第63話 そして白山羊は紙の月を食べる

 トン、と、手帳の日付に付けられた丸い印を指で突いて、私は一人頷きます。

 ついさっき時計の針が回って日付を跨いだから、シオンさんの誕生日までは、あと2日になったわけですね。

 あの黒いニグレドさんは「十九の年を数えるに当たり」と言っていましたので、おそらくその日が彼の言った猶予の期限リミットなのだと推測できます。


 地図で探しても霊峰の所在はさっぱり分かりませんでしたので、王都からどのぐらいの距離があるかは測れませんが。

 あの兄弟喧嘩の様子や「俺に負ける」という言い草から想像するに、その日に着いてもニグレドさんと一悶着ありそうですから、少なくとも一両日を要すると考えれば、王都を立つには今日ぐらいが限界でしょう。


 ……なので私は一人きりの部屋で、約束も無いままただ待ちました。

 そうして夜の12時を過ぎてさすがに冷えてきた空気に、ほんの少し弱気になりそうなのを疎ましく思っていた矢先。

 ドアのノッカーが控えめに鳴らされる音が玄関から響き、私は目を見張ります。

 そして逸る胸を抑えて玄関へ急ぐと、鍵を開けてその真夜中の来客を招き入れました。


「……こんばんは。外、寒かったですよね? 中にどうぞ」

「…………どういうつもりですか」


 ガチャン、と閉じたドアの前で、その人は────


 私の部屋を訪れたシオンさんは、初めて見せる怒りを滾らせた目で私を睨んでいました。

 その視線はちょっと怖いぐらいに鋭くて、ああ、いつもとびきり優しくしてくれていたけど、やっぱりこの人は畏怖されるべき神様なんだなあ、なんて今さらながらに思います。


「ミーナちゃんは気を利かせてくれて今夜は帰ってきませんので、時間は気にせずどうぞ。夜間外出許可は取れたんですか?」

「取ってませんよ。もうどうでもいいでしょうそんなことは。俺は霊峰に帰るんだから、居住区の規則なんて今さら知ったことじゃない。それよりもトールさん、」

「最近すごく冷えますよね。お茶淹れますよ、紅茶とコーヒーとどっちが……」


「……いい加減にしてくれよ!!」


 ぐいっ、と強く両肩を掴まれて、少し痛いぐらいの力にびくりと顔が強張ります。

 シオンさんはそんな私のわずかな怯えにも耐えがたいように眉根を寄せて、だけど指に込めた力を緩めることは無く──

 つらそうに声を震わせて、まるで懇願するみたいに、痛切に叫びました。


「どうして!俺に! 

 そんなことしても無意味だって分かってるでしょう!? ここ数日俺がどんな気持ちであなたからの手紙を食べ続けたか分かりますか! ……どんなに、もう忘れようって自分を押し殺しても……紙を飲み込むたび、全部思い出してあっけなく無駄になるんだ」


 そう言ってうつむくシオンさんを、私はただ見つめていました。


 ──シオンさんとお別れしてから、三日間。

 私は一日一通、居住区のシオンさんの家に宛てて、手紙を送り続けました。

 こうして会いに来てくれるという確証は無かったけれど、ちゃんと届いて手に取ってもらえていて良かった。


「では手紙は一通も読まずに食べたんですね。グレイさんとかミニョルさんとか、誰かにポストを開けてもらって代読してもらう、という方法もあるのかなと思ってましたが」

「……俺が、あなたからの手紙を誰の目にも触れさせたくないってことぐらい、分かってるくせに」


 出会ったばかりの頃、むしゃむしゃ食べられてしまった少し恥ずかしい手紙のことを思い出して、怖い顔をしてるシオンさんには悪いけどくすりと笑ってしまいました。

 あの時もシオンさん、死んでしまいそうなくらい後悔してましたね。懐かしいです。


「…………何が書いてあったんですか。それだけ聞いてから出発しようと思って来ました。この街に未練は残したくないので」


 突き放すような冷たい眼差しに少し気圧されつつ、私は頷きます。

 そう、シオンさんならきっとそうしてくれると思いました。だから毎日手紙を送り続けた。でも、


「何も書いてません」


 大きく目を見開くシオンさんに、私は情けなく苦笑します。


「便箋は入れたけどいつも白紙でした。書けなかったんです、何も。あなたに伝えたいことは書き切れないほどあるはずなのに、いざペンを手に取ると何も浮かばなかった。だけど、」


 困惑するシオンさんをまっすぐ見据えて、私はきつく肩に食い込む震える指に、そっと触れながら呟きます。


「今あなたの顔を見て分かりました。伝えたいことなんてたった一つしかなかった」


 ぼやけた視界の中で、シオンさんは私の頬を伝うものを愕然とした瞳で見つめていました。

 だけどぬぐうことも忘れて、喉が震えて何も言えなくなる前にこれだけは言わなければと、私は声を振り絞って最後の言葉を伝えます。

 母も父も、結局言えないまま旅立ってしまったけれど。でもこの人にだけは──


「もう二度と会えないのだとしても、あなたがいつか私を忘れるのだとしても。…………心から愛してたって、それだけは、ちゃんと……」


 言葉がかき消えたのは涙のせいだけじゃなく、強く抱きしめられて胸に顔を押しつけたせいでした。

 ひっく、と嗚咽を堪えながら困惑していると、少し苛立ったような声が耳元で響きます。


「……なんで、そんな簡単に泣くんだよ、あんなに泣けないって困ってたじゃないか。この前だってお母さんのことを想って雨に紛れてようやく泣けたぐらいなのに、なんで俺なんかのためにそんなめいっぱい、子供みたいに泣くんだ……!」


 恨みがましい言い方とは反対に、大事なものを確かめるように優しく頭を撫でてくれる手に、もっとぼろぼろ涙がこぼれて、シオンさんの胸に染みこんではまた溢れてきます。

 胸の傷まで染みていきそうなのが嫌で慌てて止めようと頑張るのですが、さっぱり上手くいかず私は嗚咽をひどくして困惑しました。

 本当に子供みたいです、ずっと誰の前でも必死に守ってきた強がりが、あっけなくボロボロ崩れていくのを感じます。


「……俺はあなたに、幸せになって欲しかったんです。それがたとえ俺の隣じゃないとしても……」


 言ってシオンさんは私から身を離すと、一歩、二歩と後ずさりしました。

 そうするとすぐさま生えてきた獣の耳と角を、私は涙を堪えてじっと見据えます。

 後悔するように震えた痛切な声を痛ましくは思いつつ、でも私はそれには同意しかねて思うことを告げます。


「あなたと一緒に幸せになれないのなら、私は一生不幸なままでいいです」


 きっぱりそう言うと、彼は打ちのめされたみたいな顔をして、ぐっと唇を噛んで目を伏せました。

 それからたっぷりと時間をかけて苦悩した末に、罪を告白するかのような面持ちで口を開きます。


「好きです、トールさん。何よりもあなたが。…………だから、」


 シオンさんはそこで言葉を飲み込み、永遠のように重くためらってから──


「…………俺を選んで」


 降伏するようにうつむいて、喉の奥から絞り出すように、その一言を告げました。


 ずいぶんと一世一代の苦渋の選択感がある言い方には大変申し訳ないですが、そのお願いに対する私の答えは遙か昔に決定済みです。

 だから今さら答えるのも煩わしく、私は待ち構えていたように彼のそばに歩み寄ると、角も耳も消えた泣きそうな顔にふっと笑いかけ、めいっぱい背伸びをしてキスをしました。



 * * *









 ぱちり、と目を開けた瞬間、すぐ近くで透き通るような空色の瞳と目が合って、まどろみながら薄く微笑みます。


「おはようございます。すみません、勝手に眠ってしまって……」

「ああ、いえ。……」


 少しよそよそしくそわそわした空気が漂い、つい数時間前にここで二人でしたことを思い出して、私とシオンさんは無言で顔を赤くしました。

 うーん、ここは年上らしくスマートに振る舞いたかったのですがふつうに無理ですね……


 だけどふいに早朝の冷たい空気が肌を撫でて、くしゅん、とくしゃみをこぼすと、シオンさんはハッとした様子ではだけていた毛布を肩まで引き上げてくれました。あったかい。

 もぞもぞと丸まっていると、こつん、とシーツの上で冷えた足の指が触れ合って、なんだかおかしくてくすくす笑ってしまいます。


「……なんですか?」

「いえ。昨日はもう二度と会えないと思ってたのに、今こんなに近くでくっついてるなんて不思議だなぁと思って」


 肌に触れる空気は冬を感じさせるそれなのに、二人でくるまる一枚の毛布の中だけはそんな季節を笑い飛ばすように温かで、それはとても幸せなことのように思えました。

 ずっと二人の上にあった張りぼての虚勢を、ぱくりと食べてしまったように、お互いの間にあった少しの背伸びや遠慮が溶けてなくなったのを感じて、それだけのことがとてもうれしいのです。


 面白くなってついすりすりと指先で足の甲をくすぐるように遊んでいると、シオンさんはくすぐったそうに眉根を寄せて、私の目尻に手を伸ばしそっと指でなぞります。

 ああ、そういえば夜の間ずっと泣いていたので、ちょっと目元が腫れぼったい気がしますね。


「ひどい顔してます?」

「いや……泣きながら『やめないで』って言ってるのすごい可愛かったなって思って……」


 笑ってたら真面目な顔でとんでもないことを言われてピタッと時が止まりました。はい???


「い……言ってたんですかそんな恥ずかしいこと数時間前の私?? ひどい、はしたなすぎる、気持ちよくなると名前を連呼しながら耳を甘噛みしてくる癖があったシオンさんよりもはしたなさすぎる……!」

「ちょっと待って下さい何してんですか数時間前の俺!!??」


 二人でわーわーと騒いでいると、狭いベッドですのでころんと落っこちそうになって、慌てたシオンさんに引き寄せられて事なきを得ました。何回死ぬんでしょう私の年上の威厳……。


「……あの、本当にこれでよかったんですか? トールさん。後でやっぱり嫌だって言われても、もう俺は離してあげられないかもしれないですけど……」


 などと自信なさげに言われたもので、さすがに私もムカッとしまして、じとりと半目で睨みつつ口を尖らせて呟きます。


「……シオンさんは、あとで気が変わるかもって思いながら、私をこんな風にしたんですか?」


 こんな、と左手を少し持ち上げて差し出すと、シオンさんはうっと目を細めて、同じく自分の左手を見下ろして口を引き結びました。

 私とシオンさんの左の手首にくるりと、おそろいで浮かび上がっている細長く赤いライン

 葡萄の蔓のようにも見える、痣のようなそれは、神山羊にとっての番つがいの印なのだとシオンさんは教えてくれました。

 身も心も許しあった唯一の相手にしか現れないとか言ってましたが、まあ神獣さんのことですので、仕組みはよく分かりませんが。


「……いえ、いいんです、まだ十八歳ですし、その場の勢いとか雰囲気とかに押されてついつい盛り上がっちゃったとしても別に……」

「あ! 違う! 違いますよトールさん、番を選ぶって言うのは俺たちの種族にとっては人生で一番の大事なので!! ちゃんと考えてます、大好きだからそうしました、一生命に代えても守り通しますし絶対幸せにしてみせます!」


 なんかプロポーズみたいなことを言われて無駄に赤面する羽目になりました。肌寒さはどこにいったんでしょうか。


「……えーと、とにかく、私もきちんと腹は括ってますので。ていうか覚悟もないのにあんな恥ずかしいことできないですよ、その、一応初めてでしたし……」

「あ、はい、可愛かったです」

「余計なことは言わないでよろしい」


 赤面の彩度記録を更新しつつ、私は「さて」と同じ印の浮かぶ手を握り、挑むように彼の目を見据えて告げます。


「そろそろ出発しないと本当に間に合わないんでしょう? ずっとこうして微睡んでいたいですけど、それは帰ってきてからにしましょう」


 ね、と笑うと、シオンさんはものすごーーく嫌そうな顔をしてうろんな目で私を見て、呻くように言いました。


「…………トールさん。まさかとは思いますけど、霊峰に」

「一緒に行きます」

「言うと思った……」


 シーツに頬を押し当てて絶望するシオンさんに、私はふんと鼻を鳴らして意気込みます。


「霊峰って寒いんですかね? 村から持ってきた荷物に防寒具が詰まってますので装備していきます。あと日持ちする食糧も持って行かなくては。神山羊さんって菓子折を渡す風習とかあります? 人間と同じようにやっちゃって大丈夫ですかね?」

「あーーやる気満々だぁ可愛いけど……! 駄目ですよトールさん、霊峰は歩く道も無い非常に険しい山ですから人間が登るには危険なんです! それに同胞以外が立ち入ることを神山羊は良しとしません、どうにかニグレドをねじ伏せて帰ってくるつもりなので大人しく待ってて下さい!」

「シオンさん。私はシオンさんの何ですか?」

「…………。つがいです……」

「では半分同胞ということですよね。何も問題ありません、ただご家族にご挨拶に伺うだけです。これは人間の社会では欠くことの出来ない礼儀ですので止めても無駄です」

「いや……家族って言ってもほぼ絶縁状態だし……」

「シオンさんは、もう天国にいる私のお父さんとお母さんには挨拶してくれないんですか?」

「! いえ、したいです! 今すぐにでもお墓の前でいろいろお話したいくらいだし、」

「では今この世にいるシオンさんのご家族に私が挨拶することにも何も問題はないですよね。行きましょう」

「…………アルフレッド君のお姉さんだ…………」


 いやそれは逆でしょう、と思うのですが、まあ切れ者なアルと名を連ねられたのなら名誉でしょう。誇っておきましょう。


「それにしても本当に猶予のギリギリまで待ってしまいましたから、王都に帰るのは誕生日を終えてからになりそうですね……ちょっと残念ですけど、少し遅めのお祝いをさせて下さいね」

「え? ああ、ありがとうございます……誕生日が命日にならないように一生懸命頑張ります」

「一生懸命頑張らないと命日になるんですか!?」


 に、ニグレドさんのシオンさんへのご用事って一体何なんでしょう……? 後で詳しく聞かせてもらわなくては。

 私はそこで「ああ、でも」と丸まったまま少し身を寄せ、シオンさんの剥き出しの肌に刻まれた胸の傷におでこをくっつけて目を細めます。


「ドレスをゆっくり選ぶ時間は、ちょっと厳しいかもしれないですね……」

「ドレス? なんでですか?」


 内緒にしておこうかとも思いましたが今さらですねと苦笑し、私はささやかな計画を明かします。


「ミーナちゃんがね、シオンさんの誕生日のために青いドレスを新調しようって提案してくれたんです……。帰ってきたらすぐに買いに行かないと」


 照れくさくて笑った私をじっと見つめて、シオンさんは首を傾げます。


「はあ、きっとすごく綺麗だと思うし俺も楽しみですけど……でも、どうして青なんですか?」


 その一言にはさすがに絶句してしまい、私は呆れながらすいっと顔を寄せて、自分の紫の瞳に彼の瞳を映してちょっと怒りました。


「……シオンさん。いろんなことが片付いて帰ってきたら、これからはもう少し、じっくり鏡を見てみて下さいね」

「…………はあ?」


 全然分かってなさそうに頷いて、シオンさんはその鮮やかな晴れた空色の瞳を、きょとんと丸くするのでした。

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