第58話 会えない夜と、ガラスの靴

 黒い神山羊さんと出会った夜以降、シオンさんからの調停依頼はぱったりと途絶えました。

 そういえば前にもこんなことがありましたね、あれはまだ彼の獣の姿を知らなかった私が、失礼にも手紙を渡したのがきっかけでした。あの頃はまだ、恋人になるだなんて想像もしていませんでしたが。

 なんだかずいぶんと懐かしくて、胸にはぽっかりと穴が開いたようなのに、ふと目を細めて笑ってしまいます。


「トール嬢。そろそろ退勤時間ですよ、お疲れ様でした」

「ああ、ありがとうございますグレイさん。すみません、最近ぼーっとしてしまって」

「いえ、……白ヤギ君なら、傷の方は問題なさそうですよ。貴女と同じような顔をしてますので、元気ですとは報告できないのが残念ですが」

「そうですか……様子が知れるだけでもありがたいです。私は変わりないですとお伝え下さい」


 笑って頭を下げると、声をかけてくれたグレイさんは物言いたげに目を細めながらも頷いてくれました。




 ニグレドさんの襲来から、3日。

 シオンさんからの依頼が途絶えると暇になるかと思った私でしたが、なんだかんだと小さな案件を任せていただいたりロキ君の補佐で調停に出向いたりと、そこそこに忙しく過ごしています。

 ありがたい話です、働いてでもいないと、余計なことを考えて塞ぎ込んでしまいそうですから。

 ……会えないのはつらいけれど、きっとシオンさんは良い解決法を見つけ出してくれる。今の私にはそう信じるしかできないのが現状です。


 しかし荷物をまとめて立ち上がり、所長とグレイさんに挨拶して事務所を上がろうとしていた私の耳に、突如飛び込んできたのはドガバーンという爆発みたいな音でした。

 何事でしょうと振り返れば、事務所のドアを開け放ち倒れ込むように帰ってきたところでした、死にかけのスロウさんが。


「ようスロウ、おかえりー」

「ただいま……いやちがうッ、ただいまとは温かなホームに帰る時に使うあいさつであってこんな地獄みたいな事務所で言う義理は無いッ!! ようやく終わったぞアホみたいな量の依頼が、さあ退勤ださらば諸君!」

「スロウ君、報告書溜まってますよね。今日までの期限のものも相当数ありますので書き終えてからおうちに帰ってくださいね。ハハ」


 床に倒れて動かなくなったスロウさんに一瞥もくれず所長とグレイさんは元の作業に戻りました。

 んー、労働条件は良くなったはずですがスロウさん、どうも大昔に所長に借金があったらしく……返済プランを考えると結局仕事はガンガン入れるしかないっぽいのです。可哀想ですが身から出た錆ですので……。

 とは思いつつ、事務所の床に広がっていく涙の水たまりを見るに堪えず、私は死体っぽいスロウさんの横にしゃがみ込んでそっと声をかけます。


「スロウさん、手伝いますよ。顔を上げて生きてください、職場を事故物件にしたくありません」

「と、トールちゃん……! まさに地獄に舞い降りた女神、どっかの上司と狼とは大違いだ!」

「よどみないクズだな」

「こういう時にユージン君がいてくれるとスパッと正論で叩きのめしてくれるんですけどね~、ホント北部でいちゃついてないでさっさと帰ってきてくれませんかねあの二人?」


 などと罵倒されつつ、結局グレイさんも半分ほどは手伝ってくださり、どうにか報告書作成は物理的に処理できそうな量まで進めることができました。


「よし、あとはこっちの山ですね?」

「うん……ああでもトールちゃん、もう帰って! 夜になっちゃうから。東区も裏の方は最近不審者が出てるって言うし危ないよ。付き合わせちゃってごめんね、本当にありがとう! あとは僕に任せて!」

「いや元々おめーの仕事だろうがよクズが」


 所長にバシッと叩かれているスロウさんに会釈しながら、私はお言葉に甘えてそそくさとお先に失礼することにしました。

 んー、スロウさんにはいつも無能な私の分も依頼をこなしてもらっていますからね。少しは力になれてたら良いのですが。



 事務所を出ると外は既にだいぶ薄暗く、私は小走りで帰路を急ぎます。

 つ、ついこの前も夜道で神獣さんに襲われるという痛い目を見たばかりなのに、また同じ轍を踏んでしまいました……ミーナちゃんに怒られそうです。急がないと。

 外の人気の少なさに不安が募って、振り切るように歩幅を大きくして進みます。比較的大きい通りを選んで歩いていますし、このまま突っ切ればきっと危険なことには──


 と思った直後、帽子を目深に被った一人の男性とすれ違った瞬間、ふと肩が軽くなって目を瞬きます。

 あ、鞄。


 その時私は、一瞬で価値と安全とを天秤にかけました。

 お財布には大金は入れていません。部屋の鍵はミーナちゃんに迷惑をかけてしまうけれど、すぐに作り替えれば取り返しは付く。

 ……だけど、あれだけは、


 私は咄嗟に振り返り、走り去ろうとしていた男性が今しがた盗んだばかりの私の鞄を、ガッと掴んで引っぱりました。

 男性は驚愕したように一瞬ひるみ、だけどすぐに舌打ちして乱暴に鞄ごと私を振り払います。私はあっけなく地面に崩れ、なおも必死で相手の脚を掴むと渾身の力で引き留めました。


「なっ……なんだしつこいなこの女! 離せ!」

「返して……返して下さい! 中に手帳が入ってるんです、せめてそれだけでも!」


 肌身離さず持ち歩いていた、赤い革の手帳。

 亡くなった母の形見であるということもそうですが、だけど今はそれ以上の意味を持って、あの手帳は私にとって何にも代えがたい物なのです。

 だってあの手帳は私だけのものじゃなくて、シオンさんの字で予定が書かれた────


 震えながらも歯を食いしばる私の姿は、物盗りにとっては盗んだ獲物の価値を証明するようなものにしか見えなかったのでしょう。

 相手がにやりと嫌らしく笑みを深めて一層強く鞄を握りしめ、脚にすがる私に向かい、反対の脚を振り上げたその瞬間。


 ゴン、という鈍い音を立てて何かが物盗りの頭部に直撃し、そのまま地面に倒れ伏しました。

 驚愕しつつ鞄を回収します。すっごい音しましたけど今…………。


 私は立ち上がって男から距離を取りながらその、跳んできた物体を恐る恐る視認します。

 夜道に転がった、大きな黒革の鞄。落下した衝撃で開いてしまった口は頑丈な口金式で、中には銀色の金属性器具が詰められているのが見えます。……あれは確か、お医者様が使う?


「失礼。手元が狂った、胴体に当てるつもりだったんだけど。頭部はまずいな、他は替えが効くけど頭部は良くない。脳や頸部に何か異常を感じないか?」


 抑揚の無い淡々とした声は、鞄が吹っ飛んできた方向──私の後方から聞こえました。

 振り返るより早く、その声の主はスタスタと私を通り過ぎ、半分目を回している物盗りの男性の前でぴたりと立ち止まります。

 随分と背の高い男の人でした。紺色の髪に真っ黒な外套を着込んでいるので、うっかりすると夜道にまぎれてしまいそうです。


「っ……てめぇふざけてんのか、頭取れたかと思ったわ、治療費払ってくれるんだろうな!」

「ああ、それは正当な要求だ。無論そうしよう。では名前と住所を控えさせてもらっても?」


 素で言ってるのか挑発しているのか分からないほど感情の無い言い方でしたけど、さすがにその発言は、確実に物盗りである男を逆上させるには十分なものだったでしょう。

 即座に立ち上がり物盗りが振り上げた拳を、その人は「全く予想していなかった」と言いたげな完全なる棒立ちで顔面にクリーンヒットさせられていました。や、やっぱり素で言ってたんですか……!!


「痛い」

「っ…………! だ、誰か!! 暴漢です、人が殴られました! 衛兵さんを! 早く!」


 私はそこで強張っていた喉をようやく奮い立たせ、全力の大声で通り中に響き渡るように叫びました。

 騒ぎの音とその声を聞いて、閉まっていた通りの店からもなんだなんだと人が顔を覗かせ始め、物盗りの男はさあっと顔を青くすると血相変えて裏通りの方へ逃げるように走り去っていきました。

 それを見て私はへなへなとその場に座り込み、そっと鞄の中を見下ろして、中に手帳の赤色を確認するとほっと息を吐きます。

 ……良かった、盗まれたりしなくて本当に……。

 そしてすぐにハッとして立ち上がり、私を庇ってぶん殴られてしまった通りすがりの方に慌てて駆け寄ります。


「あ、あの! 助けていただいて本当にありがとうございました……! 私のせいで暴行まで受けることになって大変申し訳ありません、お怪我の具合は……」

「いや大したものでは。鼻がすごく痛いが」

「ばっちり怪我してるじゃないですかーー!!」


 なおも淡々と抑揚無く呟いた男性に叫びつつ、私は鞄からハンカチを取り出して背伸びをすると、たらりと血の出てきていた鼻にそっと押し当てます。


 薄水色の布にじんわりと染みていく赤い血を見て半泣きになっていると、「……汚れるのでは」と男性はどうでもいいことを呟いて心底不思議そうに眉根を寄せていました。

 黙って下さい、と言う代わりに私は軽くその他人行儀な顔を睨み、昔お母さんに教わったのを真似て真剣に圧迫止血を試みます。


 そんな私の様子を見下ろして、男性はより一層意味が分からなそうに深緑色の目を瞬くのでした。なんなんでしょう自分が痛いはずなのにこの落ち着き、悪いのは私なのにだんだんムカムカしてきました。

 近くで見ると切れ長の目の下には薄く眠たげな隈があり、おそらく三十歳ぐらいの方だと思うのですが、年齢以上にずいぶんと落ち着き払って見えました。

 知的な面立ちに見えますが、この状況にあまりにもぼーっと無頓着そうでいるのが何だかちぐはぐな感じがします。

 血はすぐに止まり、私がふうと息を吐くと、男性は無言でハンカチを奪って畳み、外套のポケットへとしまい込みます。


「物を無駄にさせて申し訳ない。職業柄定期的な健康診断を義務づけられてはいるが、血液は常に感染源として取り扱うべきなので。こちらで処分させて頂きたい。損失分の代金を支払おう」

「えっ……いや、頂けませんよ何言ってるんですか。お金を払うべきなのはむしろ私です! お礼とお詫びと……」

「礼……。いや何も。不審な男がいたから咄嗟に鞄を放り投げただけで、殴られたのも自分が招いた結果だし。このハンカチで十分に釣りが出るくらいだから必要ない。では夜道はお気を付けて」

「いえ、そういうわけには! あの、」

「済まない、急いでいるんだ。これで」


 淡々々々ぐらいに述べながらテキパキと道に落ちた鞄を片付けてすたすた立ち去る男性の後ろ姿に、私は困惑しつつどうにか声を投げかけます。


「あ……あの、では王都獣人調停事務所までご連絡を! ホープスキンと申します、治療費とお見舞い金をお送りしたいのでご住所だけでもぜひ!」

「調停師? ホープスキン?」


 立ち止まらないまま振り返り、その人は知性の滲む瞳をほんの少し見開くと。


「……であればいずれ、僕が何もせずともまた会うこともあるだろう」

「???」


 そう言って、分からないぐらいほんのちょっとだけ口の端を上げて、あとはもう振り返らずにさっさと行ってしまうのでした。

 ぽつんと取り残された私でしたが、夜道をまた一人で歩くことに変わりはありません。

 さっきの物盗りが逆上して追いかけてこないとも限らないし……ひとまず帰りましょう、ミーナちゃんにも心配かけちゃいますし。


 背の高い男性が去って行ったのとは反対の方向、家路を辿るべくつま先を向けた私は、ふと足下にキラリと光る何かが転がっているのに気づいて目を瞬きます。

 なんでしょう、もしや先ほどの方の鞄から落ちた物でしょうか?

 そして拾い上げた物を目の前にして、私はさあっと青ざめ、絶句し、回想しました。

 ……そういえばさっき物盗りが顔面を殴った時、鼻の骨にぶつかる鈍い音の他に、パキッと何かが割れるような音も聞こえたような。


「……これって……」


 私の手の中でひしゃげ、曲がるのは、細い金属製のフレームでした。

 そしてぽろぽろと落ちていくのは、そこに嵌められていた楕円形の透明なガラス……ヒビ割れたその欠片。

 ボロボロに壊れたその『眼鏡』は、あの理知的な男性の顔にかければ、それはそれはよく似合うだろうなと思える装飾品でした。


 ちなみに眼鏡、王都では市場で流通もしてますが、度付きのものは上流階級以外はおいそれと手の出ない超高級品だそうです。

 ………………。


「ど、どうしましょう、大変なことをしてしまいました……!」


 私は壊れた眼鏡を手に、天国の父と母に助けを求めるように夜の空を見上げました。いやそんなことで助けを求められても困るのでしょうが!

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