第65話 白ヤギさんの里帰り①
王都の周囲は街道の整備された広い平野に囲まれていて、一歩外に出ると開けた空にシオンさんは気持ちよさそうに伸びをしました。
私も同じく息を吸い込んで、地平線から浮かび上がった朝日をまぶしく眺めます。
お互い山育ちと田舎育ちですので、どんなに都会暮らしに馴染んだように振る舞っても根底に流れる血には逆らえませんね。
「さて、ここから飛ばしますよトールさん。俺の背中に乗っての移動になります、しっかり掴まって落っこちないで下さいね」
「はい、お世話になります。……でもシオンさん、掴まると言ってもどうやって? あの完全獣化形態になられてしまうと、まずよじ登るのに小一時間かかりそうですが」
「あー……」
シオンさんの獣姿、高さ数メートルはありますからね。
私の疑問にシオンさんは少し考えて、やがて閃いた!と言うように指を鳴らしました。
「トールさん、俺が今から四つん這いになるのでその上に跨がってもらえますか!?」
「嫌ですけど!?」
キラキラした目で最悪の案を提示されました。絵面が酷すぎる!!!
私の無慈悲なリテイクにシオンさんはちょっぴりしゅんとして、結局後ろから抱きつく形で獣化してもらうことになりました。これはこれで恥ずかしいですが……
私は区長さんたちに頂いた腕輪がしっかりと装着されていることを確認すると、こくりと頷いてシオンさんにゴーサインを送りました。
直後、
「…………わあっ!?」
黄金色の光に包まれる視界、かすかに聞こえる木々のざわめきのような轟音。
やがて頬をくすぐるふわふわとした温かさに、恐る恐る目を開けると──
「…………わあ」
『下は見ない方が良いですよ。強く引っぱっても俺は構いませんから、しっかりしがみついてて下さいね』
響き渡る鐘のような少し反響したその声はまぎれもなくシオンさんのもので、少しほっとします。
私は巨大な神山羊と化したシオンさんの背の上でうずくまるようにして、真っ白なふわふわの草原みたいな長く美しい毛を控えめに掴み、手綱のようにしてバランスを取りました。
すごいです、周りが見えない程のふわふわの中にいます。端的に言って極上の肌触りでした。
『乗り心地悪くないですか?』
「羽毛布団の中にいるみたいです……」
『それ褒めてます??』
気持ちよすぎておよそダニしか言わないような台詞を言ってしまいました。いけませんね番になったばっかりなのに可愛げの無い……。
私はふわふわをかき分けて、そっとシオンさんの獣の背中に手のひらで触れてみます。あったかくて、少し背骨の硬さと微かな脈を感じました。
調停師である以上こうして触れることは一生ないだろうと思っていましたので、ちょっと嬉しいです。獣の姿も人の姿も、どちらも合わせてのシオンさんですからね。
『では本気で時間が厳しいのでもう行きますね、全速力出しますので覚悟して下さい』
「はい。……あの、ところで神山羊さんってそんなに足がはや」
『あ、口閉じて。舌無くなりますよ』
「ひッ……」
タタン、と鉄のように硬い蹄が地面を鳴らしたかと思うと。
ギュン、と一瞬の加速音と共に、シオンさんはトップスピードに乗って平野を風の如く駆け出しました。あ、嘘です、如くじゃないです最早これ風です。
遠のく意識の中でぼんやりとシオンさんが教えてくれた豆知識ですが、普通のヤギさんの時速、40km超だそうです。それが神山羊さんとなれば推して知るべし。
私は大人しく目を閉じ、柔らかな白い毛に抱かれて、必死に空気抵抗に耐え続けるだけの生き物と化すのでした。
* * *
『トールさんトールさん。着きましたよ。……寝てるんですか? まあもう少し休んでても』
「うーん……お父さんお母さん、せっかく会えたのにどうして帰れコールを……? トールは悲しいです……トールもそっちに混ぜてください……」
『いややっぱ今すぐ起きて下さいお父さんお母さん頑張って!!!!』
綺麗なお花畑をバックに、なぜか最愛の両親に全力でしっしと追い返される悲しい夢に打ちひしがれていると、ふとシオンさんが前脚と後ろ脚を激しく上下して足踏みされましたので、私はぶんぶんと揺さぶられて慌てて目を覚ましました。
ハッ! 私は何を……悪夢を見ていた気がします、なんか両親から最終的に砂とか石まで投げられたような……?
「ん……」
そこでぶるり、と肩が震えて、私はシオンさんの背の上でもぞもぞと身を縮めました。芯から冷えるようなこの空気は、人里ではまず感じられない、自然の中特有のものです。
『……番の印があることで、トールさんにもある程度俺の力が伝播しています。霊峰の夜の冷えは普通の人間には耐えがたいものですが、俺の加護で少しは耐性ができているかと。それでも寒いことに変わりはありません、何か体調に異変があったらすぐに教えて下さい』
「そ、そんなすごい特典が?? ありがとうございます……。でも大丈夫ですよ、おかげで村の真冬よりはマシな程度で済んでます。それに、シオンさんの体がすごくあったかいので。こうして包まれてれば全然平気なんです」
私は目を細めて笑いながら、そっと首を伸ばし、いつの間にか空気の一変した周囲の様子を伺います。
空は既に暗く色を陰らせ、緑の平野はやや湿り気のある土へと変わっていました。
そして目の前にそびえ立っていたのは──神山羊さんよりもなお高く、まるで雲を目指すが如く、遥か天上まで届かんばかりの雄大な山でした。
力強く生える木々と、剥き出しの岩肌とが斑に覆う手つかずの大自然。
そこは人間が立ち入ることなど恐れ多いと、それこそ本能的に畏怖するような、底知れぬ神聖な空気が漂う静かで厳かな聖域でした。
……ああ、ここが、シオンさんが生まれ育ち、そして本を読むという願いのために捨てた場所なんですね。
シオンさんは何も言わずに霊峰の木々を見つめ、頭上の耳を澄ませてじっと何かに聞き入っていました。
「聞こえるんですか? 霊峰の声……」
『ええ。……皮肉なものですね、俺は二度と帰らないと身勝手に山を下りて、自分の欲望を満たすためだけに神であることを放棄した裏切り者だというのに……』
悲しげなシオンさんの声に応えるように、木々はざわめき、擦れ合う葉はどこか優しく音を響かせます。
『……そんな俺にも、霊峰はまだ、おかえりと言ってくれるんだ』
そっと目を閉じて角のある頭を下げた、それがきっとシオンさんの『ただいま』でした。
だから私は静かな再会を邪魔しないよう、じっと息を潜め、ただ自然が鳴らす全ての音に耳を傾けるのでした。
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