第60話 知らない顔

「は? ロゼ・フォルテ? あの? しかもランチじゃなくてディナー?」


 週末の夕方、仕事を早めに終えて一旦家に戻ると、珍しくノー残業でくつろいでいたミーナちゃんが私の予定を聞いてくわっと目を見開いていました。こぼれおちそうです。

 先日アルフレッドが提案してくれた入学祝いの食事の席に、ありがたくも正式に混ぜて頂けることになりまして……

 約束のディナーの時間まで一時間ほど余裕がありますので少し休んでいこうと思ったのですが、ルームメイトは予約してもらったお店の名前を聞くなり血相変えて私の手を取りました。


「わ」

「急ぐよトールちゃん」

「な、何を?」

「メイク・ヘアセット・ドレスのコーディネートだよっ!! あそこ強制じゃないけど暗黙のドレスコードがあるの。そんなシャツにカーディガンにロングスカートなんて地味丸出しの格好で行ったらフルコースの間ずっと鼻で笑われるわ!!」

「なにそれこわい……」


 ミーナちゃんは空き巣みたいな手つきでご自分のクローゼットを開け放ち、そこに掛けられた数着のドレスを吟味しながら目を血走らせて怪しく笑いました。


「見てなさいよフォルテの常連マダム達……! うちのトールちゃんは素材は良いんだから磨けばギラギラに光りまくるんだからね!!」

「ギラギラでいいんですか??」


 そんなわけで私はあれよあれよと着せ替え人形のように姿見の前でくるくると回り、化粧台の前で普段の何倍もの時間をかけて丁寧に化粧を施され、上品に髪を結い上げまとめられて生まれ変わりました。

 鏡の中に映る知らない女を見て眉根を寄せると、「私の作品で湿気た面しないで。笑って」と低い声で怒られました。もはや今の私はミーナ大先生の創作物……。


「完っ璧……清楚かつ優美、華やかでありながら触れることをためらう儚さというさじ加減……。我ながら惚れ惚れする手腕だよ、公爵令嬢と言っても騙し通せるね、誰も田舎から出稼ぎに来た農家出身の村娘だなんて気づかないよ……」

「褒められてる気が全然しないのですが……」


 でもミーナちゃんが頑張ってくれた甲斐あって百万倍マシになった顔に、お化粧の力ってすごいですねとついついまじまじ見つめてしまいます。普段の朝ももう少し努力してみるべきなのでしょうが……。


「しかし惜しむらくはドレスの選択肢が私の髪色に合わせたものしか無かったってことぐらいだわ……これも十分似合ってるけど、トールちゃんなら絶対に青系のドレスも映えるのに!」


 我が事のように悔やしがっているミーナちゃんをなぜか私がなだめつつ、ふむたしかにこの鮮やかな艶のある緑のドレスは、ミーナちゃんの赤髪をさぞ美しく引き立てるでしょうねと頷きます。貸してもらえることに感謝しなくては。

 ……でも青色が似合う、と言われるのは少し嬉しいです。

 特別な日に恋人の瞳と同系色のドレスを身に纏うというのは、村出身の私でもちょっと憧れる、ロマンチックな古き伝統ですからね。


「んー、でもこの姿、どうせならシオンさんに見せたかったね。帰りに写真館にでも寄ってけば?」


 シオンさんのことを考えていた時にちょうどそんなことを言われて、私は「え?えっと」と焦りつつ、照れ隠しに曖昧にはにかみます。


「いやどうでしょう。シオンさん、あんまり派手に着飾ったのとか好きじゃなさそうですし」

「いやいや、ここまで綺麗におめかしした恋人を見てぐっとこない男はいないよ! 今度ちゃんとトールちゃんのための色とデザインのドレス選んで用意しとこうね。そんでほら、もうすぐだって言う誕生日にでもお披露目してあげなよ。ぜ~ったい見とれて惚れ直しちゃうからさぁ」


 お墨付きをいただいて頬を染めつつ、ここにはいない人のことを想います。

 彼はどんな顔をするでしょうか。前に一度髪型と服装を変えた時に全力で褒めて大騒ぎしてくれたことを懐かしく思い出して、私はそっと目を細めます。


「そう……ですね。気に入ってもらえたら、すごくうれしいです」


 未来のことを想って心からそう願いながら、私はミーナちゃんに見送られ部屋を出ました。



 * * *



「…………」

「お客様。コートをお預かりします」

「え゛っ、あ、ハイ、すみません、ありがたき幸せ……?」

「姉さんそこ気をつけてね、少し段差あるから」

「ドウモ……」


 慣れないヒールをぐらつかせ5つ下の弟にエスコートされながら入ったロゼ・フォルテの店内は、白く光る大理石の床が高い天井に吊るされたシャンデリアの輝きを反射する、あまりにまぶしく煌びやかな世界でした。

 やたらに上品な案内役の男性店員に出迎えられ、アルがエドガー教授の名で予約の旨を伝えると、恭しく礼をされたもので思わずそれよりも深くおじぎを返してしまいます。この世で最も無駄な負けず嫌いでした。

 仕立てたばかりのスーツを着こなしてくすくす楽しげに笑うアルの横顔を、私は思わず恨めしく睨みます。お、同じ村出身なのになんでしょうこの落ち着きの差は!


「大丈夫だよ姉さん、すごく綺麗だ。お姫様みたいだよ、誰も村娘だなんて気づかないよ」

「ミーナちゃんと同じこと言わないでください……」


 小声でフォローしてくれた後、アルは軽く店員さんに目配せしてすらすらと述べました。


「彼女はお酒は飲めません。あと教授は、」

「魚の小骨が苦手、ですよね。ノワゼット先生には学会の際など大変ご贔屓にして頂いておりますから。どうぞこちらへ」


 そうして通された広いホールは流麗なピアノの演奏を背景に、洗練された衣装に身を包んだ品の良い方々が席を埋め、グラスを傾けながら会話に花を咲かせている異世界でした。

 場違い感にくらくらしていると、窓際の席でぐびぐびと水を飲んでいる、親近感の湧く場違い上級者な方を見つけて目を瞬きました。ていうかエドガー教授でしたが。


「お待たせしました教授。今日は本当にありがとうございます」

「こ、このような分不相応な場に混ぜていただいて吐きそ……いえ大変ありがたくゾンジマス……」

「いや、接待でよく使う店だから融通が利くんだ。あまり気にせずくつろいで欲しい、……」


 並んで着席した私たち姉弟を見やり、そっけなく言った教授でしたが、ふと眼鏡の奥から私を見つめて怪訝そうにされます。

 あ、女性の顔を覚えるのは苦手とか言っていましたっけ。急に装いを変えたから混乱させてしまったのでは……


「あの、」

「いや済まない。綺麗なので驚いた」


 私はぽかんとまぬけに口を開け、アルは「教授がディナーの席で女性を褒めた……!社会性が80上がった!」などとよく分からない実況をしていました。ああ、社交界のマナーなんでしょうね、挨拶がわりに褒め言葉を送るの…………


 気を取り直してメニューを開きましたがポエムみたいな料理名と口から内臓全部出そうな値段にタマシイを抜かれ、全てをアルフレッドに委ねて私はひたすら置物のように座っていました。

 どうせ二人の学術的な会話には相槌すらうてませんし邪魔したくないので……。


 運ばれてくるお料理はどれもものすごく美味しかったのですが、マナーが合っているか不安でほとんど食べた気がしませんでした。

 あとで簡単にアレンジして今日のお礼にミーナちゃんに作ってあげようという、それだけをモチベーションにもぐもぐとひたすら味わいます。

 しかしコース料理って何品あるんでしょうか、終わりが見えませんが!


「…………。だから僕たち姉弟、父さんの葡萄が大好きだけど、葡萄酒は全然飲めないんですよ。可笑しいでしょう。ねえ姉さん」


 ぼーっとしているうちに医療や生物学の話題から、いつの間にか実家の話になっていたようで、私はびくっと肩を上げて慌てて答えます。


「え? ああはい、でもこの前リンゴのワイン煮を作ったらなかなか美味しくできましたよ。結局酔ってしまいましたけど、とても楽しく……」


 そこで私は口をつぐみ、表情が強張るのを隠すために味のしない白身魚を口に運びます。

 ……楽しかったのは、シオンさんと一緒に作って食べたものだから。

 アルは怪訝そうに私を見て口を開きましたが、それよりも早く、「ところで先日の学部内発表についてだが」とエドガー教授が淡々と話題を変えました。


 驚いて見つめても、教授の無表情に変化は見受けられません。だけどその気遣いがありがたく、私は一瞬目があった時に、アルに気づかれないように小さく微笑みました。もちろん、笑い返してはくれませんでしたが。

 その後も二人の会話は弾み、メインの料理の皿が下げられた頃、すっと歩み寄った店員さんが教授にそっと耳打ちしました。


「? なんです教授?」

「研究室から連絡があったそうだ。ホープスキン、お前が担当していたカメの卵が孵った」

「えっ!!! ……あ、すみません大声を……えっと、デザートとお茶をいただいたら向かうので……」


 などと口では言いつつ、顔は子供らしくほころび、そわそわと今すぐ駆け出して行きたそうにするアルフレッドに、私はついつい吹き出してしまいます。


「世に貢献する優秀な研究者は時として目上の人間や家族を無下にも扱うものだ。僕は一向に構わない、今すぐ行ってきなさい」

「……! はいっ、ありがとうございます教授!」


 アルはぱあっとあどけなく笑うと、深く礼をして一目散にホールを後にしました。うーん、弟の生き生きしてる姿を見られるのは姉としてはうれしいですね。

 ……うれしいですが、しかし、二人きりになってしまうとさすがに気まずいですね、私とエドガー教授。

 アルフレッドがいなくなるとたちまち眼鏡破壊女とたまごサンド要求男なので私たち……。


「……ええと、弟は学院で上手くやっていますか。よくできた子だとは分かっていますが、まだ若いですし我慢をするところがあるから心配してまして……」


 当たり障りのない話題を振ると、教授は表情一つ変えず淡々と述べました。


「あの子はいずれ何万という市民の命を救う医学者になる」


 断言されて、さすがに目を瞬き、返答に窮します。あ、姉への社交辞令にしては随分と……


「これは社交辞令ではなく実態に基づいた予測だが。彼が入学前に送り付けた論文には目を?」


 首を横に振ると、教授は回顧するように少し目を伏せ、運ばれてきた紅茶のカップにミルクをたっぷりと注ぎながら続けました。


「蝶の論文の方はまあ良く書けてはいるが平均点で、年齢を考慮しなければ特別な評価には値しないものだった。彼を推すに至ったのは豆の論文の方だ。……根に含まれる成分に、別の植物が含有する毒の解毒作用がある可能性について検証がなされ、結果として解毒薬の精製への道が開かれた。数日間軽い麻痺が残る程度で致死の毒では無いが、毎年多くの市民が山菜採りの際に誤って口にして苦しむ厄介な毒だった。十分に医学的進歩と呼べる発見だ」

「……検証、ですか? あの村で? どうやって……」

「自分の体で試したんだよ、あの少年は。論文には試行回数も記載されていたが……ご家族が聞いて嬉しいものではないだろうから、それは割愛させてもらう。とにかく、アルフレッド・ホープスキンは医学生として重要な知識、着眼点、飛躍的発想、そして何より己を顧みず医学に貢献しようとする精神を有していることを見事に証明して見せた。だから僕は彼を入学させることを学長に提案した。それだけの話だ」


 砂糖を山盛り五杯、カップの底に沈めて──くるりとかき混ぜて溶かし込むと、教授は美味しそうに味わい始めました。

「ここの紅茶は渋みが良い。冷めないうちをお勧めする」との言葉に、私も遅れて砂糖を二杯半入れて口を付けます。渋みとは一体と思いましたが確かに美味しい。


「……アルってば、そんな無茶を……昔から頑張りすぎるところはありましたけど」

「それだけ一刻も早く学院に入学したかったんだろう。受験資格の年齢を待てない様子だった。それと学費免除と寮の無償利用に並々ならぬこだわりを見せていた。……なぜそうまでしてと聞けば、『早く楽をさせてあげたいから』と言う。苦学生にはよくある話だと当時はさして気にも留めなかったが」


 教授の言葉に私はカップをカチャリとソーサーに落とし、目を見張りました。

 ……もう自由に生きていいと、事務所を訪れて笑ったアルフレッドを思い起こします。


「学業のことだけではなく、あの子は良い子だ。学院に入る人間なんて僕も含めて、大抵が自分の興味のあること以外はからきしダメな社会不適合者で、協調性が死んでる場合が多い。だがホープスキンはあの年でよく人を思いやり、僕のような人間にも音を上げず世話を焼いてくれる。あれほど思考が年齢を逸脱していれば、少しは驕り高ぶったり他者を見下したりするものだが、彼には全くそれがない。よっぽど養育者に愛情を注がれて大事に育てられてきた結果だろうなと思ったが、母親は乳児期に死に別れたと言う。そして王都で調停師をしているという姉の話を聞いた」


 教授はデザートのケーキに載せられた芸術的な飴細工を、一切の情緒無くスプーンで叩き割りながら、少しだけ表情を和らげて言います。


「理解出来ないことが苦手な性分なんだが、貴女に会って納得した。あの子があれほどまっすぐに育ったのは貴女のおかげだと。であれば、彼がこれから救うだろう多くの命は、貴女が救う命でもあるわけだ。僕はそのことに敬意を払う。我々に素晴らしい生徒ギフトをありがとう、トール・ホープスキン。責任を持って指導させていただくことを約束しよう」


 相変わらずの抑揚のない声で送られる賛辞に、私は少し面食らいつつ……だけどうれしくて、ほっと肩を下げながら呟きます。


「…………育てたなんていうとおこがましいんです。5つ離れているとは言っても当時は私も子供で、とにかく必死なだけだったから。まだ幼児の頃はすぐ熱を出したり嘔吐したり、転んだだけで大きな怪我をしたりして……その度に大慌てで、とにかくあの子を守らなきゃってそれだけ考えて見よう見まねでお世話していました。気づいたら独りでに大きくなって、今じゃあんな立派な男の子に成長してくれた。それだけで嬉しいんです。……でも、おこがましいことを言っていいのなら、少し肩の荷が下りた気持ちです。無事にあの子の巣立ちを見送れたことに」


 照れくさくて笑っても、教授は少しも表情を変えてはくれません。

 だけど不思議と寂しくはなくて、私は甘いデザートの味を堪能しながら、あっという間だった子育てからの卒業を静かに祝うのでした。



 * * *



 既に済んでいた会計に対する抗議を完全に無視されながらロゼ・フォルテの外に出ると、夜の空気はシンと冷たく思わず身震いします。


「……あの、今日は本当にありがとうございました。ご馳走にまでなってしまって……このお礼はいずれ」

「ああ。たまごサンドで」

「だから何斤分なんですか?」


 呆れて笑いながら、教授の後に続いて馬車乗り場で立ち止まり、まだかろうじて白くはない息を吐いて目を伏せます。

 ……居住区の夜も、こんな風に冷えているのでしょうか。一度だけお邪魔した部屋に暖炉が見当たらなかったのを思い出し、私は心配できゅっと唇を噛みます。

 シオンさん。せめて元気でいてくれれば、私は何も……


「あれ? トールちゃん?」


 ふいに後ろから声を掛けられて、振り返って目にした顔に私は驚いて目を瞬きます。


「スロウさん!」

「やっぱりトールちゃんだ。うわ~綺麗だね、一瞬気づかなかったなぁ。パーティーか何か?」


 こんな時間にどうしたのでしょう、まだ仕事着のスーツのまま、スロウさんは上機嫌ににこにこと尋ねました。


「いえ、そこのお店で弟の入学祝いにお食事をいただいていたのです。ラフな服では失礼だということで急遽友人にドレスを借りまして」

「え、あそこの店ってロゼ・フォルテ!? しかもディナー!? うわー、すっごいなー、あそこでプロポーズしたら成功間違いなしっていう超高級店じゃないか! そちらの男性と?」

「え? ああいえ、この方は弟のお世話になっている先生で……」

「へえ。いやあ羨ましい、こんな宝石みたいに美しいトールちゃんを、あんな一生に一度の夢みたいな店で独り占めなんて……羨ましいなあ!

 ね、シオン君!」


 スロウさんがにこやかに背後に呼びかけた名前に、私は目を見開いて息を止めました。

 スロウさんの後ろに隠れて、夜の暗さのせいでよく見えなかったその人は……

 実に一週間ぶりに見るシオンさんは、目を見張ってただ私を見つめ、そこに立っていました。


 ──駆け寄って、人目もはばからず抱きつきたいくらい恋しかったはずなのに、そうはできない張り詰めた空気に、息を飲んで瞬きを忘れます。


 ……そんなつもりはなかっただなんて言っても、しばらく会えずにいた恋人がめかし込んでドレスを着て、知らない男性と二人きりで夜道を歩いている姿がどんな風に映るかだなんて、色恋に疎い私でもさすがに分かります。

 自分の愚かさに青ざめながら、私は夜風のせいだけではなく震える唇を開き、そっと呟きました。


「…………シオン、さん。どうして夜に……」

「……ずっと、根詰めて居住区にこもってたから……そんな辛気臭い顔するなら少しは羽を伸ばしてこいって、区長が珍しく夜間外出許可を出してくれて……事務所に連絡をしたらトールさんは用事があって早めに退勤して、スロウさんなら調停を引き受けてくれるって言うから、今まで……」

「え? あれ、なに? 二人って知り合いだったの?」


 夜勤ボーナス出るって言うから頑張っちゃった、と明るく笑うスロウさんに反し、私とシオンさんは少しも笑えずに互いを見つめていました。


「失礼。誤解があるようなので訂正を。食事は僕とアルフレッド君と彼女の三人が同席し、途中でアルフレッド君が退席しただけだ。二人きりで食事をしていたわけではない」


 強張った私の顔を見て何かを察したのか、気を利かせた教授がすっと手を挙げて毅然と述べてくれます。


「あくまでも弟君を介しただけの関係だ。他に夜に物盗りに襲われていた所を偶然手助けしたことはあったが、特別なものは何も無い」

「え? 襲われたって、いつ……」


 さあっと顔を青くして詰め寄りかけたシオンさんに、私は小さく頭を下げます。

 ……心配をかけたくなかったけれど、それを知りもしないでいるというのが、恋人であればどんな心地かは、分かります。

 傷ついたようなシオンさんの表情に私は何も言えず、スロウさんの陽気な声が沈黙を繋いでくれるのをただうつむいて聞いていました。


「へえ、二人分も奢るなんてさぞ月収えげつないんでしょうね~。お仕事は何を?」

「怪しいものでは。よろしければこちらを」


 と言いつつ説明が面倒くさかったのでしょう、教授は名刺を一枚取り出すと、あろうことかシオンさんの前にずいっと差し出しました。

 ……調停師二人のオーラに抑制されていても、紙を突然目の前に突き出されることが、シオンさんにとってどれだけの恐怖であるかは想像に難くありません。

 びくっと怯えた表情に私が声を上げかけた瞬間、さすがはベテラン調停師、すばやくスロウさんがそれを受け取りふむふむと頭上に掲げます。


「ふーん、王立学院の教授……外科医!? うっわーその若さで本当にえげつない、一生遊んで暮らせるじゃないですか!」

「いえ、我々にとっては研究に勝る楽しみはないので」

「うわ~耳が痛い、毎日辞めたい辞めたい言ってる人間としては耳が痛い!」


 大げさにおどけるスロウさんはちらりとシオンさんの顔を盗み見て、その表情が変わらず曇ったままなのを確認するとふうと息を吐きました。


「んーと……それじゃあトールちゃん、僕たちはこれで」

「え? 馬車乗り場はここじゃ……」

「ここさあ、二人乗り用馬車の待合所。一般市民の脚たる乗り合い馬車はもう少し先なんだ。いいねえゆったり帰れて、暗いから気をつけてね」


 ひらひらと手を振って歩いて行くスロウさんに続いて、シオンさんも静かに私の前を通り過ぎます。


「……トールさん、それじゃあまた。おやすみなさい」

「……あの、シオンさん、明日会えませんか? ちゃんとゆっくり話を……」


 シオンさんは少し目を伏せて考えると、「はい。事務所に連絡します」とだけ呟いて振り返らずに行ってしまいました。

 夜闇に見えなくなっていく後ろ姿をいつまでも見つめている私に、教授はその後馬車に乗ってからも、何も聞かずにいてくれました。


 馬車のガラス窓に映る着飾った自分の知らない顔が、今は何だか滑稽に見えて、私は遠ざかっていくシオンさんのことを想い、きゅっと唇を噛んで目を閉じるのでした。

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