第40話 静寂な言葉
「…副社長」
驚きのあまり、思わず声に出していってしまうと、副社長はクスッと笑い切り出してきた。
「座って」
不安になりながらも少し離れた場所に座ると、副社長は私をじっと見るだけで、何も話そうとはしない。
「…どういうことですか?」
恐る恐る聞いてみると、副社長が呆れたように切り出してきた。
「ずっと住んでたんだよ。 ここに」
「え? だって、管理人さんも管理会社も空き部屋だって…」
「そう思い込ませていたんだよ。 だから君にもそう伝えていた」
「そんなことができるわけ…」
「精神感応… テレパシーって言葉なら知ってるよね? 僕はテレパシーで人の潜在意識に話しかけることができるんだ。 例えば、レストランで食事をしているときに、ナイフとフォークを『逆だ』と思い込ませる。 そうすると、『自分は左利きだから、逆にしなきゃいけない』って意識が働くんだ。 無条件にね。 けど、本来その人は右利きだから、扱いに慣れず、ナイフで食事をとるようになる」
副社長の言葉を聞き、野口さんのことが頭に浮かんだ。
「…じゃあ、あれは副社長の?」
「人は極度の緊張状態にあると、頭に響く言葉をすんなりと受け入れてくれるんだ。 アルコールが入っている相手に語り掛けると、たいして興味のない相手をものすごく魅力的に感じることもね。 この先にどうなるかがわかっていても、行動や衝動を止められない。 つまり、理性が働かなくなる」
「…それって、悟のことですか?」
「流石。 話が早くて助かるよ。 彼のおかげで、君の家の合鍵も、疑われることなくすんなりと作れたし。 Tシャツとワイシャツは相当驚かせちゃったみたいでごめんね。 悪気はなかったんだ。 ただ、どんな形であれ、君の願いを叶えたかっただけなんだ」
「でも、ケチャップは…」
「あれも彼からの情報だよ。 彼らのような、見栄ばかりで中身が空っぽの人は、思考も読みやすいし、すぐに操れるからかなり楽なんだ。 けど、どうしても君だけは読めないし操れない。 どんなに近づいても、どんなに言葉を投げかけても、君が心身ともに弱っているときにしか言葉が届かない。 他の人は会話をしなくても、どんなに離れた場所にいても、強く思えば操れるのに、君だけは操れない。
…初めてあの居酒屋で見かけたときから、何度も操ろうとしたけど操れなかった。 ほかの人は簡単に操れるのに… 競馬で自分の買った馬券が当たるよう、ジョッキーの意識ですらコントロールできるのに、君だけは操れないし、思考が読めなかったんだ」
「…私だけ思考が読めない?」
「きっと、君に対して好意を抱いていたから、本能的に『操りたくない』って思っていたんだろうね。 けど、君の願いを叶えたい。 その結果、周囲にいる人の思考読んで、君の願いを叶えようと思ったんだ。 幸い、君の後輩の紗耶香ちゃんは、何日も前から君に張り合うことばかりを考えていたから、先手を打ち易かったよ」
「…じゃあ総務部長も副社長が?」
「あれはただの偶然。 僕が操ったのは、野口さんとあの痴漢と、紗耶香ちゃんだけ。 君が必死に頼み込んだから、工場長には何もしてない。 ま、紗耶香ちゃんは日常的にリストカットをしてたから、あれは日常の一部なんだけどね」
「…どうして急にそんな話を?」
「会社を辞めて引っ越すんだろ? 僕も海外に行こうと思ってさ。 日本は頭の中で考えるだけの、『静寂な言葉』が聞こえすぎて、うるさいんだよ。 藤田さんは操れば操るほど、精神的にダメージを受けるようになってしまったしね。 彼女、今は帰省中だよ。 …今まで怖がらせて、本当にごめんね」
副社長はそう言い切った後、優しく微笑んできた。
正直言って、自分の考えをはるかに超えすぎて、理解はできなかったんだけど、今までの行動を思い返せば、納得はできるし、過去の不思議な現象の答えにつながる方法は、副社長の言葉以外にない。
「…今までいろいろと、ありがとうございました」
お礼を言った後、副社長はボーっとテーブルを眺めるだけで、それ以上の言葉はかけてこなかった。
黙ったまま部屋を後にし、自宅に戻った後、大きくため息をつく。
…静寂な言葉か。 こんな風に、頭の中で考えるだけの言葉も、話すように聞こえてるってことなんだよね?…
ソファに倒れこんだ後、副社長から言われた言葉を思い返し、今まで起きていた不思議な現象の終焉を物語るように、瞳を閉じていた。
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