第49話 弟からの手紙・2

 白く静かな正門の前に立ち、私は少し腫れぼったい気がする瞼を数回上下させると、弱々しく呟きました。


「ええと……すみませんでした、お見苦しいところを……もう大丈夫ですので、ハイ」

「いえ。可愛かったので全然」

「………………」


 にこりと微笑まれて、いたたまれず顔を赤くして閉口します。

 は、二十歳にもなって母を恋しがって泣くなんて……しかも年下の男の子に慰められてしまった……恥ずかしくて死にそうです、おかげでだいぶスッキリはしましたが!


「あの、まだ目赤いですか? 外を歩いて変に思われないでしょうか」

「んー……どうですかね、ちょっと見せて下さい」


 シオンさんは真剣な表情で身を屈めると、すいっと私に顔を近づけて至近距離で瞳を覗き込みました。近い。

 吸い込まれそうな空色に自分の紫色の瞳が映って色を変える様を、ドキドキしながら見つめます。な、長い…………心臓が心配になってきました。

 しばらくそうしていると、ふいにシオンさんは楽しげに笑って、満足げに頷きながら実にテキトーな感じで答えました。


「まあ、外も晴れて良い勝負で赤い夕暮れですし分からないんじゃないですかね?たぶん」

「お、面白がってません!?」


 どうにもシオンさん、お付き合いを始めてから優しいだけじゃなくてちょっとだけいじわるになったような……!?

 あのグレイさんを先生なんて慕ってるせいか手腕も鮮やかですし気が気でないです!ますます死にゆく私の年上の威厳!

 もう!と憤慨しているともっと楽しげにシオンさんは笑って、それからふっと寂しげに肩をすくめ、名残惜しそうな声で告げます。


「トールさん、俺はずっとこうしてたいですけど…………でも暗くなると本当に危ないので。今日はこのあたりでお別れにしましょう」

「あ、はい、そうですね……ではまた、」


 どうにかなけなしの年上らしさを引っぱり出して大人ぶって振ろうとした手を、唐突にすっと引かれて目を瞬きます。

 そして驚いているうちに彼は私の指先を恭しく握って口元に寄せ、まるでおとぎ話のワンシーンのように、優しく手の甲に口づけました。


「………………」

「おやすみなさい。気をつけて帰って下さいね」


 ぱっと手を離して何事もなかったかのように微笑むシオンさんに、私はまぬけに口をパクパクさせて頷くしかできないのでした。



 * * *



 大切な人が二人いなくなっても、変わらず仕事は発生し、そのために職場というものは動き、社会を回していくのです。

 私は事務所へ続く階段をほんの少しうつむきがちに登り、そしてその先に見慣れた紅茶色の髪と気怠げな表情をした同期の姿を見つけて、ぱっと目を輝かせました。


「ロキ君! おはようございます。どうしたんですかそんな所で立ち止まって? 鍵閉まってましたか」

「ああ、おはよう。……いや、開いてるんだけど、ちょっと入りづらい状況で」


 ちょいちょい、と手招きされて階段を上る足を速めると、私は何やら渋い顔をしているロキ君に促され扉に耳を近づけてみます。

 が、近づけるまでもなく絶叫が鼓膜を震わせ、即座に耳を塞ぐに至りました。



「離せ!離せこの外道ッ、大嘘吐きオオカミぃーーーー!! 何が『二年前より労働環境マシになりましたから大丈夫ですって~ハハッ』だよ、暗黒が漆黒になった程度で結局ブラックじゃないかよ!! ユージンが戻るまでなんて待ってられるか、僕は実家に帰る!!こんな事務所辞めてやるーーーッ!!」



 扉一枚隔てた向こうからけたたましく響く裏返りまくりの男性の声と、「ハハハハ」というグレイさんと思しき楽しげな笑い声を前に、私とロキ君は半目で目配せし、無言で頷きました。死ぬほど入りづらい。


 うーん、二人の欠員が出て事務所がピンチなこの状況、が来てくれたことは歓迎すべきことですが、毎日これではさすがに困っちゃいますね、グレイさんは生き生きしてますけど。


「ロキ君、でも出勤時間が……」

「うん。ここで尻込みして遅れた分きっちり給料から引いてくるだろうな、あの腐れ所長」

「んー……それは困りますね、冬は薪代も含めて仕送りを多くしなければと思ってましたので……」

「仕方ない、静かに入って出勤簿に印だけ押してさっさと外に出よう。空気のようにそそくさと」

「さ、さすがロキ君、勇敢です……! がんばりましょう、二人で入ればこわくない!」


 私はロキ君の背広の裾を掴みつつ後列に続き(チキンと罵ってもらって構いません)、そーーっと開いた扉の隙間から修羅の香りただよう事務所の中を覗き込みました。

 そして見ました、開け放たれた事務所の窓から逃げださんとほぼ体を投げ出している一人の男性と、彼をがっちり羽交い締めにして笑っているグレイさんと、それらの地獄を背に我関せずとデスクで書類にかじりついている所長の姿を。ドア閉めたい。


「落ち着いて下さいスロウ君、仮にこの窓から脱出したとしてイヌ科最速の時速を誇るオオカミと追いかけっこして勝つ自信あるんですか? 僕もわずかな狩猟本能はありますので勝負とあれば全力で受けますが」

「うるさいっ、犬歯を光らせながらうきうきするな!! 二年前から全然変わってないなその嗜虐主義、クソ、再雇用なんて受けるんじゃなかった!!」

「僕は嬉しいですよ、古株のスロウ君が戻ってきてくれて。また一緒に楽しくお仕事しましょうねぇ」

「ハイもしもし王都獣人調停事務所……ああハイ、いいですよ、うちの実力派新人が心を込めて調停しますので。はいはい」

「アァーーーー!!また予約増えた!!息を吸うように依頼を受けるんじゃないよ、復帰してから毎日僕のスケジュールギッチギチにしやがってホントふざっけんなよ!!」


 泣きながら叫んでいる男性──スロウさんの悲痛な叫びに、私とロキ君はこそこそ出勤簿に押印しながら戦慄しました。可哀想……。


 ユージンさんとエミリア先輩が王都を去った後、すぐさまグレイさんが首根っこ掴んで引きずってきた新しい調停師さんは、スロウさん────二年前、ユージンさんが北部に出張に出てエミリア先輩に出会った頃に事務所に所属していたという、私にとっては大先輩にあたる方でした。


 当時のあまりの激務にブチ切れて退職、南部でご実家の農業を継いだとのことでしたが、「全然使えないしもうちょっと都で稼いでこい」と追い出されて途方に暮れていたところをグレイさんに捕獲され再就職、再び激務の日々にブチ切れて毎日所長と死闘を繰り広げている……という現状なのでした。


「いいコンビだったんですよ、ユージン君が二枚目でスロウ君が三枚目で。調停技術も良い勝負でしたし」とのグレイさんの評の通り、気さくで快活かつ優秀な方なのですが、しょっちゅう発狂しているのがちょっとだけ気がかりだったりします。初日はふくよかだったのにすっかり痩せてしまって……。


「ユージン、ユーージーーン!!! 年下の小悪魔系美人に押しかけ猛アタックしてる場合じゃないよ、元同僚の生命の危機だよーーー!! この男は悪魔だっ!!早く帰ってきて、お前、おい、返事しろや吸血にかこつけてイチャイチャしてんじゃねぇぞ、ふざけんなよ、過労死したら化けて出てやるからなァーーーーッ!!」

「ハチャメチャにうるせぇしウチの窓は東向きだからそっから叫んでも北部には届かねぇよ、近所迷惑だからヤメロ」

「痛いッ」


 バシッと背中を叩かれて目覚まし時計みたいに静かになったスロウさんに、私はさすがに見て見ぬフリもできずロキ君に謝ってからおずおずと声をかけます。


「あの、大丈夫ですか……? 結構いい音が……」


 涙と鼻水を拭こうとハンカチを差し出すと、「ああ天使、なるほどここが天国」などと冷静に勘違いされてしまって困惑します。この人疑問から超回答までが速すぎでは。


「……ん、ああ、トールちゃんとロキ君か。おはよー、ようこそお金が貰える地獄へ! え?何?大先輩に調停についてご指導ご鞭撻頂きたい? しょうがないなー、でも僕ってばこの後も吐きそうなくらい依頼詰め込まれてる売れっ子調停師だから、残念だけどまたのきかぶっっ」

「先輩ヅラしてんじゃねぇぞスロウ、お前は一回退職リセットしてんだからこいつらの後輩だろうが。少しは勤務態度っつーもんを見習え、そして今すぐ出て行け調停に遅刻すんだろうが」

「う、う、うるせーーこの人徳無し男、そんなんだから隠れ吸血鬼とかいう女の子にもユージンにもダブルで逃げられるんだろうが! その穴埋めをしてやってるのは誰でしょうか僕でーす、少しはねぎらえッ!!」

「だーーーから手当ては付けてやるっつってんだろうが、大体お前、実家追い出されたら調停師以外で働き口なんか無かったんだろ? ありがたくその無駄に質の良いオーラを活かして獣人の役に立って勤勉に働け」

「なっ……そん…………だん……うるせーバーカ!くそー! ユージンが戻ってきたら秒で辞めてやるからな、その後に然るべき機関に訴えるから震えて待て!!行ってきます!!」

「いや今訴えろや相変わらず器ちっちぇえな、行ってらっしゃーい」


 ドカドカと足音うるさく駆け出し、スロウさんが至極静かにドアを閉めて(二年前に乱暴に閉めて壊して修繕費請求されたかららしいです)出て行かれると、事務所は一気に静かになりました。耳がキーンってします。


「…………スロウさん、毎日ああやって調停前に大暴れしてますが大丈夫なんですかね?」

「シャッフルさんは毛のある獣人の依頼はNG、フロム先輩はオーラ遮断スーツの改良のため休みがち、俺のオーラは幻獣種以上の獣人に効果ないし、トールはオーラ範囲の狭さから敬遠されがち……となると、稼ぎ頭ツートップだったユージンさんとエミリア先輩で回してた依頼、全部スロウさんにお願いすることになるんだもんな……」

「いや申し訳ないです、多少発狂してるぐらい全然気にならないぐらい申し訳ない……」


 そういう意味でもユージンさんとエミリア先輩、はやく帰ってきて……と我々は切に願うばかりなのでした。死人が出そう。


「さてと。嵐は去りましたしおはようございます所長、今日は午前中に二件の予定で変わりないですよね」

「おー、お前も悪いなアディントン、神獣と幻獣以外の依頼はほとんどお前に回さざるを得ない状況だからな……そこの色ボケ調停師が神山羊以外の依頼まともにこなせないせいで」

「うっ」


 グサ、と突き刺さる言葉の刃に打ちひしがれていると、「まあ別に。俺には出来ない領分ですしね」とフォロー入れてくれつつロキ君は颯爽と調停に出かけていきました。優しさが傷口に染みる……


「す、すみません、相変わらずお役に立てず……」

「まあ神獣種の調停なんて重労働、スロウでも荷が重いからな。適材適所よ。ただ痴情のもつれでトラブルとか勘弁してくれよ、法は完全に神獣に甘々なんだからな」

「ち、痴情なんて……! 公私混同はしないつもりです! これまで通りただ本を読むお手伝いを……するだけで……」


 言いながら、先日手の甲に触れた感触を思い出してあっさり撃沈します。こ、このダメ調停師が……!


「まあまあ所長、トール嬢はよくやってくれていますよ。あの神獣種の中でも特に気難しく気位が高いとされる神山羊が居住区にこれだけ長く定住してくれているなんて、王政も驚いているそうじゃないですか。いや偉大な功績ですよ、世が世なら伝承に残るレベルの神子みこ殿だ」

「い、いえそんなことは……」

「まあ白ヤギ君からトール嬢の匂いがするしトール嬢から白ヤギ君の匂いがするしで、僕としては鼻が混乱して困るんですけどねぇ」

「わーー!!?? か、嗅がないでくださいそんな匂いっ!!」


 ハッハッハと笑うグレイさんに抗議しつつ、とりあえず私にもこなせる依頼が入るまでは暇ですので書類整理やらの雑務を請け負おうと息を吐いて気を引き締めます。うーん、アルフレッドの学費の積み立てを考えると、もう少し仕事の量を増やさないと厳しいところなのですが……。あ。


「そうだ、今朝届いてたアルからの手紙……休憩時間に忘れずに読まなくては」

「ん、弟君ですか? 通りで鞄から不思議な匂いがするわけだ、トール嬢にそっくりですが全然違う匂いがするんですよねぇ。最初は甘いのに後味が死ぬ程苦いというか……」

「別に今読んでもいいぞー、調停できない調停師なんて空気のようなもんだしな、この時間に給与発生しないし」

「…………」


 む、と所長を睨みつつ会釈し、ありがたくお言葉に甘えて手紙の封を開けます。

 私の村はド田舎ですので、この前雨の日に書いた手紙はまだアルフレッドの手元には届いてないと思いますが……となるとまだシオンさんのことも伝えてないわけですし、その返信ではないとすると何か急ぎの報せでしょうか。仕送りが足りなくて困っているとかじゃなければいいですが……。


 心配しつつ便箋に綴られた綺麗な筆跡を目で追っていると、隣でグレイさんがふいにクンクンとしきりに鼻を働かせ始めました。怪訝そうに眉根を寄せられます。


「ん、この匂い、手紙の匂いですか……? それにしては随分と濃い、」

「………………え、えええ!?」


 困ったようなグレイさんの声は私の叫びでかき消され、彼は珍しくきょとんとして私を見下ろします。


「トール嬢、どうされました?」

「あ、すみません、えーとこの手紙の消印、一週間前に出されたもので……私の村から王都までもちょうど一週間程度あれば到着する距離なので……ということは、えっと、」


 手紙の内容に大いに慌てふためく私に所長とグレイさんが目を瞬かせる、それでもまだ穏やかな事務所に。

 入り口の扉の向こうから、トントンという足音が聞こえて、そしてそのあまりに耳に馴染んだリズムに私は目を見開きました。


 思い出すのはあの子が初めて歩いた日。

 私の後をついて、どこに行くにも一生懸命に可愛く追いかけて来てくれた小さな足音───


 私はその音が途絶えるより先に早足で扉へと向かい、はやる気持ちを抑えて勢い良く入り口を開け放ちました。

 そしてそこに待っていた、見慣れた──だけどすっかり懐かしくなってしまった驚いたような顔に、唖然として立ち尽くします。


「…………」

「久しぶり、姉さん。元気そうでよかった。王都ってすごく広いんだね、事務所を探すのに時間がかかっちゃった」


 そう言って顔をほころばせて笑うと、私と同じ葡萄色の瞳が細まって、それでようやく私は口を開きます。


「…………あ、アルフレッド!? 本当に……」

「うん、本当だよ。手紙は読んでくれた? ……遅くなっちゃったけど、全部終わらせたよ。今まで僕なんかのために、ずっと慣れない土地で頑張ってくれてありがとう」


 大きな荷物を床に置いて、アルは──私の弟、アルフレッド・ホープスキンは、私の手をそっと握ると、私よりも幾分理知的な表情を凜々しく引き締めて言いました。


「手紙に書いた通り、もうお金はいらない。姉さんは僕に縛られなくて良いんだ。調停師なんていつでも辞めていい、これからは自分のしたいことだけをして、どうか自由に生きてほしい」


 きゅっと握る手に力をこめて優しく微笑むアルフレッドの対面、ぽかんと話を聞いていた所長が「辞め」のあたりで「アァ!!??」と汚い叫びを上げたので、私たち姉弟の感動だったかもしれない再会は、なんだか残念なことになったのでした。グレイさん笑いすぎ。

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