった。二つ目の堀を埋めはじめた時に、砦から大きな声が聞こえた。直江兼続が紙で作ったメガホンで喋っていた。


「直江兼続である。帝から停戦せよとのご命令である。こちらからは仕掛けぬゆえ自国へお戻りくだされ」


 その情報は利家の耳に入った。確認のため、黒田官兵衛に伝令を走らせた。

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