Ⅳ.獣人さんはおうちに帰りたい

第48話 鏡のない国と、いつか止む雨

 恋人を想うときにまず浮かぶのが横顔、というのは些か問題があるのかも知れませんが、とりあえず私にとってそれはごく自然なことでした。


 今日も今日とて静かな図書館の隅っこに並んで座り、私は書き物に集中するフリをしながら、ちらりと視線だけを横に向けます。

 姿勢よく椅子に腰かけ、手元に持った本の頁だけを一心に見下ろす伏し目がちな横顔。

 影を落とす長い睫毛の下で、綺麗な空色の瞳が文字を追うために規則正しく揺れ動くのを見ていると、なんだか吸い込まれてしまいそうな不思議な気持ちになります。


 こっそり盗み見るなんて感心できないことですが、幸い読書中の彼は私になんて見向きもせずひたすら本にだけ神経を集中させてくれているので、咎められる心配はありません。

 それに正面から直視するのはちょっと心臓に悪いので、これぐらいがちょうどよかったりするのです。獣人さん、とりわけ神獣さんのお顔は並外れて整っているものですが、私の場合はそこに個人的な好意も加算されるので、未だにじっと見つめられる境地にはまったく至っていないのでした。情けない話ですが……


「…………で、何か話したいことがあるわけじゃないんですか?」

「ハイ、あくまで読書に集中していて欲しいので全く。むしろ私のことなんて空気か何かだと思ってもらいたいです、職務的にもそれが理想ですし…………ん?」

「そんなにじっと見つめられたら気になりますよ、さすがに」


 パタン、と手にした本を閉じて、くすくすと肩を揺らすと。

 シオンさんは少し気恥ずかしそうに眉尻を下げて、私の方へ向き直りました。


「あ!? す、すみません、邪魔してしまって!」

「いえ、構いませんけど。でも何が楽しいんですか?俺の顔なんか見て。時間の無駄ですよ、寝ていた方がよっぽど有益です」


 心底不思議そうに首を傾げるシオンさんに、さすがに目を細めて苦笑いします。

 言って良い顔と悪い顔がありそうな台詞ですね……。


「そういうこと所長に言ったら怒られますよ、鏡を見てから言えーとか……」

「はあ。でも俺の家、鏡が無いので……自分がどんな顔してるのか実はよく分からないんです」


 ぽつりとこぼした言葉に、今度は私が首を傾げます。ああそういえばお部屋にお邪魔した時、鏡らしきものは見当たらなかった気がしますが。


「寝癖とかあったら庭の草花が教えてくれますし、特に必要ないんです。あんまり自分の顔を見るのは好きじゃないですし」

「え、そうなんですか? もったいないですね、とても綺麗なのに」


 目を丸くする私にシオンさんは少し照れたように口を引き結んで、ちょっと言いづらそうに目を細めながら唸ります。


「んーでも、同じ顔の人のことを嫌でも思い出すのでちょっと……」


 そう言っておそらく無意識に胸のあたりに指を置くのを見て、何となく察しがついて私はふむと目を伏せます。

 シオンさんの胸に残るもの。思いが通じ合った日、彼は「でも、これだけはちゃんと説明させてください」と切り出して、その秘密をこっそりと打ち明けてくれました。




 * * *




「…………」

「前にも一度目にしていると思いますが……この傷はただの傷ではありません。俺の種族に伝わる呪術を用いて角により刻まれた、言わば呪いの印です」

「呪い?」


 時刻は昼下がり、「誰の目にも触れない場所に」というシオンさんの希望を受けてお招きした、私の家の玄関にて。

 扉を閉めるやいなやおもむろに服を脱ぎ始めたのでちょっとだいぶ焦りましたが、胸に大きく走った傷痕を見て慌てて脳を真面目モードに切り替えました。人生で最も無駄なドキドキでしたね。


 赤く深く残るその抉れたような傷痕は変わらず痛ましく、思わず我がことのように表情が歪みます。以前見た時はひどく苦しまれてもいましたし、痛みは今も続いているのでしょうか。

 何も言えず視線を落とす私を見て、なぜだかちょっとだけうれしそうにシオンさんは微笑み、穏やかに首を横に振りました。


「心配してくれてありがとうございます。それほど頻繁に痛むわけじゃないし、すぐに治まるから大丈夫ですよ。ただ、それも相手次第ではありますが」

「相手?」

「俺に呪いをかけた相手、です。それについて口外すると激痛が走る仕組みになってますので、詳細は言えませんが」


 シオンさんは言葉を濁しましたが、何となくお相手には察しがついていました。

 シオンさんはこの傷を、霊峰を降りる際同胞から猛反対に遭った結果だと言っていました。

 私と違って不仲な弟さんがいると教えてくれたときの悲しげな顔から、自ずとその同胞が誰だったのかは想像が付きます。


「……悲しいですね、呪われるほど疎まれてしまうというのは……」

「いえ、生まれた時から元々嫌われていたのに俺が放蕩宣言をして火を付けたようなものなので。自業自得ですよ、お願いだからそんな顔しないで」


 そっと優しく頬に手を添えられて、私はきゅっと唇を噛みながら小さく頭を振ります。


「それで呪いを受けている以上、俺の命は相手に握られてるようなものなので……今は支障ありませんが、いつ何時どうなるかは分かりません。呪いを解けるのは呪いをかけた本人だけですが、俺はもう霊峰に戻るつもりも資格もない。だからあなたに気持ちを伝えるのはやめようと思っていたのですが、まあ、エミリア先輩に言われてしまっては逆らえないので」


 情けなさそうに笑い、シオンさんは「でも」と目を細めます。


「トールさん、好きだって言ってくれてありがとう。俺と一緒にいてくれるのはうれしいです。でもこの傷がある限り、俺はいつかあなたに悲しい思いをさせるかもしれない。怖いならいつでも手を離してくれて構いません、元の調停師と依頼人の関係に戻るなら今のうちだと思います」


 真剣にこちらを見つめる瞳を、私はじっと見つめ返します。

 それから、きゅっと目を閉じて一歩踏み出し、傷跡の残る胸にそっと抱きついて身を寄せました。


「!? あの、トールさ、」

「……いつでも手を離して構わないなんて、言わないで下さい。私はシオンさんに手を離したいって言われても、もう大人らしく『いいですよ』なんて言ってあげられそうにないのに」

「……あ、俺も、自分で言ったくせに素直に承諾する自信は全然ないんですけど……」

「それに元の関係になんてもう戻れません。手遅れなんです、きっとずっと前から。私、うれしいことや楽しいことは何でもシオンさんと分け合いたいし、呪いがあるって言うなら、私も一緒に呪われたい。何も怖くなんかないです、離れること以外何も……」


 あいかわらず泣けないけれど、それでも喉の奥が締まるような苦しさに、私は口を閉ざしてただ温かな胸に身を預けます。

 シオンさんは悲しげなようにもそうでないようにも見える複雑な顔をして私を見下ろすと、おずおずと私の身体に手を伸ばし、離れないようにぎゅっと抱きしめてくれました。

 それにほっとして少し笑い、顔を上げてじっと見つめ合った直後────


「あれ? 鍵開いてる、トールちゃんいるんだたっだいまー、例の先日の書類隠蔽がバレて自宅謹慎を命じられたから私はこれから楽しい始末書地獄だよ、ってことでこないだ届いたワインボトル開けてもいいよ……ね…………うっわ」

「あ」

「み、みみみミーナちゃん!?」


 ドバーン、とまあ彼女にとっても自宅なのでノックもなく開いた扉、元気よく早退してきたルームメイトのミーナちゃんは、括っていた長い赤髪を景気よく解きながら流れるように状況・心情・要望を述べ終えて──


 そして玄関先でぽかんとしているよくよく考えれば上半身裸なシオンさんと、それにぴたっと抱きついて甘えている格好の私とを交互に見て、静かに再び退室しました。いやいやいや!!!


「み、ミーナちゃん誤解!!誤解です帰ってきて!!!」

「いやすみませんね邪魔をして……私のことは気にせずどうぞ続けて下さい、でもこんなまっ昼間からどうかと思います正直」

「やだ!初めての敬語やめて!軽蔑しないでください、濡れ衣です、シオンさんも何か言って!!」

「え!? えーと……同居人むすめさんを僕にください?」

「なんで火に油を注ぐんですか、っていうか何の本でそんな知識つけたんですかー!」


 とまあ大騒ぎになりましたが、とりあえず早急に服を着てもらいミーナちゃんを引き留め、今日からお付き合いを始めましたとの報告を無事に終えて事なきを得たのでした。……得たのでしょうか……?



 * * *



 ……しかし、同じ顔の人ということは、呪いをかけたのは双子の弟さん、ということでしょうか?

 それはまた悲しいお話です、私もこっそり往生際悪く呪いの解除を目論む身ですので、どうにか怒りを収める方法があればいいのですが……。


 じーーっとシオンさんの顔を見つめて、同じ顔をしていると言う誰かさんのことを思い悩んでいるとみるみるその頬が赤くなっていき、ついには背中を向けて読書を再開されてしまいました。

 む……いえ、邪魔をした私が悪いですね、読書は彼が呪われてもなお焦がれた夢なのです。

 というか私はシオンさんの恋人である以前に調停師なので公私混同はいけません、色々気になることはありますが、ただ黙してオーラを放つことに徹しましょう。


 さて私も先ほどまで続けていた書き物を再開しましたが、そもそも筆が止まったからシオンさんの横顔を眺めるに至ったことを思い出し眉根を寄せます。

 書き物は、一枚の便箋。弟、アルフレッドへの手紙です。

 仕送りと共に送っている手紙には心配をかけないよう私の近況も報告するようにしていたのですが、そうなると目下伝えなければいけないのはシオンさんのことなのです。


 ……でもアルフレッド、心配性なところがあるから、婚約を破棄したばかりなのにもう都会で新しい恋人が出来ましたーなんて知ったら騙されてると思って勉強に手が着かなくなるかも……私の男性を見る目、お恥ずかしながら全く信用されてませんし……。

 それにシオンさんの人となりを伝えるには、私の拙い文章では不十分だと思うのです。できれば直接会ってゆっくり紹介したいところですが……。


 私はさんざん頭を捻ってうーーんと考えに考えた末、結局シンプルな一文を添えて便箋を折りたたむことにしました。

 大切な人ができたから、いつか紹介させてね、と。



 * * *



 いつもの時間に図書館を出ると、空は曇り空であることを差し引いても既に暗くなりかけていました。


「わ、最近すっかり日が短くなりましたね。急ぎましょうか、夜道を歩かせたくないです」

「ああいえ、心配しなくても大丈夫ですよ。それよりお別れまでゆっくり歩きたいです」

「あーまたなんか可愛いこと言ってる……いや、ダメですよ油断しちゃ! 密猟者に襲われた時から全然警戒心が備わってないんだから……東区も夜はそれほど安全じゃないって聞いてますよ、俺が送って行けないせいですけど、もう少し用心しないと」

「ありがとうございます。気をつけますね、いざとなればエミリア先輩直伝の護身術を駆使します」

「吸血鬼拳法ですか……強そうですがトールさんの力こぶに何の説得力も感じないな……」


 フン、と拳を握って気合いを入れましたが、冷めた目で見下されてしまいました。うーん……。

 でもまあ、心配をかけるのは嫌です。私は大人しく馬車乗り場までの道を急ごうと一歩踏み出し、


「あ、」


 ぽつん、と鼻先を濡らした冷たい一粒に、反射的に空を見上げます。雨。

 なんて不運でしょう、タイミングが悪い……あまり強くなると馬車も出してもらえなくなりますし、髪や服が濡れるのも嫌です。せめて鞄の中の手紙だけはふやけないようにしたいですが……


 なんて顔をしかめて曇り空を恨めしく睨みつつ、ふうとため息をついて後ろにいたシオンさんを振り返り声をかけます。


「シオンさん、申し訳ありませんが少し足止めです。調停の延長料金は頂きませんので、屋根の下で様子を見て、止まないようであれば傘を借りて走って……」

「トールさん、見てください」


 ぽつぽつと早くなってきた雨脚にさっさと屋内に戻ろうとした私に対し、シオンさんは一歩もそこから動きませんでした。

 どころか、まっすぐに空を見上げ、体が濡れるのも少しも気にせず、両手をいっぱいに広げて、うれしそうに微笑んで口を開きます。


「雨です!」



 さあ、と降り注ぐ雨の音に、ふいに懐かしい木々の匂いが混じって、私は目を見張りました。


 私は雨に濡れた瞬間、不快だと感じました。迷惑だと。

 だけど子どもの頃、私たちの葡萄畑の葉を濡らし、日照りで乾いた土に染みこんでいく雨を見て、私の大切な人は、あんな風に両手を広げて笑ったのです。


 ────トール、見てごらん、雨だよ。


 あの頃の私はそれを聞いて、雨が降ってくれたことを心からうれしく思いながら、同じように笑ったはずなのに。



「……トールさん?」

「…………、さん……」


 冷たい雨が私の頬を伝う中に、温かな粒が混じって流れるのを、シオンさんは目を見開いて眺めていました。


「…………おかあ、さん……」


 ぽろぽろとこぼれていく涙が疎ましくて、私はきつく歯を食いしばりました。

 ──今泣くぐらいなら、どうして、ちゃんとあの時に。


 最後に泣いたのは母が死んだ日よりも前のことで、私は涙の止め方も覚えないまま大人になったことを後悔しながら、ただうつむいて肩を震わせていました。

 ……ああ、私は、もうあの村にいた、母の知る娘とは決定的に変わってしまったんですね。

 早く止めなければ、母の死より悲しい事なんてないのですから。

 こんなことで泣いていては母だってきっと…………


 ふいに肩を濡らす雨が弱まって、驚いて目を瞬きます。

 私に覆い被さるように抱きついてくれたシオンさんは、雨音に負けそうな優しい声で囁きました。


「大丈夫ですよトールさん、我慢しなくても」


 ぎゅっとさらに力を込めて、隠すように私の頭を抱きながら、シオンさんは言います。


「こうしていれば天国からも見えないから、だから今だけは、思いきり……」


 言葉を聞き終えるより前に、私はひっくと喉を鳴らしながらシオンさんの胸にすがりついて泣きました。


「…………お母さん、お母さん。お母さん、いや……」


 私は涙を止めようとしていたことも忘れて、ただ雨に紛れて泣き続けました。

 胸が張り裂けそうなぐらい痛かったけれど、シオンさんが何も言わず髪を撫でてくれる手が温かくて。


 いつの間にか止んだ雨と一緒に、やがて永遠に思えた涙も、不思議と止まっていたのでした。

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