第29話 小さな願い
打合せを終えた後、副社長とカズさんに挨拶をし、滝川君の運転する車に揺られていた。
「元世界チャンプの中田和人さんに会えるとか、俺マジ信じらんないっす!」
「そんなにすごい人だったんだ…」
「超凄いなんてもんじゃなかったんですよ!? 東帝ジム所属だったんすけど、ジムの周りには見物客が溢れてたんすから! クールだし、紳士的だし、当時は男女問わずすごい人気だったんすよ? 甘いものが好きでケーキ屋始めたって噂は聞いてたんすけど、まさかあそことは思いもしませんでした」
「あのケーキ、めちゃめちゃ美味しかったよねぇ」
「あ、紗耶香ちゃんには黙ってていただけますか? 何言われるかわかんないんで…」
「わかった」
滝川君に返事をした後、ふと夏美が駅まで迎えに来てくれた時のことを思い出していた。
…あの時、夏美が話してた店が、中田さんの店だったってことだよね。 本当に偶然なのかな…
怖いような、嬉しいような気持ちになりながらも、車に揺られ続けていた。
会社に戻った後、何食わぬ顔で作業を続け、定時後には夏美と飲みにマスターのお店へ。
カウンターに座り、夏美に『打合せでパティスリーKOKOに行った』事を告げると、夏美は驚きの声を上げていた。
「マジで!?」
「うん… 副社長とオーナーが大学時代の友人だったみたいで、休憩中、店を開けてくれたんだって」
「それ紗耶香ちゃんに言わない方がいいよ?」
「わかってるよ。 また無言の圧力かけられるのも嫌だし、残業押し付けられたくないしね」
話しながら飲んでいると、店の扉が開き、背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「あ! なっちゃんとあかりちゃんじゃん!!」
声に振り返ると、そこには匠さんと修哉さんの二人が驚いた表情で歩み寄り、夏美が切り出した。
「あれ? どうしたの?」
「すぐそこでセミナーがあったんだ」
匠さんの答えを聞くなり、夏美は空いているテーブル席に移動し、4人で飲み食いしていたんだけど、マスターは料理ができるたびに私を呼び、グラスが開くと飲み物を自分で作りに行く。
バイト時代のことを思い出しながら動いていると、匠さんが切り出してきた。
「もしかしてバイトしてた?」
「そうですよ。 大学時代にずっとバイトしてました」
「そうなんだ。 気づいた?」
匠さんは修哉さんに聞いたんだけど、修哉さんは顔を傾けるだけ。
「俺ら大学時代、たまぁにここ来てたんだよね。 あかりちゃんって確か26だよね?」
「そうですよ。 あ、でも週4しか入ってなかったんで、火、水、木は休みでした」
「それでか! 俺ら木曜しか来てなかったから気が付かなかったんだ!」
意外なところで接点を見つけ、4人で笑いながら話していたんだけど、次第に夏美の口数が減り、眠そうな表情に変わっていく。
「夏美、そろそろ帰ろっか」
夏美はうなり声をあげるだけで、全くと言っていいほど動こうとはしない。
仕方なく、マスターにお金を払いに行こうとすると、修哉さんがスッと立ち上がり、横から支払いを済ませてくれた。
「え? いくらお渡ししたらいいですか?」
「いいよ。 奢る」
「ダメですよ! そこはちゃんとしてください」
「いいって。 電車止まった時に送ってもらったし、今日は奢らせて」
修哉さんが言い切り、結局、修哉さんに奢ってもらうことに。
席に戻った後、匠さんは夏美を担ぎ、私は夏美の荷物を持って店を後にしていた。
夏美を家まで送り届けた後、3人で駅に向かって歩いていたんだけど、匠さんと楽しそうに話す修哉さんの声を聞くたびに、懐かしい気持ちに包まれていた。
…この声、どっかで聞いたことがあるんだけど、どこだろう…
今までずっと、囁くような声しか聞いていなかったせいか、はっきりと話す修哉さんの声は初めて聞くはずなのに、懐かしい気持ちに包まれる。
…この声、もっと聞きたい…
ふと頭によぎった言葉を振り払うように二人を追いかけ、駅に向かっていた。
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