第57話 黒ヤギさんの果たし状②


 初めて出会ったあの日からずっと、シオンさんの眼差しはいつだって優しくあたたかなものでした。

 だけど今、全く同じ形の双眸から注がれる視線はあまりに冷淡で、私は目を逸らすこともできずただその場に立ち尽くします。


 黒い髪に黒い耳、橙の瞳。

 でも顔はシオンさんと全く同じで、なのに纏う雰囲気は全くの正反対。

 突如現れたその謎の人に困惑する私を、彼は静かに目を細めながら、ただ見定めるように見下ろしていました。

 そして、


「シオン。シオンと言ったのか、今」


 あ、声まで同じなんですね。

 そう思ったか思わないかの内に、彼は屋根の上から軽々と飛び降りて難なく私と同じ地平に着地しました。


 そして気づけば一瞬で目の前に立ち──私の右の手首をギリッと音がするほど強く掴むと、静かな怒りを滾らせた顔で詰め寄りました。

 ひ、と小さく息を呑み、恐怖で萎縮する喉をどうにか震わせます。


「は、離して下さい、痛い……!」

「なぜオレの顔を見てその名を呼ぶ。お前はアレの何だ」

「あ、っ……!」


 返答を急かすように力を強められて、悲鳴を噛み殺します。

 手の大きさや爪の形までシオンさんそっくりなのに、力任せに乱暴に扱われて、違う人だと分かっているのに脳が混乱して泣きそうになっていると──

 ふいに息を飲む音と共に、手に込められた力がほんの少し緩みます。


 見やれば黒色のその人は、私を掴むのと反対の手で自分の頭に触れ、柔らかな髪をくしゃりと掴みながら絶句していました。

 ……ああ、確かに驚きますよね、突然しまったら。

 山羊の耳と角。調停師わたしのオーラ範囲に立ち入り消えたそれ。そして人間業では無い、険しい崖も駆け下りられるような超人的脚力。

 シオンさんと同じ顔でなくとも、この人が彼かの霊峰に住まう神獣・神山羊ゴートのお一人であることは、尋ねずとも明白なことでした。

 黒い山羊の耳を失い今はただの青年に見える彼は、信じられないものを前にした面持ちでじっと私を見つめ……やがて腑に落ちたように、神妙に頷きました。


「なるほど、神子みこか。小癪な術を使う。神から力を奪うなど何と烏滸がましい」

「……あの、あなたは……」


 いつの間にか空は赤黒い日没も終えて、夜の色を広げつつありました。

 未だ痛む手首と黒い山羊の彼とに視線を泳がせ、さてどうやってこの状況から逃れようかと考えていると──


「その人から離れろニグレド。もう一回八つ裂きにされたいのか?」


 ふいに耳に届いた声は、やはり黒い彼のものと全く同じでした。

 だけど聞き慣れたその声色に、体が勝手にほっとして、怖かったのもどこかに消えてしまいます。

 私が場違いに顔を綻ばせる正面で、黒山羊の彼は反対に表情を強張らせ、天敵を探すように周囲を見回し警戒心を剥き出しにしていました。


 直後、足下が少し揺れ、石畳からガタガタという不穏な音が響き──突如として激しく盛り上がった地面から、突き破るように飛び出てきた槍の如き太・い・木・の・根・を目にした瞬間。

 手首を引いていた力は消え、急に自由になった私は、反動で跳ね飛ばされるように体勢を崩しました。


「…………!?」


 まぬけに尻餅をつくかと覚悟しましたが痛みはなく、むしろ優しく肩を抱きとめられていることに気づいて、目を瞬きます。


「……良かった、間に合って」


 少し青白い顔をして額に汗を掻き、息を切らして私を見下ろす晴れた空色の瞳──

 急いで駆け付けてくれたらしい大好きなその人の顔を見て、私は張っていた緊張の糸が一気に緩むのを感じ、思わず声を上げました。


「シオンさん!」

「無事ですかトールさん、何もされてませんか?」

「ええ、大丈夫ですよ。この通り」


 来てくれたことがうれしくてへへっと笑いつつ、先ほどまで私がいた地点からボコンと生えてきたままの、鋭く尖った大きな木の根にさすがに舌を巻きます。

 いやあ、さすがは自然を司る神獣さん。地中にある根を自在に生長させて操作できるってあまりに最強すぎるのでは……。


 なんて感心していると、シオンさんはくいっと私の手を取って、先ほどまで掴まれていた手首をじっと見つめました。

 それでさすがに私も、そこにくっきりと痣のように赤く残った指の痕に気づいて、「あ」と青ざめます。

 もう痛くないのですが痛々しいですね、明日職場に行ってなんて説明すればいいんでしょう……。


「……トールさんの、こういう無茶するところ、あんまり好きじゃないです」


 シオンさんは痛切な声でそれだけ呟くと、キッと前方──木の根を避けた先、少し離れた位置に立ちこちらを見ている、まるで鏡のように瓜二つの彼を睨んで低く吐き捨てました。


「ミニョルが東区の方からも俺の気配がするって言うから、まさかと思って来てみれば……。何をしに来たニグレド、人間の世界なんて俗世だと、散々俺を馬鹿にしていたお前が。どういう風の吹き回しだ」


 常に礼儀正しいシオンさんには珍しい突き放すような言い方にも、黒山羊さん──ニグレドと呼ばれた彼は、表情一つ変えず涼しげに、むしろ会えたことに上機嫌な様子で軽く顎を上げ言いました。


「やあシオン、久方ぶりだな。傷の具合はどうだ?」

「お陰様で。お前の方もあれだけ完璧に負けた癖によく俺の前に顔を出せたものだな、悔し泣きしてるんじゃないかと心配していたんだが」


 挑発に対しニグレドさんはふっと吹き出し──それから天に向かって高らかに笑うと、橙色の瞳を細めて饒舌に言い返します。


「くだらぬ強がりを! オレが近づいたことで呪いは身を裂くほどに痛んでいる筈だろう? いやオレも胸が痛むよ、こんな屑でも血を分けた弟だ、優しい兄として同情を禁じ得ないな」


 呪い、という言葉に、私は目を見開いてシオンさんを見ます。

 ……グレイさんが言っていた、『血の匂いが濃くなっている』という変化。

 顔色が悪く見えたのは神獣会議で疲れているせいだと思っていたのに……! ちっとも気づいてあげられなかった自分に苛立ちながら、答えを求めるようにシオンさんに視線を注ぎます。

 だけど彼は何の感情も読めない表情で冷たくニグレドさんを睨みながら、『優しい兄』という単語に激しい嫌悪すら滲ませて、鬱陶しそうに告げました。


「……お前のことをそんな風に思ったことはただの一度も無い」


 ぞっとするほど冷たいその言い方に、私は背筋が凍るような思いがして肩を震わせます。

 だけどそんな私の不安もそこそこに、シオンさんははあ~~~……という長いため息を落として、心底呆れたような調子でこんなことを真剣に述べるのでした。


「俺が兄でお前が弟だろう? その話はもう何万回もしたじゃないか、いつになったら諦めてくれるんだ」


 私がずっこけそうになっていると、ニグレドさんは平静を装いつつ、頭上ではバッチリ山羊の黒い耳をピン!と針のように立てて過敏に反応していました。どうやら逆鱗っぽいですね、竜ではなくヤギなのですが。


「フッ……痴れ言を、オレが兄でお前が弟に決まっておろうが! 角だってオレの方がやや長いし!」

「違うってば、俺たち同じ日に生まれたけど、白い子が空がまだ黒いうちに生まれて、黒い子が空が白む頃に生まれたから不思議だったって産婆たちも言ってただろ。いい加減認めろよ見苦しいぞ」

「黙れたわけ、霊峰を捨てた落神の身で純正の神たるオレを愚弄するか!恥を知れ!!」


  ぎゃあぎゃあと始まってしまったケンカに、挟まれる形でぽかんとします。

 …………ん、んーと……多分ですがあのニグレドさんが以前シオンさんの言っていた弟さん、そしておそらくシオンさんの胸に角で傷を刻み、呪いをかけた張本人……ということでしょうか?

 でもどうして急に王都にやって来たりしたのでしょう。久しぶりに兄弟の顔を見に来た、というような気さくな間柄ではなさそうですし?

 などとついついうろんな目で見つめていると、全く同じ顔で言い合いを続けていた二人はハッとして同時に咳払いをし、お前だよお前的な感じでお互いを睨みました。うーん、仲悪そうですが血は争えないってところですかね。


「……とにかく、だ。間も無く十九の年を数えるに当たり、オレもいよいよ大神としてこの身を霊峰に捧げる時を控えている訳だが……それに際しどうしても一つ大きな障害があるわけだ。お前なら分かるだろう? 霊峰を捨てた神山羊よ」


 向けられた視線に真っ向から対峙し、シオンさんはほんの少し目を見張りました。

 無言の肯定を受け、ニグレドさんはすっと長い指でシオンさんを指し、まるで神託かのように淀みない声で告げます。


だ。猶予をやる、恥を晒しても生きることを選ぶのならば、オレに会いに霊峰の頂まで登れ。それが嫌ならこの人間の街で呪いに蝕まれて死ね。以上だ」


 言葉の内容に絶句する私の目の前で、ニグレドさんはトンと軽く地面を蹴り──高く跳び上がると、王都の屋根を伝ってあっという間に夜闇の向こうに跳び去ってしまいました。


「なっ……待って! 待ってください!」

「無駄ですよトールさん、あいつは人の言うことなんて聞きません」


 しん、と一気に静かになった裏通りで、シオンさんは憔悴したようなため息と共に軽く視線を地面に這わせます。

 それだけで地中から突き出た木の根はずるずると潜っていき、後には石畳を突き破った小さな穴だけが残りました。

「区長から大目玉だ」と苦笑しながら、シオンさんは情けなさそうに私を見ます。

 おそらく夜間外出許可も取らずに飛び出してきたのでしょうね、区長さんこういうこと厳しいですから大目玉程度で済めばいいですが……。


「すみません、見苦しい身内の争いに巻き込んで……。あの神山羊は恥ずかしながら俺の弟です。母親は違いますが」


 そっと私の手を取ってニグレドさんの指の痕をなぞりながら、シオンさんは澄んだ水色の瞳に暗い影を滲ませて、懺悔するようにうつむきました。

 そんな顔はしてほしくなくて、私はにこりと笑うと「痛くないですよ、大丈夫」と、少し震える彼の指を反対の手できゅっと握りました。


「それよりシオンさん、霊峰に登らなければ死ぬって……どういうことです、本当なんですか?」

「……ええ。詳しいことは種族の定め事ですので話せませんが、このままだと確実にそうなるでしょう。でも俺は霊峰には帰りたくない」


 きっぱりと言い切ったシオンさんに、私は目を見開き、つい責めるように声を荒げてしまいます。


「どうして……そうしないと呪いのせいで死んでしまうんでしょう? だったら行ってください! 何も迷うことなんて、」

「霊峰に帰れば俺は二度とこの街には戻れないでしょう。そうなればあなたともお別れです。トールさん」


 シオンさんはつらそうに眉根を寄せて私を見つめると、無理に笑って言いました。


「俺はそんなの、死んでもいやだ」


 私は暗い穴に突き落とされたような心地でそれを聞き、ただ、冷たくなった母と父の手を思い出し、「死んでもなんて言わないでください」とだけどうにか呟きます。

 それでシオンさんはハッとして、後悔したように「ごめんなさい」と返すと、少しの沈黙の後に切り出しました。


「……しばらく、会うのは控えさせて下さい。少し一人で考えたい」

「シオンさん、私……」


 震える声で何かを言いかけて、でも言葉にならずうつむいていると、シオンさんは困ったように首を振ります。


「ダメですよ。泣かせるなって、エミリア先輩に言われてるので。……きっとマシな答えを見つけてみせます、だから少しだけ待っててください」


 その言葉は私を説き伏せるようでも、自分に言い聞かせるようでもありました。

 私は勝手にうるむ視界を疎ましく思いながら、ぎゅっと目を閉じて彼の言葉を反芻し──


「……分かりました。待ちます。お誕生日の準備しながら待ってますから、楽しみにしていてくださいね」


 精いっぱい笑って見せてそう言うと、シオンさんも悲しげな顔を少しほころばせて、「ありがとう」と微笑みました。

 そうしてふいに頬に優しく手を添えられて、私がこくりと頷くと、待ちきれなかったようにすぐさま甘く落とされる口づけに、ほっとして目を閉じます。


 ……こんなに近くにいるのにどうしてか不安が消えてくれなくて、私は存在を確かめるように、彼に抱きつく腕にこっそりと力を込めるしかできませんでした。

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