第62話 おとぎ話のエピローグ
どんなに悲しいことがあったとしても朝は必ず訪れて、世界は自分を置いても立ち止まらず進んでいく。そのことを私が理解させられたのは、お母さんが亡くなった次の日だったでしょうか。
だからいつもと同じ時間に起きて身支度を終え、朝食の皿を並べ終えて息を吐くと。
私はよたよたとリビングに顔を出してきたルームメイトを振り返り、少し吹き出して言いました。
「おはようございますミーナちゃん、朝ごはんできてますよ。ちょっと待って下さいね、かなりレベルの高い寝癖が……」
「…………おはよ、トールちゃん」
寝起きのミーナちゃんは元気なく呟き、私が前髪をあの手この手でいじくるのをされるがままに見つめて眉根を寄せます。
浮かないその顔に「大丈夫、直りましたよ」と笑いかけると、彼女は静かに首を横に振り、少し怒ったような声で述べました。
「ねえトールちゃん、やっぱり一日だけでも休んだら? 今日ぐらいきっと誰も怒ったりしないよ……」
「恋人に振られたからですか? そんなことで仕事を休んでいたら社会も調停事務所も回りませんよ。所長にねちねち文句言われるのも癪ですし行ってきます。それにほら、じっとしてるよりは何かしていた方がマシですし」
「…………そっか、うん。でもさ、……泣きたい時は、ちゃんと泣いた方がいいと思うよ」
昨日の夜、暗い顔をして帰ってきた私の話を真剣に聞いて、私の代わりに怒って泣いてくれたミーナちゃんの優しさを思い出し、ありがたさに目を細めながら首を横に振ります。
お母さんが死んでも、お父さんが死んでも、婚約者に裏切られても、大好きな先輩がいなくなってしまっても、何だかんだどうにかやってこられたんですから。
今回だってきっと、そんなに心配しなくても大丈夫なはずです。
最後に泣いたのは意外と最近のことだったはずですが、あの時あたたかな腕の中でぽろぽろと簡単に流れたはずの涙は、なぜだか一晩経っても少しもこぼれてはきませんでした。
* * *
靴裏がサクリ、と通りを覆う葉を踏み潰して音を立てた瞬間、勝手に並んで歩いた日の記憶が蘇って目を見開きます。
『──あの、子供っぽいなって幻滅しました?』
「…………」
それから苦笑しました。私はこれからしばらくこうやって、この街に残ったあの人の欠片を思い出しては、いちいち心臓を止めるつもりなんでしょうか。うんざりです、未練がましいにもほどがあります。
だから葉を踏まないようにしてうつむいて歩いていると、ふと事務所の入った建物の手前で、鮮やかな赤い靴が目に飛び込み顔を上げます。
「あ……」
「よっ、トール。祭りぶりか?久しぶりじゃの」
軽く手を挙げて、彼女は──
不死鳥の獣人、居住区長のフレイヤさんは、目深に被った帽子をくいっと上げて、燃えるような青い瞳を細めて笑って見せました。
「区長さん! どうして東区に!?」
「これこれ、大きな声を出すでない。あの所長に見つかったらしち面倒なことになるでの、ちぃーっと伝達があったから来ただけゆえ。あとそなたの顔を見にな」
いまだ驚いたままの私の目元に手をあて、指先でそっと目尻を撫でながら、区長さんは苦笑します。
「おぬしもあやつに負けず劣らず馬鹿よのう。せっかく人間は、涙で悲しみを流してしまえる生き物だというのに」
何も言えない私をまっすぐに見据え、区長さんは明瞭な声で告げました。
「シオンはまだ居住区におるよ。今のところ、じゃけど」
見開かれた私の目を慈しむように眺めながら、彼女は少し申し訳なさそうに切り出します。
「あやつがな、しばらくそなたと会わないでいたのはな、単純に忙しかったからなのじゃ。妾を許しておくれ。……あれだけ熱心に説かれた吸血鬼の禁種指定解除に、なかなか首を縦に振ってやれんかった妾のせいで、そなた達を引き離す結果になってしまった」
す、と私の頬から手を離し、懺悔するような声音で続く区長さんの言葉に、私はただ呆然と耳を傾けます。
「あやつはな、ずっと言うておったよ、『自分はどうなるか分からないから、せめてここにいられる間に、エミリア先輩が帰ってこられる居住区を作ってあげたい』、と……。分かるなトール。全部そなたのためじゃよ」
「……………………」
そんなこと、一言も。
絶句する私を痛ましく見つめて、彼女はぽつりと呟きました。
「この妾が根負けするぐらいに、『人と獣人との当たり障り無い関係性の保持』なんてくだらぬ理想のために吸血鬼を排斥したような妾の心を動かすぐらいに、あの馬鹿山羊は必死じゃった……手前の呪いのことなどそっちのけでな」
くっく、と自嘲気味に笑い、区長さんは遠く居住区の壁を見やります。
「尻に殻付けたままみたいなひよっ子のクソガキが、ことトールの話になると急に男の顔をして一丁前のことを言い出す……それを揶揄って遊ぶ妾の愉しみが無くなるのは、まあ、それなりに寂しいからの」
言って一度目を伏せると、彼女は「じゃから!」といつものように明るく自信たっぷりに踏ん反り返り、ぴっと指を立てました。
「あの呪いがどうにかならぬか、妾も神獣会議の面々も手段を選ばず奔走しておるところじゃ! 霊峰に帰るあやつの意志はムカつくほど固いようじゃけど、どうにか退去手続きにかこつけてあと数日は踏みとどめておるからして、そなたもどうか希望を捨てないでほしい。愚かな妾からのお願いじゃよ。……だからなあ、トール」
区長さんはそこで困ったように笑って……私をじっと見て、あやすような優しい声で言いました。
「そんな顔をせんでおくれ。そなたの笑った顔が一等好きなんじゃよ。妾も、シオンもな」
私は最後まで何も返せず、去っていく真っ赤な後ろ姿を立ち尽くして見送るだけでした。
事務所への階段をとぼとぼと登っていると、後ろから元気よく声をかけられて目を瞬きます。
「やあトールちゃん! さっきそこで話してた赤い女の子って居住区長? すごいな~トールちゃんは大物相手でも堂々としてて。僕はこの前の神獣君の調停だけでヘトヘトに疲れちゃったからなあ~」
ああ、スロウさん。
……一昨日の夜は、なんだか変な空気にさせてしまって申し訳なかったですね。スロウさんはお祭りの頃には事務所にいなかったのでシオンさんのことも知らないし、私と彼の関係も話していなかったので、さっぱり意味が分からなかったでしょう。ちょっと申し訳なく思います。
「いえ、そんなことは。それにシオンさん、ただ静かに本を読まれるだけだったでしょう?」
「え? いや、全然。すっごい質問攻めされて大変だったよ!」
きょとんとするスロウさんに、私も目を丸くします。質問攻め?
「シオン君てさ、
にこにこと笑って言うスロウさんの言葉に、さすがに何も言えず、思考が止まりました。
ただ思い返すのは、二人で教会の鐘の音を聴いた日のこと。初めて見る真っ白な花嫁衣装を不思議そうに眺めていた横顔が鮮明に浮かんで、私は困惑します。
……結婚式。プロポーズ。シオンさんが?
「よく分かんないけどさ、あんな風に一生懸命に好かれたら相手の女の子も幸せだろうね。羨ましいなあ、野郎だけど」
「……あんな風って?」
未だ動揺を抑えられないままどうにか尋ねた私に、スロウさんは少し遠い目をして、語り聴かせるような穏やかな調子で口を開きました。
「自分のことはどうでもいいけど、相手の女の子が人生で一番綺麗な格好して、大好きな人たちに囲まれてみんなにおめでとーって祝福されながら笑ってるとこを、ただ一番近くで見てたいんだって。…………そんなささやかなことをさあ、絶対叶わない大それた夢みたいに言うんだもん。なんか応援したくなっちゃうよねぇ」
うんうんと頷きながら、スロウさんは祈るように笑います。
「上手くいったのかなあ。上手くいってたらいいなあ」
私が何も言わないのを不思議そうにしながら、彼は「遅刻だよ。僕たち二人とも所長にどやされちゃう」と肩をすくめ、石のように固まって動けない私の背中を、どうにか蹴飛ばしてくれたのでした。
* * *
それなりにどうにか仕事をこなして事務所を出ると、通りに面した出入り口の脇で、少し見慣れてきた眼鏡の奥の深緑の瞳と目が合いました。
「あ」
「一昨日はどうも。……様子が気になったので、どうしているかと思って。何か失礼があったのなら、弟の方のホープスキンに示しがつかないし」
随分とここで待っていてくれたのでしょうか。寒空の下、少し赤くなったエドガー教授の鼻を見上げて、申し訳なくて眉を下げて笑います。
なんだか今日はいろんな人にばったり会う日ですね、と思いつつ、私は目を伏せて首を横に振りました。
「……いえ。教授は何も。あの時、二人きりじゃなかったって説明して気を遣ってくださいましたよね? ありがとうございました」
「いや……君の彼を見る目が、あまりにも痛切だったからつい。その後は何事もなく?」
「昨日振られました」
「………………」
教授は感情のあまり見えない仏頂面のまま目を数回瞬いて、それから、口元を押さえて呻くようにうなだれました。
「……すまない……僕があらぬ誤解を招いたせいで……」
「あ! 違いますよ全然、教授のせいじゃないのでお気になさらず! ……えーと、そんな感じで私さすがにちょっと気落ちしてまして……たまごサンド返済の件は気力が戻ってからでも構いませんか?」
「ああ、そんなことはもちろんいつでも構わない。……でもそうか、分からないものだな」
「? 何がです?」
教授はふいに空を見上げ、残念そうに目を細めます。
奇しくも私も同じような表情をしていました。
今日は随分と曇っているから、空はあの人の瞳と同じ透き通るような青色を、少しも見せてはくれなかったので。
「……あの白い少年の、君を見る目は……代えがたく何よりも大切なものを見るそれだったから。自分から別れを切り出すなんて、きっと相当にままならない事情があったんだろうな」
教授の言葉に、私は何も言わず、少しだけ目を細めました。
……誰が何と言おうとも、私や彼が本当は何を願っていようとも、これがハッピーエンドでしょう。
シオンさんが生きるためにはこの街を去らなければならなくて、私と別れることでそれが叶うのであれば、これ以上の選択はありえません。
これで良かったんです。……そう思わなければ、前に進めないでしょう。
呪われた神様が人の住む街にやって来て、人間と恋に落ち、最後には呪いを解くために元の世界へと帰る。
……そんなよくあるおとぎ話が、たまたま自分の身に起こっただけなのだと、いつか笑える日も来るはずです。
「では、私はこれで。わざわざ足を運ばせてしまってすみませんでした」
ぺこりと一礼して歩き出すと、ふいに額に触れた冷たさに片目を閉じます。
「……あ、」
ああ、雨。
曇り空でしたものね、とぼんやり思い、気にせずに進もうとすると。
ふいに腕を引かれ、私は目を瞬いて振り返りました。
「駄目だ。雨に濡れてはいけない」
優しくそう言ってくれた教授の言葉に、私は目を見開いて立ち尽くします。
「少し屋根の下で待っていてくれ、傘を買ってくるから……」
雨よけの下に置かれた私を避けて、本格的に降り出した雨が街の地面をしとしとと濡らし始めていました。
今頃同じ雨が、私の故郷の葡萄畑にも恵みを与えているのでしょうか。
同じ雨が、あの人の小さな庭の花を濡らしているのでしょうか。
世界に雨の音と雨の匂いが溢れているのに、自分の体がすこしも濡れないことに、呆然とします。
そうして思い起こすのは、最後に泣いた日の光景。
『トールさん、見てください』
ああそうです、あの人は傘も差さず、冷たい雨を避けもせず、ただただうれしそうに空に向かっていっぱいに手を広げて、まっすぐに私を見て────
『雨です!』
そう教えて、無邪気に笑ってくれたのに。
私はそっと教授の手を振り払い、雨避けから一歩出て空の下に立ちます。
あっという間に髪や肩を濡らしていく雨を不快には思わないことに安堵して、静かに目を閉じました。
そうしているといつの間にか、頬を雨よりもあたたかな雫が伝い、ぽたぽたと地面に落ちていきます。
珍しく目を丸くして驚いていた教授は、相変わらず抑揚の無い声で不思議そうに問いました。
「……なぜ泣いている?」
「…………嫌だから」
正直私にも分からなかったのですが、涙と同じようにぽろっとこぼれた言葉に、ああそうだったんですねと我がことながら苦笑します。
結局どんなに大人ぶって取り繕っても、本当は。
「……このままじゃ、嫌だから」
私は顔を上げると、雨の中で目を開けて、きっと今同じように空を見ているだろう人のことを想います。
おとぎ話が少し悲しいハッピーエンドで終わったとしても、現実は止まらずに続くのです。
会うのはこれで最後にしましょうと言われましたが、それ以外のことならば、まだできることはあるのですから。
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