第59話 失敗する交渉と、黄色い契約

 赤い革の手帳を開き、来週の日付を囲む丸い印と、その中に並ぶ文字を見下ろして、私は長く息を吐きました。

 私の字で『シオンさんの誕生日!』と書かれた下に、綺麗な筆跡で記された『俺の誕生日』の文字を見つめると、胸がきゅっと苦しくなってしまい眉根を寄せます。

 これを書き合って微笑んだ日はついこの前のはずなのに、なんだか夢だったようにすら思えてきます。

 それが怖くて否定するために、私はこうして1日に何度も手帳をめくる不毛な日々を過ごしているのです。


 ……シオンさん、そろそろ落ち着いた頃なんでしょうか。しばらく本も読めていないでしょうし禁断症状とか出てないといいですが……。

 近いようで遠い獣人さんの街に住む恋人のことを想い、私はうつむきます。

 所長のデスクの電話が鳴る度にそわそわしてしまうのもさすがにやるせなくなってきました。

 ていうか限界です。このままだと私、シオンさん不足を犯行動機に居住区の壁を乗り越えて不法侵入を果たし、国家的大犯罪者になるのもやぶさかではありません……!


 などとわなわな震えていたら、乗合馬車は「王立学院前」の立て札の前でゆるやかに停車し、私は慌てて賃金を払うと足早に降車します。

 今日は事務所の鍵当番で早めに勤務を上がれましたので、帰宅前に少し寄り道してアルフレッドのところに顔を出しに来ていました。

 先日の差し入れで渡したバスケットを返却したいと言われていたのですが、アルは学業と研究が死ぬほど忙しく、寮の門限も厳しいようなので、わざわざ出向いてもらうのは可哀想な状況だったのです。

 ……まあ、それは口実で、本当は気持ち的に滅入っている私が、可愛い弟の顔を見て癒やされたかっただけなのですが。


 歩きながら手帳を収めようと鞄に手を入れて、ふと触れた物の存在にうっと顔をしかめます。

 ……肌身離さず大事にしている手帳に加えて、最近、もう一つ常に持ち歩いている物があります。

 小さな木箱に入れて、綿を敷き詰め厳重に保管しているそれ──先日の夜、物盗りから助けてくださった男性が放置していった物。

 割れて破損した眼鏡のことを思い、私ははあ……とシオンさんのことに次ぐ重さのため息を吐くのでした。


 偶然街中でお会いできた時に返却できるようにしていますが、返済額のことを思うと頭が痛いのです。

 というか眼鏡が必要と言うことは相当視力が悪いはず、あの後無事に夜道を歩けたのでしょうか?心配でなりません。

 無事だとしてもぼやけた視界では生活は困難なものになるでしょう、眼鏡は精密な物で、新調するのも時間がかかると聞きますし……。


 悶々としながら手続きを済ませ、さすがに迷うことなく生命医学研究棟へとスムーズに辿り着くと、私は階段を上りアルフレッドを探してとぼとぼ廊下を進みました。

 と、一室から聞き慣れた弟の声が聞こえ、ドアの前で足を止めます。

 研究室ではなく『教授室』と表札が打たれてましたので少し気後れはしましたが、コンコンとノックをし、おそるおそる囁きました。


「失礼します。アルフレッド・ホープスキンの姉ですが……」

「姉さん!?」


 すぐに内側から帰ってきた返事と、急いでドアを開けて迎えてくれたアルフレッドのうれしそうな顔にほっとして、私は笑い返します。うーん、弟に慰められるなんてダメな姉ですねまったく。


「突然ごめんね。用事が終わってからでいいのだけど、バスケットを受け取ろうと思って」

「わあ、仕事帰りにありがとう。助かるよ。僕も疲れてたから姉さんの顔が見れてうれしいなぁ。今すぐ取りに……っと、すみません教授、少し退席してもよろしいですか?」

「別に構わない。その間に君のレポートを読んで添削しておく、戻ってから指導を始めよう」

「うわー全然戻って来たくないなー……」


 うへえと口の端を下げて嫌そうにするアルフレッドに目を瞬き、私はふと眉根を寄せます。

 ……ん、今部屋の奥から聞こえた声、『教授室』にいてアルが『教授』と呼んでいるのですから誰かは推して知るべしなんですけど。

 それにしてもこの特徴的なほど全く抑揚の無い淡々とした全てに無頓着そうな声には、ちょっと聞き覚えが……


 私は僭越ながらひょいっとアルの肩を掴んで横に避け、室内を覗き込みます。

 そして見たのです、本棚に囲まれた室内の最奥、立派なデスクに腰かけて紙の束に無表情で目を通している紺色の髪の男性、眼鏡のガラスの向こうで細められる深緑色の瞳を。


「あ……! あなたは先日物盗りから助けてくれた親切な人!」

「え? 教授、姉さんのこと知ってるんですか?」


 くわっと目を見開く私にアルがきょとんとして首を傾げると、


「いや、初めて見る顔だが」


 教授と呼ばれたその人は、全くもって淡々とバッサリ切り捨てるのでした。いやいや。

 ……ん、ああそうですよね、あの時暗くて眼鏡も飛んでしまっていたから、私の顔なんてよく見えなかったに決まってますよね。失礼をしました。


「いえそれは当てになりませんよ、教授は女性の顔なんてさっぱり覚えられないんだから」


 が、呆れ気味に述べたアルの言葉に前言撤回します。

 ていうか顔覚えてなくても物盗りに云々で分かるじゃないですか、鼻血まで出したのに無頓着すぎませんか??

 私は気を取り直して会釈してから入室し、教授さんの前に歩み出ると、鞄から壊れた眼鏡を取り出してそっと差し出しました。


「あの、先日はありがとうございました。こちらを路上にお忘れに……」

「ああ」


 教授さんはそこで初めて紙の束から視線を上げて私の顔をまじまじと見て、ようやく思い出したようで小さく頷きました。


「葡萄色の目が同じだと思ったんだ。こうして見ると顔もよく似てる」


 ああそう言えば、別れ際に私の姓を聞いただけで「また会える」と言っていたのは、アルフレッドのことを知っていたからなんですね。『ホープスキン』は王都では耳にしない珍しい姓らしく、私たちの村独特のものなのだそうです。姉が王都で調停師をしていることも耳にしていたんでしょうね。

 教授さんはそんな評論の後に、ちらりとひしゃげた眼鏡を見て、すぐに興味なさげに再びレポートの紙へと視線を戻しました。


「もういらない。スペアを用意していたから問題ない」


 う。


「……、で、ではそちらの購入費と同額を支払わせて下さい。私を庇って壊してしまったんですから、そこはきちんと清算しなければ」

「いらない。研究費と関係ない所での購入額なんていちいち控えてない」

「教授基本的に紙はメモ用紙にしちゃいますもんね、領収書も計算式で塗りつぶされちゃってますよきっと」


 あれだけの会話でさっさと流れを理解したのでしょう、アルは私の隣に立つと「ていうか物盗りって何? ちゃんと言ってよそういうことは! 家族でしょ」と頬を膨らませました。

「ごめんね」と口では言いつつ、この姉の脳内は「あー可愛いなー」ぐらいしか思ってませんでしたが。


「では治療費を……」

「いらない。自分で診れるしあの程度の打撲は氷水で冷やすぐらいしかすることないから何の費用も掛かってない。ああそうだ、」


 教授さんは引き出しを三段、続けざまに開けると、強盗みたいな乱雑さで中身を散らしながら何かを探し、やがて上品な包みを一つ見つけ出すと机の上に放り投げました。


「…………ええと、」

「薄水色のハンカチ。同じ刺繍の物を探したが見つからなかったので似たもので、気に入るかは分からないけど。血でダメにしてしまって悪かった」

「……あ、ありがとうございます……」

「えーっ、そのハンカチをあげたい女性って姉さんのことだったんですか!? 教授が婦人用雑貨売り場なんかに行きたがるから何事かと医学部中色めきだってたのに! しかも暴漢にあっさり殴られて鼻血とかちょっとダサいですよ教授!」

「アルフレッド推理力高すぎない??」


 ちょっとの情報で正確に事件の詳細まで分かっちゃう弟にちょっと驚きつつ、ついうっかり受け取ってしまった包装にハッと目を見開きます。

 いや、この包みの柄、王都でも名のある老舗百貨店のデザインでは!?

 なんということでしょう、お礼をするつもりが逆に経済的負担を強いてしまうとは!

 私は申し訳なさのあまり深く頭を下げ、その勢いでデスクにごんと額をぶつけました。痛いですが構ってはいられません。


「お、お願いしますからせめて慰謝料をッ……!」

「ホープスキン、僕が悪いことをしてるように思えるのは気のせいか?」

「んー、それは気のせいなんですけど、姉の性格的に何もお礼をしないで済ませることは難しいんです教授。少額でいいですから受け取ってもらえません?」

「いやしかし、ただ個人的に悪漢を見過ごせなかっただけだ。金銭を受け取ることでは…………ん、いや待て。バスケットを取りに来たとさっき言ったな」


 私がずるずると机からずり落ちて額を押さえつつしゃがみこんでいると、教授さんは椅子から立ち上がり、私の前まで回り込んで膝を折ると、ぴっと指を立てて言いました。


「たまごサンドの人か」

「はい?」

「蜂蜜とマスタードが入ったやつ。美味かった」


 ぽかんとして顔を上げると、すぐ近くで私を見ていた教授さんは、ふっと柔らかく微笑みました。

 ……この人こんな普通に笑えるんですねと、ちょっと目を見張ります。

 でもアルも驚いていたので、いやそんな珍しい表情をこんなことで……とちょっと呆れましたが。そう言えば「教授にも食べさせてあげようっと」とか言ってましたね。


「はあ、お口に合ったのでしたらなによりで……」

「金はいらない。アレを作ってまた持ってきてくれ」

「……はあ?」

「僕はこういうものです。いくら払っても食べたいと思っていたところだから僥倖だった。どうぞこれからご贔屓に」

「私はサンドイッチ屋ではないんですけど……」


 スッと名刺まで出されて、半目でうなだれます。営業ですか。

 ……王立学院生命医学部教授、附属王立病院外科医師、エドガー・ノワゼット。

 仰々しい肩書きの並びにちょっと引いていると、アルが口元を押さえて目を潤ませつつ素っ頓狂なことを叫びました。


「え、エドガー教授が食に関心を示してる……!! 初めて見たっ、すごいや姉さん、教授の餌付けに成功した人類最初の例だっ!!」

「いや恩師をそんな珍獣みたいな……ていうかえー、眼鏡の購入費と治療費と慰謝料分のたまごサンドって、パン何斤分つくればいいんでしょう……?」

「ふむ興味深いテーマだ、算出してみよう。ホープスキン、まずは現在の卵とパンの平均市場流通額を調査してくれ」

「あれ、なんか変なスイッチを押してしまった予感???」


 なんかよく分かりませんがそんなわけで、私の眼鏡代返済憂慮はひとまず解消されたのでした。算出したパンの枚数的にだいぶ長いことここに通うことになりそうなのが気がかりですが……。




 エドガー教授はその後会議があるとかで挨拶もそこそこに立ち去られ、私はアルからバスケットを受け取ると名残惜しく別れを切り出しました。


「じゃあねアル、今日は会えてうれしかった」

「うん、僕も。……ねえ姉さん、何かあった? シオンさんと」


 ずっと表情は曇らせずにいられたつもりなのですが、あっさりと見抜かれていたことに苦笑します。

 ……やっぱり姉弟ですね、何でもお見通しというのは、困ってしまいますが嬉しいものです。


「……うん、ちょっと。でもね、あの人のことだからきっと大丈夫だと思うの。少し元気が出たから、もう少し信じて待ってみるね」

「……そう。話ならいつでも聞くからさ。ああそうだ、今度の週末は時間ある? 教授が僕の入学祝いに食事をごちそうしてくれる予定なんだけど、良ければ姉さんも一緒に行かない? ロゼ・フォルテっていうなかなか予約の取れない有名店みたいなんだ。美味しいものでも食べて少し気を紛らわしなよ」

「え? でも、良いんでしょうか、部外者が混ざって……」

「姉さんはもう部外者じゃないでしょ。それにたまごサンド提供者の頼みなら教授も断らないさ。僕から話しておくから予定空けておいてね、お祝いなら一番大切な人が一緒の方が、僕もうれしいから!」

「……うん。ありがとう、アルフレッド」


 へへっと笑う弟に笑い返して手を振って、私はちょっとだけ弱気になりそうな自分を鼓舞するように、前を見て歩き出すのでした。

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