第66話 白ヤギさんの里帰り②
『人間は神山羊全てを自然を司る神と崇めてくれますが、俺たちにとって本当の意味で神様と呼べる存在は、群れの中で一個体だけなんです』
「はあ、…………ヒッ……」
偉大なる霊峰の大自然を全速力モードで駆け上るシオンさんは、背に乗せた私がいとも簡単に意識を吹っ飛ばして両親に会いに行こうとするのを見かねて、種族に纏わるすごくだいじなひみつのおはなしを語り聞かせてくれることを提案しました。
あ、いま小川を一つ颯爽と飛び越えましたね。
落下しないようにふわふわの白い毛をぎゅっと掴みつつ私はきつく目を瞑りました。この山どこで落ちても惨たらしく死ぬ。
『存命の同胞の中で最も強い力を持った一人が大神として選定され、霊峰にその身を捧げ自然と同化し、霊峰を守り続ける。そして当代の大神が、俺とニグレドの父親にあたる人です』
それはおそらく獣人史学の権威が聞いたら卒倒しそうな、神獣・神山羊の種族間のみに伝えられる超重要機密でした。ものすごい傾斜の崖を跳躍して登りながらシオンさんは厳かな声で告げます。あっいま耳元で落石の音が……
『霊峰に加護を与える大神の務めには多大な労力を要します。一人の神山羊がその役を担えるのは二十年が限界だ。大神として選定される年齢は十九歳からです。父が大神に選ばれたのは俺が生まれる少し前で、そろそろ代替わりの時期になります。よって次なる大神を捧げる為に一年ほど前、霊峰では選定の儀が行われました。まあ大仰なようですが、その実はただの原始的な力比べです』
木々をなぎ倒さないよう跳び越えながら進むシオンさんのアクロバットな揺れに遠のく意識をどうにか首根っこ掴みつつ、私はふと思い当たる節がありそっと口を開きます。
……確か、あの夕暮れにニグレドさんの言っていた言葉、『お前が死ぬか、お前が負けるかだ』──
「……その選定の儀で、シオンさんは」
『ええ。勝ちました。最後はニグレドとの一騎打ちだった。結果を受けて俺は十九の誕生日に恙なく大神として霊峰と同化する予定でした。選定の儀の少し後、あの滑落者を見つけるまでは』
私は懐かしく思い出します。シオンさんが図書館でこっそり教えてくれた秘密、彼が初めて本を目にして、人間の世界への憧れを抱くきっかけとなったお話を。
『俺は生まれて初めて自分の意志を持ち、霊峰を降りて居住区に行くことを願い出た……まあ、当然ですが同胞の猛反対に遭いました。中でもニグレドの怒りと言ったら凄まじいものだった。あいつは俺とは違って神山羊としての誇りを持って、大神になることを強く希望していましたから。だからここを出て行く時、お互いに一歩も引かない大喧嘩をして……』
ばつが悪そうなシオンさんの声に、私は「あー……」と言葉を濁します。
シオンさん、穏やかそうに見えて本への執着は並々ならぬものがありますからね。
『あれだけ完膚なきまでに負けた癖に』とか『もう一回八つ裂きにされたいのか』とか不穏なこと言ってましたけど、あれって全然比喩でも挑発でもなくそのままだったんでしょうか……。
『……俺はニグレドをねじ伏せて振り切りましたが、最後に胸に角の一閃を受けた。その時にかけられたのがこの呪いです。大神の資格を持ち逃げした俺が、いずれ必ず霊峰に戻らざるを得ないように、ニグレドが命がけでつけた傷でした』
背の上では覗き見ることも叶いませんが、獣のシオンさんの胸にも確かに刻まれているだろう、あの深い傷痕を思い、私はチクリと自分の胸に痛みを覚えました。ものすごい勢いで茂みに突っ込まれて全身葉っぱまみれになりましたが構ってもいられません。
……いえ、しかし?
「んーと……シオンさんはやる気もないし選ばれたくなくて、ニグレドさんがやる気満々で選ばれたいのなら、そこは相談するんじゃダメなんですか?」
『そうしたいですが難易度はかなり高いです。ニグレドは俺と違って誇り高い根っからの神山羊だ、きちんと実力で俺に勝って正当に資格を得るまでは納得しないでしょう』
め、めんどくさーい……。
いえ、神様なんだからその辺をゆるゆるにしちゃう方がダメなんだろうなと思いますが。ニグレドさん、確かに融通聞かなそうなものすごい頑固オーラをひしひしと感じましたしね。
「で、ではちょっとずるい気もしますけど、シオンさんがわざと負けるというのは?」
『無理です。神山羊は同種間での決闘では手加減が出来ないようになってるんです。俺にその気がなくても戦いとなれば全力で叩きのめすしかできません』
「はあ……」
ますますめんどくさい、と神様に対して不敬な感想を抱きつつ私は目を細めます。
『すみません、俺があいつよりも圧倒的に強すぎるばっかりに……』
「そういう素直はニグレドさんの前では隠しておきましょーね……」
たぶんこういうところがニグレドさんを苛立たせまくってあそこまで仲悪くなっちゃったんじゃないかなー、なんてこっそり思いつつ呟きます。
シオンさんのまっすぐで素直なところはとっても大好きなんですけどね。
まあ、神様同士の戦いに八百長を持ち込もうなんてそもそも浅はかな考えかもしれませんね。うーん、でもそうなると本格的に困っちゃいますね??
「じゃあこのまま頂上まで行って決闘を受けたら、シオンさんはまた普通に大勝利、晴れて明日の十九歳の誕生日にお父さんの後を継いじゃうんですか?」
『いえ、それだけは避けたいです。俺はまだ読みたい本もいっぱいあるし、トールさんと離れるのだって嫌ですから。それに何より俺にはやる気がありません、霊峰だってこんな俺と同化して守護されるのでは心許ないでしょう』
「そうでしょうか……」
実は番の印とやらのおかげか、さっきから私にもかすかーーに霊峰の大自然っぽい声が聞こえてきているのですが、専ら『そうでもないよー』『シオン好きー』『がんばってー』『ニグレドはいい子だけどすぐ怒るから怖いー』などなど完全にシオンさん推しな気がします。モテる神様はつらいですね。
ですが私だってシオンさんが霊峰になってしまうのはちょっと困ります。まだまだいちゃいちゃというものもし足りてないですしね、そこはぜひとも阻止したいですが。
「それにしてもニグレドさん、王都に下りて来た時すごーく怖い顔してましたけど、それってシオンさんが大神争いのライバルだからだったんですね?」
間違えてシオンさんの名前で呼びかけた時、とっても怒らせてしまったことを思い出して、思わず肝が冷えます。
苦笑いの私にシオンさんは『いえ……』と少し言い淀んで、岩肌を蹴り上げる足は止めないまま静かに呟きます。
『俺がニグレドだったら、きっと俺のことを殺したいくらい憎んでいたと思う。だから俺はあいつにどんなに嫌われようとも文句は言えないんです』
そう悲しげに切り出して、シオンさんが教えてくれた兄弟のお話は、子供のころ母が夜伽に語り聞かせてくれた寓話のように穏やかで、だけど残酷な物語でした。
『俺の母は体の弱い人で、当時身ごもっていた俺を無事に生めたとしても、育てるまでは身が持たないだろうと言われていました。だけど俺は次代の大神だった父の血を引く子でしたから、どうしても母の代わりに俺を育てる人が必要になった。そのために選ばれたのがニグレドの母親です。子を身ごもらなければ乳を与えて育てることはできませんから』
ああそういえば、「母親は違う」と前に言っていましたね。
そもそもほとんど同じ顔をしていてもシオンさんは白い髪、ニグレドさんは黒い髪でしたし。きっとニグレドさんの獣姿も黒山羊さんなのでしょう。
『ニグレドにはもう一つ、俺が無事に生きながらえなかった場合に父の血統を継ぐという
ニグレドさんのシオンさんを見る目に浮かんでいた、燃える火のような色は、あの日は怒りや憎しみのそれに見えましたが、もしかしたら憧れや悲しさ、憤りなんかも入り交じっていたのかも知れません。
その複雑な目を、曲がりなりにも弟からひたすら向けられて育ったシオンさんのことを思い、私はそっと獣の背中を慰めるように撫でました。
小さく「……ありがとう」と角を揺らし、シオンさんは続けます。
『俺を生んですぐ亡くなった母のことはもちろん覚えていません。父は母が俺を生むより前に霊峰と同化してしまった。俺の家族と呼べるのは、実の子ではない俺を契約により嫌々育ててくれた乳母と、俺を目の敵にしている弟のニグレドだけでした。誰かと心が通ったことなんてなかった。生まれた時からそうだったから分からなかったけど、今思えば、俺は寂しかったんでしょうね。あの気持ちの名前が寂しい、ってことすらも、あの頃は知らなかったけど』
そういえば区長さんはかつて言っていました、居住区に来たばかりのシオンさんは、怒りも泣きもしないし感情の起伏がとにかく平坦だったと。今のシオンさんを見ていると想像も付かないことですが。
『しょっちゅう俺に突っかかって決闘を挑んでくるニグレドのこと、昔はどうしてそんな無駄なことをするんだろうと思ってた……感情的になったって過去も未来も変わらないし、あるがままを受け入れるしかないのにって。でも王都に行って、たくさんの本を読んで、たくさんの人と話して、トールさんを好きになって……ようやく分かりました。感情的にならないで、抗わないで、何が人生なんだろうって。澄ました神様のフリなんかしてるのがどれだけ馬鹿馬鹿しいかって、十八年も生きてきてやっと分かったんです』
シオンさんの言葉に、私は何も言えず、ただぎゅっと背にしがみついて頬を寄せました。
よく分かりませんが今は、なんだか思いきり甘やかしてあげたい気分でいっぱいなのです。人間である私の体はあまりにも小さくて、シオンさんを抱きしめてあげることもできませんが……
だけどシオンさんはうれしそうに笑って、「大丈夫ですよ、今は寂しいなんてちっとも思わないから」と囁きました。
私は抱きつく力を一生懸命に強めながら、今はきっと霊峰の一部になっているだろうシオンさんのお母さんとお父さんに向けて祈ります。
……シオンさんは王都で、大好きな本を読んで、たくさんの人に囲まれて慕われて、毎日笑ったり泣いたり怒ったりしながら、元気に生きていますよ。
番の印をきゅっと握って、伝わりますようにと願うと、霊峰の木々は優しくざわめき、応えるように私の耳をくすぐるのでした。
* * *
ぱちり、と目を開けると、激しく揺れていたシオンさんの背中は今は凪いだ海のようにただ静かで、私は目を瞬きます。
少し上を見上げれば、人里ではまずお目にかかれない純正の夜闇により浮かび上がった、満天の星空。
先ほどよりも一層冷たくなった底冷えするような空気に息を震わせていると、シオンさんは穏やかに語りかけました。
『トールさん、お疲れさまでした。着きましたよ、霊峰の頂です』
「あ、いえ、私は背中に乗っかっていただけで……」
笑おうとして、ひくりと口の端が引き攣ります。
温かな白い毛の中から身を起こして周囲の様子を伺おうとした瞬間、全身にビリビリと痛いぐらいに走った警戒心は、恐らく人間としての本能的なものでした。
自分よりもあまりにも大きな存在を前にした時、動物はただ恐れ、ひれ伏すことしか出来ない────
そのことを、シオンさんの大きな背中の上で起き上がり、そして私たちをぐるりと取り囲むようにして見据えている、無数の神山羊の群れを目にした時に、私ははっきりと思い知らされたのでした。
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