第67話 白ヤギさんと黒ヤギさん

 シオンさんと同じく美しい毛並みと角を持った、巨大で荘厳な神山羊さんたちは、毛の隙間から現れた私を見てその透き通るような双眸を一斉に見開きます。

『人の子だ』『人の子?』『ニグレドが言っていた神子みこか』などと小さなざわめきが広がり、そしてその視線はやがて、私の左手首──神獣の腕輪の下からわずかに覗く、番の印に集まりました。


『静まれ。俺の番は見世物ではない』


 シオンさんが一言そう告げた瞬間、一斉に止まったざわめきに思わずビクッと肩が跳ね上がります。

 す、すごい圧と統率力です、シオンさん、さすがは現時点での大神候補筆頭というところでしょうか……。


『霊峰を捨てて人間の番を得たのか? おまけに相手は神殺しの力を持つ神子と来た、とんだふざけた大神候補様がいたものだなあ、シオン』


 群がる神山羊さんたちが、突如響いた冷たい声音にすっと割れるように道を開きます。

 そこを通ってゆっくりと蹄を鳴らしシオンさんの前に歩み出たのは、群れの中でも一際大きな角を携えた黒い毛並みの山羊──

 燃える夕暮れのような空色の瞳。ニグレドさんその人でした。


『逃げずに霊峰へ帰ったこと、一応褒めておいてやろう。裏切りを糾弾してもいいところだが、霊峰がお前を妨げずに通したと言うことは、大神はお前の罪を赦し受け入れたということだからな。であれば我らもその意志に従わねばならぬ。偉大なる父の温情にせいぜい感謝することだな』


 ニグレドさんの挑発にシオンさんは『ああ。まったくだな』と淡々と返し、ニグレドさんは山羊の顔でも分かるぐらいはっきりと目をつり上げ苛立ちを滲ませていました。あーシオンさん、またそうやって無駄に敵意を刺激して……!

 焦る私の前で、ニグレドさんはカツカツと蹄を鳴らしつつ『まあ、良い』とまっったく良くなさそうな声でフッと格好付けて言いました。この人意外と面白い人なのでは……。


『では約束を果たそう。俺と戦え。さすればその身に刻んだ呪いは解いてやる。今すぐにでも始めたい所だが、人里よりこの地に登り消耗したお前と戦っても勝利に傷が付くからな。一晩待ってやる。眠り体を休め、明朝に決着を……』

『いや、今夜は眠らない。俺もお前もな』


 スパッと言い切ったシオンさんの声に、ニグレドさんは瞳を丸くして瞬きます。


『トールさん、俺の背中から下りて腕輪を外して下さい。鞄の中の荷物は無事ですね?』

「え? ええ、大丈夫ですけど……」


 シオンさんは足を折り曲げて地に伏せ、恭しく頭を下げて私がするすると滑り落ちるのを待ちました。

 ニグレドさんを筆頭とした神山羊さんたちの好奇の視線にちょっと気後れしつつ、ゆっくりと腕輪を外し、解放されるオーラの感覚に少し震えながら目を伏せると。


『……何のつもりだ?』

「ああ、やっぱりこっちの方がしっくりくるな。これが今の俺だよ、せっかくだからみんなや父さんと母さんにも見てもらいたかったんだ」


 オーラの干渉を受け完全獣化形態を解かれ、人の姿になったシオンさんは──

 獣の耳も角もない、ただの人間の姿になったシオンさんは、ほっとしたように大きく伸びをして笑いました。


「約束通り決闘を受けよう。ただしその前にニグレド、お前には謝って欲しいことがある」

『謝罪……? 何をだ? お前を疎んでいたことか、それとも呪いをかけたことか?』

「そんなのはいいさ、お前が悪いんじゃないし。……俺が怒っているのはさ、お前が俺に言った一言だ。お前言ったよな、俺が居住区に行きたいって言った時、『本などくだらぬ、ただの紙の集合体だろうが。人間の思想を綴った駄文の塊などに人生を懸ける価値などない、本なんてゴミだ。お前はゴミ拾いに人里に下りるのか』……ってさ」

「………………」


 私は手で目を覆って唸ります。ああ、それ、シオンさん相手に絶対に言っちゃいけないやつだー……。


「トールさん、例の物を出して下さい」

「あ、ハイッ、でもいいんですか? 私のオーラ範囲では他のみなさんには……」

「すぐ隠せば大丈夫ですから。お願いします」


 困ったように微笑まれ、私は恐る恐る鞄に手を入れ、シオンさんに頼まれていたソレを取り出します。

 ……一冊の、本を。


『!!』


 一斉に最大まで見開かれた神山羊さんたちの瞳と、涎を飲み込む低い唸りのような音に、私は慌てて本を鞄に戻し隠しました。

 さ、さすがですね神獣さんの本能、私の手ごと食べられちゃいそうなものすごい圧を感じました……!


『……なんのつもりだシオン! 神の本能を悪戯に刺激して楽しむつもりか!』

「いーやニグレド、俺はお前をいじめて楽しむ趣味はないんだ……ただ知って欲しい、俺が好きな本っていうものが、一体どんなものなのかってこと。明日お前が大神になるならこれが最後のチャンスだし」


 シオンさんはそう言うと、すっと後ろから私の両肩に手を置いて、にっと強気に微笑むと告げました。


「俺の番は優秀な神子だ。彼女の力を借りれば俺たちは本を食べずにその神髄を味わうことができる。ニグレド、今からお前にをする。お前が本に飽くことなく夜が明けるまで眠らなければ俺の勝ちだ。大人しく本の素晴らしさを認めて謝るんだな」


 不遜に言い切ったシオンさんの言葉に、ニグレドさんは唖然として目を見開き……私は半目でうなだれました。いやそれ、私も徹夜確定じゃないですか!



 * * *



「────そうして僕がドアを開けると、そこで待ち構えていたのは見間違えようもない、あの日水底に消えたはずの父親その人だったのだ────」

「っ…………! おいシオン、早く続きを読め、男はどうなった!? 直前の文の意味深な『真の敵は他にいる』描写も気になるぞ、もったいぶるな早く読め!!!」

「うるさいなー、章と章の間の余韻ってものがあるだろうが。これだから情緒もへったくれもない山羊は……あと唾を飛ばすなよ、トールさんにかかる。というかお前もうちょっと離れろよ近いよ、トールさんは俺の番なんだぞ俺の。分かってるのか?」

「いやうっかり神子の領域を離れて本に齧り付いたら続きを読んでもらえないだろうが! ……おい神子、そこを動くなよ、というか絶対に寝るなよ目を開けろ、うとうとするんじゃない!」

「う、うるさぁ~い…………」


 今、何時なんでしょうか。

 気が遠くなってきたところで両隣からぎゃあぎゃあと騒がれて、私はしくしくと涙目でうつむきます。

 シオンさん発案の「読書会in霊峰」は、神山羊の里の外れにある小さな祠の中に火を焚いて静かに始まりました。


 1メートルという私の狭いオーラ範囲の事情により、焚き火を前に私が座り、それを挟むようにぴったりくっついて右にニグレドさん、左にシオンさんが陣取る形になっています。こうなると調停師も本格的にただのアンテナですね。

 左からシオンさんの読み聞かせ、右からそれに対するニグレドさんの興奮気味の感想を強制的に延々と聞いていたら、さすがに頭がおかしくなってきました。だってどっちも同じ声だし、どっち見ても同じ顔だし…(色は違いますが)


 シオンさん、出発前に荷物に本を入れたいなんて言うから本当に本好きだな~と思ってましたけど、こういう用途だったとは……。

 ちなみに選ばれたのは私の部屋にあった、シオンさんのお気に入りの作家さんが書いたSFミステリ小説です。

 シオンさんに会えなくて寂しい期間に気晴らしに読んでいたというちょっとお恥ずかしい代物なのですが、こうして役に立ったのならうれしいようなそんなことよりも眠りたいような……。


 しかし血は争えないと言いますか、ニグレドさん、初めて触れた本の世界にあっという間に夢中になってしまいました。

 始まる前は、


「所詮は人間の浅知恵で書かれたつまらぬ娯楽。退屈ですぐに眠ってしまうに決まっているだろう」


 などと笑っていたニグレドさんですが、いざ人化してシオンさんが数ページ物語を語ると、だんだんと前のめり、いや私のめりになって齧り付くように読み聞かせの声に集中されていました。

 この調子では夜が明けるまで寝てくれそうにはありません。よかったですねシオンさん大勝利ですよ、だからこの調停終わらせてくれませんかね……最近よく眠れていなかったし、正直ただの人の身である私には体力的にもう限界なのですが……


 そんな具合に、「寝たら死ぬ」と雪山みたいなことを考えながら必死で燃える火を見つめ続け数時間。


「────そして僕だけが知るのだ。故に人の社会もまた、形而上の泡沫の夢でしかないのだ、と」


 シオンさんが最後の一文を読み終えると、ニグレドさんは静かに噛みしめるように目を閉じて、涙を堪えながらパチパチと拍手までしていました。明日大自然に溶け込もうとする神様がこんな直情的で大丈夫なのでしょうか……。

 ん、明日じゃなくてもう今日なんですかね?

 朦朧とする意識の中、ふと祠の外から差し込むかすかな陽と、小鳥のさえずりに気づき、私は弱々しくどうにか口を開きました。


「トールさん、調停お疲れ様でした。終わりましたよ」

「ええ。…………お誕生日おめでとうございます、シオンさん、ニグレドさん」


 へらっとまぬけに笑うと、シオンさんもニグレドさんも、瓜二つのお顔できょとんと目を丸くしていました。


「……とんだ大物の番を娶ったものだな、シオン」

「ああ。全く俺には勿体ない人なんだ」


 くっくと肩を揺らして私の両脇で笑う二人から、昨日までのピリピリとした険悪な空気が薄れていることにちょっと驚いて目を瞬きます。


「さて。俺の勝ちだなニグレド、ごめんなさいは?」

「ぐ…………ああ、完敗だ。本がゴミなどと言った愚か者の舌の根を切り裂いてやりたい。認めよう、俺が間違っていた。本とは素晴らしいものだ、愚弄して悪かった」


 悔しそうに頭を下げるニグレドさんにシオンさんはふふんと目を細めて、ぴっと指を立ててついでのように告げます。


「だろ。と言うことでどうだニグレド、俺のおかげで素晴らしい本の世界を堪能できたことだし、霊峰を下りた俺の気持ちも少しは理解できただろう。このまま決闘などせず俺から大神の資格を譲り受け、穏便に事を済ませるつもりはないか?」


「断る」

「えーー!!」

「いや当たり前でしょどんだけ希望的観測で生きてるんですかシオンさん!?」


 え、本当に説得一辺倒の作戦でここまで登ってきたんですか!? 楽観的すぎる、番として心配になってきました!!


「本は好きになったが、それとこれとは話は別だ。俺だって父に正当に認められてから大神になりたい。お前に勝つことは必須条件だ。予定通り決闘を行う、日が天辺に差し掛かる頃に儀式の広場まで来い。じゃあな神子よ、世話になった」

「ああ、いえ、またのちほど……」


 満足げな表情のニグレドさんが角を生やしながら祠を後にすると、残された私とシオンさんはしばし無言で焚き火の燃えかすを見つめていました。


「…………。トールさんごめんなさい、俺やっぱり霊峰になるしかないかも……」

「ふっ……」


 今にも泣きそうな震える声に、私は申し訳ないけど場違いに吹き出してしまいました。


「? 何で笑ってるんですかトールさん、俺たちの愛の大ピンチに」

「いえ、すみません。シオンさんて神山羊さんの姿の時は本当に神様みたいでキリッとしてるのに、人化すると途端にちょっと抜けてて可愛くなっちゃいますよね。そんなところも好きなんですけど」


 あのお祭りで花を咲かせていた時もすっごく神々しかったのに、後で聞いてみたら実は死ぬほど緊張してたなんて言っていて、可笑しく思ったものでした。

 なんだか面白くて、状況は悲劇一直線なのにますます笑いを深めていると、シオンさんは私の言葉に目を丸くして、やがてぽつりと一言つぶやきました。


「それです」

「え?」

「すごいですトールさん、さすがです! そうか、その手があったか……!」

「???」


 がばっと抱きつかれてそんなことを言われて、まったく意味が分からずに困惑します。はて??

 そんな私をうれしそうにじっと見つめて、シオンさんは両肩を優しく掴むと、にこりと微笑んで力強く言い切りました。


「大丈夫ですよトールさん、俺は神様になんてなってやりません。きっとあなたと一緒に、ただの本好きとしてあの王都に帰ってみせますから!」


 さっぱり納得も安心もできなかったのですが、そのあまりに明るい声と笑顔に、なぜだか不安な気持ちは一掃されて。

 私は根拠も無くその幸せな未来を信じて頷き、「はい。応援してますね」なんて笑い返していたのでした。

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